~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

5.ワルプルギスの夜(2)

「その声は、セラフィか」
ざわめく魔物達とは対照的に、サマエル様もシンハも、まったく動揺を見せない。
清々しい光が消えたとき、それに運ばれて来たように、舞台上に現れたのは……豊かな髪を、輝く金色の滝のように背に流し、清らかな白いローブを着て、純白の翼を生やしている、一人の天使だった。

「はい、わたくしでございます。
誠に無粋とは存じましたが、本日の“ワルプルギスの夜”のお目付役を、天界を代表して仰せつかりまして、まかり越しましてございます」
深々と、天使はお辞儀をした。

天使って、絵本に出てる通りの姿をしてるんだなって、僕は感心したけど、魔物達は、逆に怒り出した。
「何のつもりだ、くそ天使!」
「出て行け、死神!」
「還れ、還れ!」

罵声(ばせい)が浴びせられ、下から上から、天使に物が投げつけられる。
でも、結界が張られているんだろう、何も当たらない。
天使は平然としていた。

「くそぉ、このめでたい日に、死神の監視つきじゃ気分が出ねえ!
サマエル様、そいつをたたんじまって下さいよ!」
舞台の下から、そう声がかかり、あちこちから賛成する声が上がった。
「そうだ、そうだ!」
「やっちまえ!」
「いや、俺達でやっちまおうぜ!」

「──静まれ、皆の者!」
サマエル様は、ライオンを従えて舞台に戻り、大きな声で皆を黙らせた。
それから、サマエル様は天使に言った。
「セラフィ、説明を」

天使は、うやうやしく頭を下げた。
「はい。わたくしの今回の任務は、あなた方が羽目を外し過ぎて、人間に危害を加えないよう監視する、それだけでございます」
「本当に、それだけか?」

「はい。わたくし一人で、何が出来ましょう。
せっかくの楽しみに水を差すのはやめるよう、進言致したのですが、頭の固い方々が、承服致しませんでしてね。
筆頭は、無論、ミカエル様ですが。
十四年前、すっかり株を下げたあのご老体ですが、まだ、しぶとく頑張っておられる。
まあ、お陰で、名高い“ワルプルギスの夜”を、見学させて頂けるわけですが」
青い瞳をいたずらっぽく輝かせ、天使は微笑んだ。

「そうか」
サマエル様は、うなずき、魔物達に向き直って、また声を張り上げた。
「──聞いた通りだ、皆の者!
天使は、監視役に徹するそうだ、お前達も、天使には手を出さず、羽目を外し過ぎぬように!
それでは、今度こそ、“ワルプルギスの夜”を始める!」
再びどよめきが起こる。

「サマエル様!」
舞台から下りて来た三人に、僕は駆け寄っていった。
「ああ、紹介しておこう。
セラフィ、こちらはシュネ、近頃弟子にした子でね。
シュネ、セラフィだ。昔から、何かあると、彼が派遣されて来るのだよ。
そのお陰で、我らとは、すっかり顔馴染みだけれど」

サマエル様に紹介された天使は、僕に向かっても、優雅なお辞儀をしてみせた。
「初めまして、セラフィでございます。
人界の言葉に訳せば、熾天使、つまり、“最高位の天使”と言う意味になります。
サマエル殿のお弟子ならば、これからも、たびたび、お目にかかる機会があるかも知れませんね、よろしくお願い致します」

「あ、あの、ど、ども、こん、ちは。は、初めまし、て」
僕は、どうも、こういう堅苦しいあいさつは苦手だ。
ぎこちなく頭を下げた僕に、セラフィは優しく微笑んだ。

“サマエル様が、お弟子を取るとは、お珍しい。
だが、たしかに、彼が弟子にするだけのことはある。
人間にしては、なかなか強い魔力を持っておいでだ……”
その時、どこからか、不思議な響きの声が聞こえて来たんだ。

この感じ、どこか覚えがある。
僕は、キョロキョロ辺りを見回した。
「え? 強い魔力? どこから聞こえるんだろ、この声?」
思わず、そう声が出た。

天使は眼を丸くした。
「これはすごい、わたくしの心の声を、お聞きになったのですね」
「え、心の声……?」
……って、そうか、サイクロプスやケルベロスの時と同じだ。

