~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

4.夢飛行(2)

「……何をしていたかって?
見て分からないかい、シュネ」
「えっ?」
落ち着いた声に、僕は、おずおずと中を覗き込んだ。

すらりと背が高い魔界の王子サマエルは、たっぷりした袖がついた鮮やかな瑠璃色のシャツと黒いベスト、同じ黒い細身のズボンを身につけて、左手にブラシを持ち、立派な鏡の前にある、椅子の脇に立っていた。
月の光も当たってはいないのに、背中でゆるやかに束ねられた彼の銀髪は、右の生え際が一カ所、不思議なことに紫色に光っているんだ。
前に、僕を(おび)えさせた闇の輝きはとっくに消えて、今、僕を見つめる眼差しは、とても優しかった。

「あ、あの……?」
首をかしげた僕に、彼は穏やかな声で言った。
「どうしたの? そんな顔をしていないで、中に入っておいで。
私は、彼の髪を()いていただけさ。でも、彼はくすぐったがり屋でね。
特に、首筋は弱いらしくて、いつも、こんな風に逃げられてしまうのだよ」

それを聞いた僕は、体の力が抜けた。
「なーんだ、何事かと思ってびっくりしちゃったじゃない。
それくらい我慢しなよ、ダイアデム」
「う、うるさい!
オレが自分でやるからって言ってんのに、サマエルが髪をいじりたがるから、悪いんだ!」
僕が歩き出しても、彼はまだ背中にしがみついていた。

「分かったよ、もうしないから。
触れられるのが嫌だと言うから、髪くらいはいいかなと思ったのだが。
仕方がない、これも諦めるしかないようだね……」
「ごめん、サマエル。でも、オレ、ダメなんだ、どうしても……」
ダイアデムはやっと離れてくれたけど、紅い眼には涙が浮かび、今にもこぼれ落ちそうだった。

(何でこれくらいのことで、泣いたりするんだろ?
ああ、人のことは言えないか、僕も泣き虫だもんな。
ん……?)
「あれ? 角がない……?」
僕は、眼をこすってみた。

でも、やっぱりない。以前あった、サマエル様の角が。
彼の(ひたい)には、細い金の鎖でつながれた緑色の宝石が下げられているだけで、いくら見直しても、角は、影も形もなかった。

「ああ、角なら封呪してある。もう、キミを恐がらせる必要はないからね。
人間に会うときはいつも、驚かさないようにこうしているのだけれど。
キミが来た晩は、急だったこともあるし、この状態で 『私は悪魔だ』 と言えば、すぐ逃げ帰るだろうと思ったのだが」

「平気ですよ、あなたに角があったって。魔族は、僕らとは違うんでしょう?
それに、僕は、何だか、人間の方が怖い気がするんです、特に大人の男の人と一緒にいるだけで、震えてきちゃうし……。
僕の過去と、何か関係あるのかも知れないですけど……」

「……そうか。では、お言葉に甘えて、普段の姿でいるとしよう。
──ディス・イリュージョン!」
彼は宝石に二本の指を当て、呪文を唱えた。

宝石が緑に輝き、真っ白い角が一本、姿を現した。
同時に、コウモリに似た翼がサマエル様の背中に広がる。
彼の翼は、夜の闇よりも深い、漆黒だった。
その姿は、絵本に載ってる悪魔の姿に似ていたけど、どこかが微妙に違っていて、魔物というより、神話か童話にでも出てくる生き物みたい。
そう、僕には、ユニコーンが人間の姿に変身したように思えたんだ。

でも、僕の心を知らない彼は、心配そうな目つきで僕を見た。
「本当に、怖くないのかい?」
「ええ……あれ? 宝石の色が変わりましたね」
そのとき、ダイアデムが口を出してきた。
「人界にも、アレクサンドライトっていう宝石があるだろ、知ってっか?
昼と夜、日の光と炎の下では色を変える石さ。
こいつは、それと似た魔界の石で、角や翼を封じているときは緑、解呪すれば紫になるんだ」

「ふうん、そういう石があるんだ。
あ、その角、よく見ると、ただまっすぐじゃなくて、ねじれながら伸びてるんですね。
なんだか、誰か上手な人が彫った象牙細工か、それとも、珍しい形のアクセサリーみたい。
とても綺麗だなあ……」
そうなんだ。
昼間見る彼の角は、紫色の宝石や金の鎖と一体になった額飾りみたいで、不気味な感じがしないんだよね。

