~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

5.ワルプルギスの夜(5)

「え、誰……?」
顔を上げると、目の前にいたのはヴェパルだった。
間近で見た彼女の瞳は、透き通った海の水を(たた)えたような青。
そして、その青の中には、深い深い悲しみが、閉じ込められているような感じがした……。

“今話しかけてきたの、キミ?”
念話で尋ねてみたら、彼女はうなずいた。
“その河童だけじゃない、わたくし達、殿下のお側近くにいられるあなたが(ねた)ましいのよ。
皆、噂してるわ、サマエル様を、人間の女に取られるのかしらって“

僕は首をかしげた。
“……人間の女に取られる? キミ、何が言いたいの?”
すると、ヴェパルはちょっと苛立ったように、きれいな顔をしかめた。
“つまり、わたくしが言いたいのはね。
いくら魔力が強いからと言って、サマエル様が、人間のあなたを奥方としてお迎えになるのなら、わたくし達、魔族の女の立場がない、ということよ”

“サ、サマエル様が、僕を奥さんにするぅ!?”
危く僕は、ひっくり返るところだった。
慌てて体勢を立て直し、僕はまくし立てた。
“ちょ、ちょっと待って、冗談じゃない、ひどい誤解だよ!
ぼ、僕は、ただの押しかけ弟子なんだってば!
だ、大体ね、サマエル様は、ダイアデムに、シンハに夢中なの!
今日だって、ずっとずーっと、彼のことばーっか考えてて、周りが見えないくらいなんだよっ!
ぼ、僕は、だから──ぜんっぜん関係がないんだ、ど、ど~してそんな話になっちゃうのかなぁ、もぉ、信じらんない!”

僕が思いっきり否定したら、ヴェパルも眼を見開いて、口に手を当てた。
“あら、まあ、そうだったの、よかった! 皆、ほっとすると思うわ。
それにしても、あなたの念話は、とても明瞭に聞こえる……人間とは思えないほど強い力ね、まるでリオン様のようだわ。
まさか……ああ! 『そう』なのですね、あなた様も……!
では、わたくし、皆にこのことを伝えておきますわ、これで、シュネ様に手を出す不届き者はいなくなりますから、ご安心下さいませ”

いきなりヴェパルの態度が変わって話し方もていねいになり、僕は眼をぱちくりさせた。
“ど、どうしたの、キミ、急に。
それに、何が『そう』なわけ? リオンのようって、どういう……”

「──わっ!?」
いきなり顔に冷たいものがかかって、僕は飛びのいた。
横たわる河童のすぐそばから、水が勢いよく吹き出したんだ。
そのしぶきがヨサクにかかると、体の緑色はますます鮮やかになってゆく。

「これでよろしいでしょうか、殿下」
僕に話し掛けてた様子も見せず、ヴェパルは、サマエル様にお辞儀をした。
「ああ、ありがとう。
後は邪魔はしない、祭りを楽しんでくれ」

「あ、殿下、その……」
言いかけて、ヴェパルは途中でやめてしまう。
「何かな? 今日は祭り。無礼講だ。遠慮せず、何でも言ってご覧。
他の者に聞かれたくないなら、念話でも構わないよ」
サマエル様は、とても優しい微笑を浮かべ、彼女を促す。

ヴェパルは息を呑み、震える唇を少し開いた。瞳がさらにうるんで見える。
もう少しで、何か言い出しそう……。
でも、結局、彼女は口を閉じてしまい、悲しげに首を横に振った。
「……いいえ、何でもございません。
お役に立てて、光栄でございました……殿下のご多幸を、心より願っております」
「ヴェパル……?」
首をかしげるサマエル様に、彼女は胸に手を当てて頭を下げ、湧き出す水の中に溶け込んでいこうとする。

