6.緑の龍(1)
いつの間にか東の空が明るくなり、ついに“ワルプルギスの夜”は、明けてしまった。
サマエル様が、散会を指示すると、あれほどたくさんいた魔界人達も、人界のどこかにある
セラフィも、名残惜しげに天界へと還り、砂漠には再び静けさが戻ってきた。
でも、シンハはどこに行ったのか、まだ姿を現さない。
そのせいか、さすがのサマエル様も、今朝は顔色が悪かった。
……色々あったもんね、昨日は……。
二人だけで館に戻ると、サマエル様は言った。
「疲れたろう? 先にお休み。私はシンハを待っているから」
「はい。でも、サマエル様もお疲れでしょう? 顔色が悪いですよ。
彼を待たずに、もう寝ちゃったらどうですか?」
僕は言ったけど、彼は、首を横に振った。
「いいや、私は彼と話がある。
明日……いや、もう今日だね、授業はお休みにしよう。
そして、今日だけは、私の部屋へは近づかないで欲しい、分かったね?」
「分かりました。お休みなさい」
「お休み」
それから寝巻きに着替え、ベッドに入ったはいいけど、突然甦りかけた記憶のことや、コボルト達との出会いを考えてたら、眠れるわけがなかった。
おまけに、まだシンハは帰って来ないし、彼と話があるって言った時のサマエル様の眼はマジだったし……部屋へは近づくな、なんて言われたら。
何か起きそうで、落ち着かない。
それでも、何度も寝返りを打っているうちに、やっと、僕はうとうとした。
「ん……なんだ?」
どれくらい眠ったんだろう、僕は目覚めた。
僕を起こした、かすかな揺れ、それは地震なんかじゃなく、魔力の波動によるもののようだった。
疲れ切っていたけど、神経はとがっていたし、昨日の色んな経験で、僕の魔力のレベルも、上っていたのかもしれない。
「この感じは……火炎魔法? そうだ、これは昨日シンハが使ってた……。
やっと帰って来たのかな、彼。でも、なんで攻撃魔法を……?」
そうつぶやいた時、今度は、さっきより大きい振動が伝わってきた。
「まさか、ケンカしてるのかな、あの二人……魔法で?
けど、サマエル様の魔力は感じないな……?」
一瞬考えて、僕は起き上がり、服に着替えた。
部屋のドアを開け、そっと廊下に忍び出る。
来るなって言われてたけど、心配で、いてもたってもいられない。
サマエル様の気が、段々弱くなってるような気もするし。
そうだ、間違いない……!
……シンハは怒ってる。サマエル様は……とても悲しんでる……。
いつの間にか、僕の歩みはどんどん早くなり、しまいには全速力で走っていた。
この廊下を曲がると、サマエル様の部屋だ。
そう思ったとき、めりめりっと大きな音がして、何かが吹き飛ばされたのが見えた。
廊下を曲がった僕の眼に、飛び込んで来たのは。
「──あっ!? サ、サマエル様!」
ドアと一緒に飛ばされ、壁にたたき付けられたらしい、ボロボロになったサマエル様の姿だった。
顔も体も傷だらけ、髪はほどけて、口の端っこからは血が滴っている。
「シュネ、どうして……駄目だ、来てはいけない!」
「ど、どうし……わっ!?」
『──ガオオオン!』
吼え立てる声と一緒に、今度は部屋の中から、大きな燃えるライオンが飛び出してきた。
『グルルルル……!』
シンハは、背中の毛を逆立てて牙をむき出し、たてがみの炎は黒煙を上げて、河童を蒸し焼きにしたときとは比べ物にならないほど、熱く燃え盛っている。
いつも、黄金の輝きを炎のように宿らせた紅い瞳は、今は全部が金色になって、怒りのせいか、ぎらつく凶暴な光をたぎらせていた。
「来てはいけないと言ったろう!
こうなったシンハは、もう、誰のことも分からない、早く逃げるんだ!」
サマエル様は叫んだ。
「でも、それ、ひどいケガ……!」
「──行け!」
サマエル様が手を振ったとき、シンハが再び攻撃を仕掛けた。
「うわっ!」
体当たりされたサマエル様の口から血しぶきが飛び、ぐったりとなる。
どうして……?
サマエル様の力なら、簡単によけることも、反撃することだってできるはずなのに、
なぜ、やられっぱなしなんだろう。
僕は、夢中でサマエル様をかばい、両手を広げてシンハの前に立ちはだかった。
「やめて、シンハ! どうしたのさ、一体!
ホントに、サマエル様が分からないの!?
彼を殺す気なの──!?」
『──ガオオーンッ!』
ライオンは不服そうに鼻にしわを寄せ、歯をむき出して、床をかきむしった。
固い大理石の床に鋭い爪跡がくっきりと残り、そこから煙が上がる。
そして魔界のライオンは、ますますたてがみの温度を上げた。
「シンハ、正気に戻ってよ!」
熱さと恐ろしさで、僕の額から汗が滴った。
その途端、シンハの蛇のようにくねっていたしっぽの動きがぴたっと止まり、彼は体を低くして、獲物を狙う体勢を取った。
前に山の中で押さえつけられたときには、ちっとも感じなかったすさまじい殺気が、彼からほとばしっている。
それに影響されたのか、僕は頭の芯がジンと熱くなり、体の奥底で、巨大な何かがうごめき始めた。
──ヤバイ。
そう直感し、必死でそれを抑えようとしている僕目掛け、シンハの黄金の体が宙に舞い、飛びかかって来た。
「こ、来ないで!」
シンハ、元に戻ってよ──!」
僕が絶叫するのと、僕の力があふれ出るとは同時だった。
力は渦を巻き、まるで緑色の炎で出来た龍のようにくわっと口を開けて、魔界のライオンを飲み込もうと襲いかかってゆく。
シンハは、よける間もなく直撃を受けた。
『グワアーッ!』
叫び声と一緒に、彼は壁にたたきつけられた。
鈍い、嫌な音がして、そのままずるずると床に落ち、動かなくなる。
その衝撃で意識を取り戻したサマエル様が、よろよろと立ち上がり、シンハの動かない体に取りすがった。
「しっかりしろ! シンハ!
