~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

4.夢飛行(3)

広い屋敷を、僕は、力一杯走った。
でも、なかなか玄関に着かない。
建物の中なのに、遭難しそうな気分だった。

あ、……もしかして僕、逆走してる?
そう気づいて足を止めた途端、力が抜けて、僕は、広い廊下の真ん中にしゃがみ込んでしまった。

息を整えていたら、向こうから大きな生き物がやって来るのが見えて、僕はぎくっとした。
“しゅね。ドウシタノダ?”
また別な魔物が来たのかと思ったら、話し掛けて来たのは銀色の狼だった。

「あーん、ケルベロス、ケルベロス……!」
ほっとした瞬間、僕は狼の体にしがみつき、大声で泣き出してしまった。
心細かったんだ、どうしようもなく。
“ナゼ泣ク?”
ケルベロスは、泣きじゃくる僕のほっぺたをペロペロなめた。

「そ、外に、で、出たいのに、出られ、ないんだよぉ……」
僕はしゃくりあげた。
“何ダ、外ニ出タイノカ。ソコノべらんだカラ、中庭ニ行ケルゾ”
狼が鼻を向けた先には、大きな窓がある。
そうだ、どうして気づかなかったんだろう、玄関まで行かなくても、窓から出られるじゃないか。
僕ってば、何をパニクってたんだろ、バカみたい。

ごしごしと袖で涙をふく。
気を取り直し、立ち上がって窓を開け、ベランダを抜けたら、あっけないくらい簡単に中庭へと出られた。
外はいい天気。頭上には真っ青な空が広がり、広い中庭の真ん中にある、白い噴水の周りには色んな花が咲き乱れていた。
綺麗なところだなあ……。天国みたいだ。

もっと見ていたかったけど、屋敷にいる時間が長ければ長いほど、ここにいたくて仕方なくなってきそうだったから、僕は意を決して、狼に声をかけた。
「ケルベロス、僕、山を降りるよ」
“デハ送ロウ。背ニ乗レ……ン? ドウシタ。マダ、ココニイタイノカ?”
僕の気持ちを察したように、ケルベロスは、顔を覗き込んで来る。
「ううん、いいんだ。もう行こう……」
僕は首を横に振り、彼の背中にまたがる。
狼は地面を蹴って駆け出し、あっという間に中庭を通り抜けて、今度こそ本当に建物の外へ出た。

振り返ると、みるみる屋敷が遠くなってゆく。
後ろ髪を引かれながら前に向き直った時、真っ赤なかたまりが見えてきた。
何だろうと眼を凝らしたら、それは、今まで見たこともないほどでっかい木だったんだ。

「わあ、すごいね、あの木! まっかっかだ!」
僕が叫ぶと、ケルベロスはスピードを落とした。
“見テイクカ、しゅね”
「うん、見たい!」

すぐに、僕らは真下に着いた。
そこら中、落ち葉が敷き詰められて、紅い絨毯みたいになっている。
「へー、すごいなぁ……綺麗……」
巨大な木は、炎みたいに燃え上がって、青い空と真紅のコントラストが、とても美しい。
風が吹くたび、ひらひらと紅い葉っぱが落ちてくる。
しばらく、うっとりと見上げていたけれど、やがて、僕は首が疲れてきて、狼を振り返った。

「でもさ、来る時はこんな木、なかったよね?」
“反対側カラ、登ッテ来タカラナ。
コノ草原ハ、春ヤ夏ニハ、多クノ花々ガ咲キ乱レテイルノダガ”
ケルベロスは、ぐるっと周囲を見渡した。

今ここは、白い穂が一面に広がって、風に揺れている。
これはこれで、幻想的でとても素敵だった。
「そっか、春や夏はお花畑になるんだね。それも見てみたかったな……」
つぶやきながら、木の周りを歩いてみる。
ちょうど反対側に来た時、月の形をしたブランコを見つけた。

「あ、可愛い。でも、サマエル様はもう大人なのに、こんなのに乗るのかな」
首をかしげながら、ブランコに触った、その瞬間。
急に辺りが真っ白になったかと思うと、景色がぐるぐる回り始めた。
「──わ、な、何……!?」
僕は気持ちが悪くなり、ぎゅっと眼を閉じた。