「自分に直接向けられていない念話を受け取る術は、彼女には、まだ教えていなかったのだが、この場に、影響されているのだろうな。
魔これほど強力に、力の波動が重なり合う時と場所は、久しく人界にはなかったことだしね」
サマエル様が、そう言ったら、セラフィの声が、再び聞こえて来た。
“困りましたね。実は、内密のお話があるのですが……”

“心配無用、シュネは、軽々しく他言する娘ではない、()く用件を申すがよい”
それまで黙っていたシンハが、話に割り込んで来た。
「ええ、僕は誰にも言いません、安心して下さい」
僕が同意すると、今度は、サマエル様の心の声が聞こえた。
“ちょうどいい機会だ、シュネ、念話を使って話してみなさい”
「え、で、でも、どうやって……?」
“意識を集中させて、心に相手を思い浮かべ、語りかけてご覧”

そこで、僕は眼をつぶり、心の中で言ってみた。
“こう……ですか? サマエル様”
“うまいぞ、キミは覚えが早いね”
“そ、そうですか?”
褒められて、僕はうれしかった。

“それでは、まず、ご報告の前に、一言申し述べさせて頂きます。
シンハ様、このシェミハザ、ご無事に復活なされましたことを、心よりお祝い申し上げます。
魔界の至宝であらせられる『焔の眸』様……唯一無二の存在である比類なき美しさのあなた様に、こうして再び拝顔の栄を(たまわ)りますことは、わたくしにとりましても、この上なき喜びでございます。
本来ならば、もっと早くに、お祝いに参上致すべきところではございましたが、何分、諸事情もございますゆえ、かように遅参(つかまつ)りました、ご容赦下さいませ”

長くて、ややこしい言い回しなのに、一度も引っかからずに天使は言い、胸に手を当てて礼をした。
きっと、いつもこんな感じで、しゃべってるんだろう。
でも、復活ってどういうことだろう。後で訊いてみようと、僕は思った。

黄金色のライオンは、紅い眼を細めた。
“我の蘇生など、さほど喜ばしきものでもあるまい。
されど、汝も息災で何よりだ。反逆の熾天使、シェミハザよ”
「は」
天使は、シンハに礼を返し、それから僕を見た。
“シュネさん、実はわたくしは天界を裏切り、魔界に味方する者でございます。
本名は、『シェミハザ』と申しますが、普段は、『セラフィ』とお呼び下さい。
真の名を明かすことは、天界では禁じられておりますので”
その顔は、ものすごく真剣で、僕はごくりと生唾を飲み込んだ。
“わ、分かりました”

“それで、話と言うのは?”
サマエル様が尋ね、シェミハザはまた、ていねいに頭を下げた。
“先ほど申しました通り、ミカエルは未だにしぶとく、天界での発言権は有しております。
ですが、これは、長年に渡る功労への報奨と申しますか、年功序列の名残りとでも申すべきもので、あやつの影響力は確実に落ちて来ております”

サマエル様は微笑んだ。
“その分、お前がやりやすくなっているわけで、まずはめでたいね。
だが、なぜ、お前が今回の監視役を?”

“実は、任命された大天使が、あなた様のお力を恐れて、次々辞退致しましてね。
最後には、『前回の惨劇から生還したのだから、お前なら大丈夫だろう』と、わたくしに泣きついて来たのでございますよ”
“……おやおや。大天使ともあろう者が、情けないね”
サマエル様は肩をすくめた。

“まったくですが、大っぴらに魔界と連絡をつけることができる絶好の機会と、引き受けた次第でして。
連中に、恩を売ることも出来ますしね。
無論、疑われぬよう、散々渋って見せましたが。
しかし、なり手がないのでしたら、無理に監視などしなくても、と思うのですがねぇ”
熾天使は苦笑した。
“天界にも、体面があるのだろうさ”
サマエル様は、素っ気なく言った。