“あ、待ってよ、ヴェパル! 話をもっと聞かせて!”
“シュネ様、サマエル殿下と『焔の眸』閣下をよろしくお願い致します……”
海の精は、僕の呼びかけにそう答えただけで、すうっと姿を消してしまった。
でも、その眼差しは、最後までサマエル様に向けられていた。

彼女は、何を言いたかったのかな。
遠慮しないでって言われたのに、どうして黙って消えちゃったんだろう。
何かで頭が一杯って感じで、僕の質問にもちゃんと答えてくれなかった。
けど……そういえば彼女、リオン“様”って呼んでたな。
リオンが、サマエル様の息子……みたいなもの、だから?
あれ? でも、僕にまで“様”をつけてたよね? 僕がサマエル様のお弟子だから?
ううん、違う、最初は、ていねいな言葉遣いじゃなかったもの。
う~ん、“リオンみたい”って一体どういう意味だろ……。

僕は、頭をひねったけど、見当もつかなかった。
ま、いっか。そのうち分かるかも知れないし。
だけどサマエル様って、モテるんだな。
当たり前か。カッコよくて優しくて、しかも王子様なんだもんね。
魔族のあこがれのアイドル、ってとこかなぁ?

そう考えてる間にも、水はどんどん噴き出し続けて、少し離れたところに避難していた僕の足首まで、水に漬かるほどになっていた。
ヨサクの体は完全に沈み、小さな泡が口から出て来始めた。
「……ゴボ、ゴボ……う、あ、ああ?……」
ついに河童は息を吹き返して、眼を開けた。

「ヨサク、気づいたのね!? 生き返ったのね!?
よかった、よかった……わあああっ!」
河童の少女はヨサクに取りすがり、また大声で泣き出した。
「おや? ミヤコ……? オレは……一体……」
男の河童は起き上がり、あっけにとられたように辺りを見回す。

「バカ! 飲み過ぎちゃダメって、あれほど言ったのに!
殿下のお弟子の方に勝負を仕掛けるなんて、一体どういうつもりなの!?
シンハ様に、殺されちゃったと思ったわ!」
「……え、そんなことが、あったのかい……?」
ヨサクは、首をかしげた。

「あっきれたなー。あんな騒ぎを起こしといて、全然覚えてないなんて」
僕が言ったら、隣にいた天使も眉をひそめていた。
「本当ですね。まったく、酔っ払いときたら、始末に終えません」
そしたら、ミヤコが、男の河童の顔を思い切りひっぱたいたんだ。
「なに、寝ぼけたこと言ってんのよ!」

「痛てえっ、何すんだ!」
「なにが痛いよっ! 死ぬほど心配したんだから! バカ、バカ!」
彼女は顔を真っ赤にし、ヨサクの胸にしがみついて泣きじゃくり始めた。
ようやく事態を飲み込んだらしい河童の男は、水掻きのついた手で、恋人の頭を優しくなでた。
「ごめん、ミヤコ……俺、また、心配かけちまったようだな……」

あんなに真っ黒焦げで、もう絶対ダメだって思ってたのに、よかったな。
困り者の酔っ払いだけど、死んじゃったら可哀想だしね。
でも、さすがに魔界の王子、サマエル様の魔法は、やっぱりすごいなあ。
砂漠全体に結界を張った上に、どう見ても死んでた魔物を復活させたりも出来るんだもの。

しばらくすると、ヨサクは、ミヤコの肩を借りて立ち上がれるくらいにまで元気になった。
「サマエル殿下、本当にありがとうございました」
女の子の河童は、ぺこりと頭を下げ、それから彼氏を急かした。
「ほら、あんたもお礼と、それから、シュネ様にはお詫びを言うのよ!
早く!」
この調子じゃ、ヨサクは、ミヤコの尻に敷かれているんだろうな。
僕は、笑いを噛み殺した。

「わ、分かってるよ、あ、あの、殿下、ありがとうございました、それから、どうもすみません!
オレ、飲み過ぎるといつも記憶なくなっちまって……さっきのもよく覚えてなくて……また何か、とんでもないことやらかしちまったようで……ホント、申し訳ありませんでした!」
河童の男も深々と頭を下げる。