それがようやく止まり、ほっとしたら、子供の笑い声やはしゃぐ声が聞こえて来た。
「ねぇ、ケルベロス、この山に子供がいるの……?」
振り返ったら、狼の姿はなかった。
「あれ? ケルベロス、どこ行っ……あっ!?」
周囲を見回した僕は、驚きに声を上げた。

たった今まで、白い穂が揺れていた草原が、一面の花畑に変わっていたんだ。
紅かった木の葉も全部、鮮やかな緑になっている。
お日様の光も、さっきまでよりすごく眩しい。
「えっ、い、一体どうなってるの……!?」
面食らう僕に追い討ちをかけるように、四、五人の子供達がどこからともなく現れて、僕を取り囲んだ。

「お兄ちゃん、誰?」
「ここは僕らの遊び場だぞ!」
「ブランコだって、僕らのだ!」
子供達は口々に言う。
「あ、ご、ご免、知らなくて。
僕、この木が、すごいなって、ち、ちょっと、寄ってみただけなんだ……」

僕が、もごもご言い訳をしていたとき。
「どうしたのだね、お前達?」
聞き覚えがある声がして、長身の男の人が歩み寄って来た。
「サ、サマエル様!?」
それは、たった今、別れて来たばかりの魔族の王子だった。
額には角、背中の黒い翼……そこまでは同じだったけど、さっきまでのとは少し違う服を着ていた。

「あ、父様!」
「このお兄ちゃんね、この木を見に来たんだって!」
子供達は、口々に、僕を指差して言った。
──ええっ!? と、父様……って、この子達、サマエル様の……!?
僕がぽかんとしていると、サマエル様は首をかしげた。
「キミは誰だね? この山には、普通の人間は入って来られないはずなのだが……」

「えっ!? ぼ、僕ですよ、シュネです! さっき別れたばっかりじゃないですか!」
僕は、びっくりして叫んだ。
サマエル様も驚いたように眼を見張る。
「さっき……? 私は、キミに会うのは初めてだよ?」

「──ええっ!? だ、だって……そんな、どうなっちゃってるの!?
木も、急に赤から緑になっちゃうし、……」
わけが分からなくなって、僕は頭を抱えた。
「木の色が赤から緑……キミは知っていて、私は知らない……」
首をかしげてつぶやいていたサマエル様は、急に顔を上げた。

「ああ、そうか、分かったぞ。キミは意識体なのだな」
「……い、意識体?」
「そうだ。ご覧、キミの体は半透明だろう?」
彼は僕を指差す。
「えっ……」
言われた通り、僕の手は透けて、向こう側が見えていた。

「シュネと言ったね、キミは“夢飛行”をしてここに来たのだよ。すぐに戻った方がいい」
そう話すサマエル様の顔も口調も、ものすごく深刻だった。
僕は、きょとんとした。
「夢……飛行? 何ですか、それ。
僕、また何か、変なことやらかしちゃった……のかな?」

「説明している暇はない。戻ったら、そちらの私に聞きなさい」
「え、そちらの私……って、どういう意味ですか?
それに、戻るったって、どうやって来たかも分かんないのに……」
僕はマジに途方に暮れた。

「やはり、自覚なしに来てしまったのだね。
心配ない、私が送り返してあげよう。
キミは“戻りたい”と強く念じていればいい。元いた場所に帰りたい、とね。
未来の私によろしく」
「み、未来の……!?」
「いいから、早く。夢飛行は、素人には危険な術だ。
急がないと、自分の体に戻れなくなるかも知れない」
サマエル様は、重ねて僕を急かした。

「は、はい!」
僕は大急ぎで、意識を集中させた。
──戻りたい、元いたところに、帰るんだ!
さっきと同じように白い光がスパークし、景色が回転を始める。

「シュネ、大丈夫かい?」
その声に眼を明けると、サマエル様が僕を覗き込んでいた。
僕は、紅い落ち葉の上に、仰向けに寝転んでいたんだ。
「あ、あれ……今の、夢? それとも……?
でも、あんなに鮮明で……」
僕は混乱して、彼を見上げた。