そのとき突然、シンハの体が紅く輝いた。
「さ~て、これで、うだうだ話は終わりだろ?
明日の朝まで好きにしていい、って約束だったよな、オレ、もう行くよ。
あー、どの娘がいいかなぁ、楽しみだなあぁ!」
ダイアデムは浮き浮きした口調で言って、紅い髪をなびかせながら、すごい勢いで、雑踏の中に駆け込んでいってしまった。

サマエル様は無言で、しばらく、彼の後ろ姿を見送っていた。
「あの、サマエル様……?」
僕が、そっと声を掛けると、彼は我に返った。
「ああ……シュネ、少し、その辺を回ってみるかい?
なかなか面白そうだ」
「はい。でも、いいんですか?」
「仕方がないよ、せっかくのお祭りだし……」
そう言いながら、サマエル様の表情は、いつもよりちょっとこわばっているみたいだった。

「手を焼いておいでのようですね」
天使が気の毒そうに言う。
サマエル様は、自嘲気味に笑った。
「ふふ、“乗りこなすのが難しい馬ほど名馬”と言う(ことわざ)を知らないか、セラフィ?
ああそうだ、お前は私のそばにいた方がいいな。
釘は刺しておいたが、魔族は全般に血の気が多い。
ましてや祭りとなると、気が大きくなる者も出るだろうから」
御意(ぎょい)。お供させて頂きます」

僕らは、三人で歩き始めた。
辺りは、色々な魔物達であふれ返っていた。
僕らを従えてサマエル様が彼らの中を行くと、ざわめきが一瞬止まり、皆がさっと分かれて、目の前に道が出来る」んだ。
それから、歓声とため息が上がる。
大昔はたくさんいた魔物が、あまり見られなくなってずいぶん経つから、最近では伝説になりつつあった。
だから、僕は、こんなにたくさんの魔物がまだ人界にいたなんて、夢にも思わなかった。

「サマエル様バンザイ!」
「ワルプルギスの夜!」
「サマエル様ぁ!」
「おい、見ろよ、ありゃあ人間だぜ、何でこんなところにいるんだ?」
誰かが、僕を指さしてそう言ってる。
すごい騒音の中で言葉が聞き取れるのも、さっき覚えたばかりの、心の声を聞く術を使っているから。
だけど人混みに酔ってしまったのか、僕は何だか目が回って、段々気分が悪くなって来た。

「このお方が、サマエル殿下か。
兄君の魔界王陛下と、双子のように似ておいでだとは聞いていたが、これで髪色が銀でなく、黒ならば本当に瓜二つで、見間違えそうだ」
「でも、陛下には、頭に立派な角が二本生えてなさるだろ。弟王子様は額に一本だけだし、簡単に見分けはつくよ」
「わしが言ってるのはだな、お二人のお顔がそっくりだと……」

「素敵ねぇ。サマエル様には、奥方はいらっしゃらないんでしょう?
わたしがなれたらな……」
「あ~ら、あんたなんか絶対無理よ、サマエル様に見合う美しさでなければ」
「まあ、ひどい。でも、あの方は、見かけで判断はなさらないと聞いたわよ。
最初の奥方様は、ぱっとしない娘だったし」
「ふん、あんた、鏡見たことあるの? 限度ってものがあるでしょ」
「まあ、自分のこと棚に上げて……!」

僕の心に、方々から色んな魔界人達の声が飛び込んでくる。
もしかしたら、気持ち悪いのはそのせい?

「あんな風に、人間と天使を引き連れて歩かれる姿は、まるで三界の王のようね……」
「王位継承権を失くされたりしなければ、失礼ながら、タナトス陛下よりもずっと、魔界王にふさわしいお方と評判だったのだがな……。
サマエル様がみずから継承権を捨て、人界に来た理由をお前、知ってるかい?」
「いいえ、知らないわ。教えてよ」

僕も知りたい……そう思ったけど、僕の意識は僕を見捨ててしまい、次の瞬間気を失ってしまったので、とうとう、答えは聞けずじまいだった。

まかり越す【罷り越す】 「越す」(行く、来るの意)の謙譲語。参上する。参る。