起きてくれ! 眼を、眼を開けてくれ……!
私を置いていかないでくれ……もう私を一人にしないでくれ、お願いだ!」
彼の声が、その言葉が、僕の熱くなった頭の中に響き渡る。
(『わたしを一人にしないで』誰かが言ってた……あれは……あれは、母さん……。
そうだ、“わたし”が……父さんを殺した……この力で……!
“わたし”をバケモノと呼んだのは……自殺した母さんだ……その時から僕は“わたし”であることをやめたんだ……。
──ああ……そして……僕はまた一人……殺してしまった……!
ごめんなさい……シンハ、サマエル様……)
急激に多量の魔力を放出した僕の体から、力が抜けていく。
薄れゆく意識の中で、僕はついに、自分の過去を思い出していた。
父親ゆずりのニンジン色の癖っ毛を、母がいつも二つのお下げに結ってくれ、それは彼女が走るたび、背中で元気よく跳ねていた。
少女の両親は、揃って腕のいい魔法使いだった。
そして、父はいつも『娘には魔法の才能がある、魔法学院に行けば、素晴らしい魔法使いになれる』と口癖のように言っていたが、少女は魔法なんてそんなもの、使えなくてもちっとも構わなかった。
元気な灰色の瞳に映る優しい母、少し厳しい父、仲良しの友達、海と空、明るい太陽、それらさえあれば、彼女は幸せだったのだ。
少女の七歳の誕生日、それは一変した。
父親は、とても機嫌がよかった。
数年来の研究の結果、もう少しで、娘の秘められた力を引き出すことが出来そうだったのだ。
だが、娘の力を引き出すことがどれほど危険なのかを、父親は知らずにいた。
彼は、自分の力を過信し、娘の力を導くことなど簡単だと考えていたのだ。
そして、危険に気づいたときは、手遅れだった。
少女の魔力はもう、人間では制御不能なほど強大になってしまっていたのだ。
用意されていた誕生日プレゼントが何であったのかを知る術は、もう、彼女にはない。
家は粉々に吹き飛び、大けがを負った母は、父の
ガレキの山の中に、ぼうぜんと立ち尽くす少女の耳には、母の言葉が鳴り響いていた。
『だから、やめてと言ったのに。あなたは、怪物を呼び出してしまったのよ!
ああ、あなた……
その瞬間、少女の中で時は止まり、記憶も封じ込められたのだ。
放浪しながら残飯を漁り、かろうじて飢えをしのぐ少女の前に現れたのは、人さらいだった。
彼女は鉱山に売られ、そこでコボルト達と会ったが、落盤事故に遭い、また
再び少女の時間が動き始めたのは、六年前、魔法学院の学院長に助けられてからだった。
人界で、魔法使いの長老格とされているネスターは、骨と皮だけにやせ細り、雪の中で死にかけていた少女の中に眠る魔力に、我知らず引き寄せられ、彼女を助けたのだった。
「シュネ、目を覚まして。起きてスープを飲みなさい」
「うーん……」
穏やかなその声に促され、深い水の底から浮かび上がるように、ぽっかりと、僕の意識は覚醒する。
僕は、自分のベッドに寝かされていた。
カーテンが閉じられた部屋はうす暗く、昼か夜かもよく分からない。
「……僕……どうしたんだっけ……うっ……」
何か、大事なことを忘れているような気がする。
胸が、頭が、締め付けられるように痛み、息が苦しい。
「目が覚めたね。……気分はどうかな?」
優しい声がもう一度聞こえた。
サマエル様が、僕の顔を覗き込んでいた。
「……頭が、胸も、痛くて……サマエル様……僕、は……?」
「キミは、三日も眠っていたのだよ、スープをお飲み。元気が出るから」
助けられて体を起こし、僕はスープを飲んだ。
つんとくる独特の匂いと味。
……前にどこかで……そうだ……。
「これ……魔法草、モリュのスープ……ですか?」
「その通りだよ。残さず飲みなさい」
頭の中に、霧がかかっているみたいだった。
僕は言われた通り、全部飲み干した。
「もう一度お眠り。それから話をしよう」
「は……はらし? ……ら……ん……ろ……?」
舌がもつれる。
スープに眠り薬が入っていたらしく、僕はまた、眠りに引きずり込まれていった。
僕の中に潜んでいる、恐ろしい怪物。
そいつは、いつか外に出てやろうと、いつももがいていた。
(──出て来るな!)
一生懸命僕は、そいつを押さえていた。
そのとき、遠くに紅い光が灯った。
輝きは徐々に近づいて来て、ライオンの姿になる。
(あれはシンハ……来ちゃいけない、怪物が、キミを……殺してしまう!)
叫んだけど、声は出ない。
代わりに、僕の体から緑色の炎の龍が飛び出して、彼に襲いかかってゆく。
(シンハ、逃げて!)
「──シンハ! 眼を開けて……私を一人にしないでくれ……!」
倒れた彼に、サマエル様がすがりつく。
でも、炎のたてがみの勢いはどんどん弱くなり、やがて、ふっと消えてしまった。
『……殺したな……人殺しだ!
──お前は人殺しなんだ──!』
大きな声が辺りに響き渡った。