5.ワルプルギスの夜(4)
「あぶない!」
天使が僕をかばった、その時。
『──ブリムストーン・ファイア!』
重々しい呪文の詠唱と一緒に、水柱が目の前で消滅した。
『この──
四つ足で大地を踏み締め、紅く輝く瞳で、河童を
『魔界に於ては、強さが
しかも、シュネが、“カオスの貴公子”、サマエルの弟子と知っての上での
いかに、無礼講の祭りの宵と申せども、かような振る舞いは
汝の命を
そう叫んで、シンハは河童に飛びかかっていった。
「──うぎゃっ!」
僕も、押さえつけられたことがあるから分かるけど、シンハの力はものすごい。
巨大なライオンにのしかかられて、河童は情けない悲鳴を上げた。
「お、お放し下さい、お、お許しを……! シ、シンハ、様……」
許しを請いながら、河童がどんなにもがいても、彼を跳ねのけることは出来なかった。
「やめて、もういいよ、シンハ!」
僕が止めても、彼の怒りは、静まりそうもなかった。
『もはや遅い、たとえ汝が許そうとも、魔界の象徴たる我は許せぬ!
末期の祈りでも唱えるがよい、愚かな水妖よ!
──アウト・ダフェ!』
怒ったまま、シンハは、“異端者の火刑”という意味を持つ呪文を唱えた。
やばい、前に習ったけど、あの魔法は……。
「シンハ、その魔法は駄目!」
叫んだけど、間に合わず、シンハの体から黄金の炎が勢いよく噴き出して、緑色をした魔物を飲み込んだ。
「ぎゃあああ──!」
河童の体は、とても水っぽいのに、シンハの高温の炎はそれをもろともせずに、みるみる水分を蒸発させていく。
そしてすぐに、焦げくさい臭いが辺りに立ち込め始めた。
「あつ、熱い! 助け、て……!」
「──いやあああ! ヨサクが死んじゃう! おやめ下さい、シンハ様!
お願い、やめて!」
叫び声がしたと思うと、どこからかもう一人、河童が現れて、シンハに取りすがろうとした。
「危ない! あなたも巻き込まれますよ!」
天使が、危うく、その女の河童を引き留める。
「──放して! ヨサク、ヨサク!
彼を殺さないで──!」
女の河童は、死に物狂いで暴れ、声は悲鳴のようだった。
でも、興奮したシンハの耳には、彼女の声は届いてないみたいだ。
僕が止めようにも、炎の勢いが強過ぎて、彼に近寄ることも出来ない。
とっさに、僕は心の声を使って、思い切り叫んでいた。
“──シンハ、もう、やめてってばっ! その河童、ホントに死んじゃうよ!
僕も天使も、何ともなかったんだから、殺しちゃダメだってっ!“
そうしたら、やっと、僕の声は彼に届いたようで、ごうごうと音を立てて燃え盛っていた炎が、ふっと消えた。
ライオンの周囲は茶色く焦げて、もうもうと煙が出ている。
「ヨサク!」
けれど、そんな熱い砂をまったく気にも止めず、河童の少女は裸足のままで、酔っ払い河童が倒れている場所に突進した。
僕も、急いで後を追う。
「ひ、ひどい……」
「わ、な、なに、これ……?」
けれど、ようやく煙が晴れたとき、そこにあったのは、それが以前、河童だったと言われなければ分からないほど変わり果てた、真っ黒い
「……こんな……ヨサク、これがあなたなの?
ど、どうして──ああああ──!」
魔物の少女は、男の河童の体に取りすがり、大声で泣き出した。
その子が泣くたびに体から滴る水と涙が、まだぶすぶすとくすぶり続けている焼け焦げた体にかかり、じゅっと音がする。
恋人同士だったんだろうか、この二人。
(あれ、でも、これ……前に見たことあるような……)
僕は首をひねった。
──うん、たしかにどこかで、こんな光景を見た気がする。
そのときだった。僕の脳裏に、何かの映像が
小さな僕が、誰かに取りすがって泣いている。
その相手はぐったりしてて、全然動かない。多分、死んでいるんだろう。
(あ、もしかして、これ、僕の、昔の記憶……?
……でも、いつ、どこで、誰が死んだときだったんだ……?)
僕は、必死に、その映像に眼を凝らす。
そのときだった。
突然、頭が激しく痛み出したのは。
(いたた、痛い……!
もう少し、思い出せそうなのに……この、頭痛が、邪魔を、して……!)
「思い、出せない……い、痛、頭……頭が、割れちゃいそう、だぁ……!」
頭をかきむしってもがいた瞬間、ひんやりとした手がおでこに当てられ、
すうっと痛みが遠のいた。
「大丈夫かい、シュネ……どうしたのだね?」
眼を開けると、心配そうな表情を浮かべた魔界の王子サマエル、僕のお師匠の顔があった。
「……サ、マエル、さ、ま……」
「シュネ、しっかり。まだ痛むのかい?」
冷たい汗をかき、全身から力が抜けて倒れそうになる僕を、彼は支えてくれた。
「い、今、何か……見えて、何か、思い出せそう、だったけど……ダメ、でした……」
「そうか……。
だが、無理はしない方がいい。また横になって休みなさい」
「いえ、大丈夫です……頭痛も治ったし、もう、平気です……」
額の汗をふきながら、顔を上げる。
そしたら、シンハと眼が合った。
彼はじっと、僕の様子をうかがっていたんだ。
やっぱり、彼も、心配してくれていたみたい。
大したことがないと分かると、彼はぶるんと頭を振り、女の人に歩み寄っていった。
『待たせたな。とんだ茶番だったが』
「いいえ、ですが、あの河童は……?」
『気遣いは無用。サマエルが始末をつけるであろう』
「……まあ」
シンハの言葉に、相手の女性は、わずかに眉をひそめた。
(うっわー、美人! なんてキレイなんだろう、あの人……!)