「これにこりて、お酒は控えるのだね、ヨサク。
ああそうだ、ミヤコ、これを……」
サマエル様は微笑み、彼女に何かを渡す。
それは、紅い宝石が一つはめられた、細い金の腕輪だった。

「これは……?」
「キミを泣かせてしまったからと、シンハが私に預けていったのだよ」
サマエル様は微笑む。
でも、シンハはいつ、渡したんだろう。
二人のすぐそばにいたのに、全然、気づかなかった。

「ご迷惑をおかけしたのに、こんな素晴らしい物……。
ダメです、頂くわけには」
返そうとする彼女の手を、サマエル様は優しく押し戻した。
「いいから受け取ってくれ、シンハの気持ちだから。
それに、これを見るたび今日のことを思い出して、今度こそヨサクも酒を控える気になるだろうさ」

「あ、はい、もう酒は……」
サマエル様の言葉に、男の河童はバツが悪そうに頭をかいた。
それを横目で見ながら、ミヤコはうなずく。
「そうかも知れませんね……では、頂いていきます。
シンハ様にお詫びと、ミヤコがお礼を申し上げておりましたこと、お伝え願えませんでしょうか」
「ああ、伝えておこう」

「では、あたし達はもう帰ります、改めてお礼とお詫びを……サマエル様、シュネ様、せっかくの“ワルプルギスの夜”をお騒がせ致しましたこと、申し訳もありません。
そして、ヨサクを助けて頂きましたご恩、一生忘れません、ありがとうございました!」
「ど、どうもすみませんでした……ありがとうございました」
二人の河童は、また深々と礼をした。
それから、何度も振り返ってはお辞儀をしながら、彼らは連れ立って、砂漠を去っていった。

その後のサマエル様は、僕やセラフィが何か話しかけても、上の空だった。
多分、シンハと、彼の選んだ美人のことを考えているんだろう。
天使は苦笑いして、念話でこっそり僕に言った。

“『カオスの貴公子』ともあろうお方が、本当に彼に夢中なのですねぇ……。
まあ、お気持ちは、よく分かりますけれどね。
わたくしでさえ、人界に来るときには、彼にお会いできるのを楽しみにしているのですから。
それに、ここだけの話ですが、『焔の眸』……彼の本体には、天界にまで隠れたファンが大勢いるのですよ”
“へえ~、天界に隠れファンがいるの? 敵同志なのに?”
僕は少し驚いた。

“ええ、実は、『焔の眸』殿を、天界に連れて行こうという話もあったくらいで……”
“ふーん。あ、ごめん、僕、ちょっと疲れちゃった。
あそこで、少し休んで来るから”
僕はすぐ近くにある、大きな岩を指差した。
“大丈夫ですか? わたくしがご一緒に……”
“いや、悪いけど、僕ちょっと、独りになりたいんだよ”
そう断って彼から離れ、僕は岩に向かって歩き出した。

天使はまだ話をしたかったようだけど、忘れてしまった過去を思い出せないもどかしさで、頭が変になりそうになっていた僕は、サマエル様やダイアデムのことなんか、この際、どうでもよかった。
静かなところで、独り、落ち着いて考えてみたかったんだ。

日差しを避けて岩陰に座り込み、じっくりと考えを巡らす。
うーん、何だったんだろう……あの映像……。
いつ、どこで起きたことだったんだろう……もう少し、もう少しで……ああ、何かきっかけがあれば……。

けれど、思い出そうと頑張ると、頭がまた痛くなってきた。
唯一の手がかりのあの映像も、考えれば考えるほど他の記憶とごっちゃになり始めて、ますますわけが分からなくなってくる。
「……思い出せないなー、やっぱり……」
僕はつぶやき、途方に暮れて、ため息をつくばかりだった。