「戻って来られてよかった。キミは意識だけ、過去に飛んで来たのだよ」
サマエル様は、ほっとしたように言った。
「ええっ、過去に……!?」
「そう。過去の私は、キミに“夢飛行”の話をしたと思うけれど」
「あ、しました、たしかに言ってました!」
僕は飛び起きた。

「ケルベロスが、キミがここで倒れたと知らせてきた時、妙に胸騒ぎがしてね、急いで来てみたのだよ。
そして、ようやく思い出せた。千二百年ほど前、この木の下で、キミに会ったことをね」
「せ、千二百年前ぇ!?」
思わず僕は叫んでいた。

「そう。おそらく、このブランコに残っていた私の残留思念にキミの力が共鳴して、過去に飛んで行ってしまったのだろう。
そして、過去の私の手助けによって、還って来られたというわけだ。
あの後、私はかなり消耗したから、キミが、とても遠い未来から来たのだと分かった。
しばらくの間は、キミのことが気にかかっていたけれど、さすがに月日が経ったから、すっかり忘れてしまっていたよ。
それにしても、私が力を貸したとはいえ、千二百年も飛んで無事に還って来られたとは、素晴らしい魔力だな」
サマエル様は微笑んだ。

「それによ、お前、キュクロプスを召喚したんだってぇ?」
威勢のいい声と一緒に、ダイアデムが、サマエル様の後ろから出て来た。
「え、キュ……何?」
「ああ、人界とは呼び方が違うようだね。サイクロプスのことだよ」
サマエル様が教えてくれた。

「あ、はい……なんか、呼んじゃった……みたい、です」
僕があいまいに答えると、ダイアデムは肩をすくめた。
「お前さ、何で、来た時すぐにその話、しなかったんだよ。
人間が魔界から、あいつを呼び寄せるなんて、マジすげーぜ。
なー、サマエル」

「そうだね。最初に、それを聞いていたら、弟子入りを断ったりはしなかったのだが。
ともかく、シュネ、キミはもう、どこにも行く必要はない。ずっと、ここにいていいのだからね」
「え……え?」
僕は眼をぱちくりさせた。
「つまり、弟子入りおっけー、ってことさ、シュネ」
ダイアデムは、指で丸を作ってみせる。
「ホ、ホントに……!?」

「本当だとも。あのキュクロプスは、魔界の宝物庫の門番なのだ。
その彼を呼び寄せるなんて、並みの魔力では到底無理……ネスターでさえ、出来はしないよ。
おまけに、私の力が関わったとはいえ、“夢飛行”まで成功させるとは……。
これでは、普通の人間が、キミを導くことは不可能だろう」
サマエル様は、真剣に言った。

「そ、そうなんですか、……」
僕は口ごもってしまった。
だって、僕はそのときまで、巨人を召喚したことを、ものすごく後悔していたんだもの。
あのことさえなけりゃ、ネスター先生だって僕を放っといただろうし、学期末になったら、リオンに頼んで、ここに来れたのにって……。
でも、巨人を召喚してなきゃ、弟子入りできなかった……なんて。

「何、しけた顔してんだよ、胸張っていいんだぜ、シュネ。
ネスターごときに手に負える力じゃねーってことさ、お前の魔力はよ!」
そう言うと、ダイアデムは、僕の背中をどやしつけた。
「──わっ!?」

「そうだよ、シュネ。自信を持ちなさい。
このまま、きちんと学んでいけば、キミはおそらく、リオンと同程度の魔力を、操ることが出来るようになるだろう」
サマエル様は微笑んだ。

「え、あのリオンとですか!?」
僕はびっくりしてしまった。
うらやましく思えた、リオンのすごい力。
けど、僕にも、彼と同じくらいの魔力がある……?
僕はまだ、半信半疑だった。

「さ、屋敷に戻ろう。キミの部屋も決めなくてはいけないしね」
「は、はい!
サマエル様、ダイアデム、よ、よろしくお願いします!」
慌てて僕は、二人に深々とお辞儀をした。

“ヨカッタナ、しゅね。時々ハ遊ビニ来テヤル。背中ニ乗セ、コノ山ヲ案内シテヤロウ”
ケルベロスもうれしそうに、しっぽを振っていた。
「ありがとう! これからもよろしくね」
僕は狼の頭をなでた。