とっさに、僕は記憶のことも忘れ、声を上げそうになった。
シンハと話していた女性は、前にダイアデムが好みだと言っていた通りの、すばらしいプロポーションと、そして美貌の持ち主だったんだ。
優しげな細い眉の下にある、長いまつげに半ば隠されたオリーブグリーンの瞳はどこか物憂げにシンハを見つめ、すんなりとした鼻筋、形のいい唇は血のように紅い。
地面に付きそうなほど長い、細かなウエーブがかかったサファイア色の髪、薄緑の上品な長いドレス、その胸元から覗く豊かなバスト。肌は浅黒くて、なめらか。
まるで、お人形みたいだった。
(……あ、でも……)
振り返ると、案の
『それでは参ろう。我が背に乗るがいい』
「はい、それではサマエル殿下、失礼致します」
美女は、サマエル様に優雅なお辞儀をしてみせてから、彼に乗る。
でもシンハは、こっちを見ようともしない。
そのまま、勢いよく走り出し、すぐに僕らの視界から消えてしまった。
僕に見られているのに気づいたサマエル様は、ゆっくりとした動作で、はねのけていたフードを再びかぶった。
僕は……サマエル様に、なんて声をかけてあげればいいのか分からない……。
──たしかに、その人もキレイだけど、美人度で言ったら、サマエル様の方がずっとずっと上だぞ、シンハのバカ、鈍感!
僕は、叫びたい気分だった。
「さあ、皆様、これで余興は終わりです。
サマエル殿は少々お疲れですので、少しお休みになられてから、またそちらへ参られます。
それまで、皆さんだけで、楽しんでいらして下さい。
ほら、あちらの方が、にぎやかですよ」
セラフィが気を利かせて、ヤジ馬連中を解散させてくれたので、僕らはほっとした。
「サマエル殿下、お騒がせして、申し訳ありませんでした……。
……この人を……ヨサクを、連れて帰ってもよろしいでしょうか……」
あふれる涙をぬぐおうともせず、焼け焦げた恋人の体を胸に抱いたまま、河童の少女が頭を下げた。
「この人は、いい人なんです、普段は……。
でも、お酒が過ぎると、人が変わったようになってしまって。
酔った勢いで、殿下のお弟子の方に勝負を仕掛けるなんて……その上、あんな卑怯なこと……。
ああ……でもあたし……彼が好きだったんです……」
ぽろぽろ泣きながら、彼女は言う。
「そうか……ああ、キミ、まだ名前を聞いていなかったね……」
サマエル様は、夢から覚めたような顔で、少女の河童に尋ねた。
「ミヤコと言います……」
「では、ミヤコ、安心しなさい。シンハは、とどめを刺してはいないのだよ。
彼を、もう一度、そこに寝かせてごらん」
「え? はい……」
河童の少女は、きょとんとしながらも、その言葉に従う。
僕も不思議に思って、河童のそばにひざまずいたサマエル様の手元を覗き込んだ。
僕らのいぶかしげな視線の前で、サマエル様は、河童に手をかざし、呪文を唱え始めた。
「──遙かなる
その力を継ぎ、“カオスの貴公子“の称号を受けし我が望みを叶えよ……!
我が
──メンズ セイナ イン コーパリ セイノウ!」
すると、目の前に寝かされていたヨサクの黒焦げの体が、ぴくりと動いた。
「あ……ヨサク!?」
見る間に、河童の焦げた体が、元の緑色を取り戻してゆく。
「よかった、シンハが加減してくれたお陰で、やはり彼の魂は、体から離れていなかった。
……だが、この姿では……これが限界だな……。
──出よ、ヴェパル、水妖の女王よ! 我の
「お呼びでございましょうか、“カオスの貴公子”、サマエル殿下」
サマエル様の呼びかけに応じて、どこからか魔族の女性が現れ、目の前にひざまずいた。
多分、この人、海の魔物なんだろう。
からみつく海草のような
ほっそりとした首とヒレ状の耳に、大粒の真珠のアクセサリー。
そして、指の間には水掻きがあるし、青白く濡れた肌には、うろこが生えている。
彼女は、訴えるようにサマエル様を見つめていた。
その海色の瞳が、うるんでいるように思えるのは、僕の気のせい?
でも、この人もやっぱり美人。魔族ってきれいな人が多いなぁ……。
あ、でも、河童の女の子は、僕と大差ないけど。
「祭りの日に、呼び立ててすまないね。
この河童の青年を、同族のよしみで助けてはもらえないか?
砂漠全体に結界を張っていて、魔力が足りないのだよ」
サマエル様が言うと、魔族の女性はしとやかにうなずいた。
「はい、愚かな水妖ではありますが、それでも我が
──アクイファー!」
彼女が両手を上げて唱えると、地面のどこか深いところで地響きがして、地面が揺れ始めた。
“……うらやましいわ、あなた”
それと同時に、寄せては返す波のような、ため息にも似た静かな声が、僕の心に流れ込んで来たんだ。