彼らは顔を見合わせた。
「お前の角、綺麗だなんて言う人間、久しぶりじゃねーか、サマエル」
「そう……だね、ジル以来だ。不思議な娘だね、キミは……」
「え……あ、そうだ」
魔族の二人に見つめられて我に返った僕は、謝らなきゃいけないってことをようやく思い出して、慌てた。

「あ、あの、えっと、サマエル様、こ、この間は、突然、押しかけた上に、ご迷惑を、おかけして、ど、どうも、すみません、でした。
か、彼にも、失礼なこと、しちゃったし……ぼ、僕みたいなのが、あ、厚かましく、弟子にしてもらおうなんて、か、考えが甘かったんです、ほ、本当にす、すみません……。
し、しかも、ちゃんと、お、お詫びもしないで、逃げちゃって……」
慌てると、どうしても僕は、どもってしまう。

冷や汗をかきながら頭を下げると、サマエル様が優しく尋ねた。
「もう、気にしなくていいよ。
それより、キミはこれから、どうするつもりなのだね?」
僕はうつむいたまま、頭を振った。
「わ、分かりません、旅、しながら、か、考えるつもり、ですけど……」

「キミが、ペルス・ネージュ山に行っている間に、リオンから事情は聞いたよ。
やはり一度は、ネスターと、ちゃんと話をした方がいいと思うのだがね」
僕は、むっとして顔を上げた。
「は、話して、どうなるんですか?
あ、あの人は、僕のこと、嫌いなんだし、これ以上、育てようって気も、ないんでしょう。
た、たとえ、記憶や魔力を封じないって、言ったって、ホントかどうか、分からないし」

サマエル様は、肩をすくめた。
「随分信用がないのだね、ネスターは」
僕は眼を伏せた。
「だって、先生は、僕のこと、嫌いだから……」
「キミの命を救ったのはいいが、持て余していた、そういうことかな?」
彼は、僕の顔を覗き込んで来た。

「……ええ。
でも、僕がもう少し、頭がいいか、それとも可愛い子だったら、違ってたんでしょうけど……。
僕のこと、みっともないって、言ってたし……」
「あのバカ、ンなこと言ったのか?」
ダイアデムは顔をしかめた。

「うん」
僕はうなずいた。
「助けられて、ちょっと落ち着いた頃にね、ネスター先生の奥さん、マイアさんが、ドレス買ってくれたんだ。ピンク色で、すっごく可愛いの。
で、でも、着てみたら、全然、似合わなくて……。
じ、自分でも、笑っちゃう、くらい……」
「そんで、男の格好するようになったんか?」

「ううん、違うよ」
僕は否定の身振りをした。
「その姿、見せたら、先生は……その時は、何も言わなかったんだけど、後でマイアさんに、こう言ってんの、聞いちゃったんだ……。
みっともない格好させるな、それに、贅沢を覚えたら、親が見つからなくて、孤児院で暮らすことになったとき、質素な生活するのが大変になるんだぞ、って……。
僕が、ねだったわけじゃないし、女の子らしい格好なんか、したかったんじゃないのに。
悲しくて……髪をハサミでジョキジョキ切った。
そして、服も、誰かのお古しか着ないことにした……」

「ひっでーな、あの朴念仁(ぼくねんじん)
なあ、サマエル、ネスターのヤロー、殴って来ていいか?」
ダイアデムは拳を固めた。
「まあ、落ち着いて、ダイアデム。まずは、彼女の話を最後まで聞こう」
サマエル様が彼をなだめる。
「そうだな、続けろよ、シュネ」

「……うん。
でも、僕は、何て言われても、孤児院に行かされたって、構わなかったんです。
それより、僕のせいで……ホントはここにいるはずない、身なし子のせいで、先生とマイアさんが、毎日ケンカするのが嫌で……。
だから、家を出ようとしたんです、何度も。でも、そのたび連れ戻されて、叱られる。
……大人は、何も分かってない。僕のせいで、二人が、仲悪くなるのが悲しかったのに」

「そうか。キミは優しい子だね」
そんな風に言ってくれるサマエル様の方が、優しい気がする。
穏やかな彼の声を聞いてるうちに、僕も落ち着いて話せるようになって来た。

「いえ、けど、学院で友達も出来たし、ようやく、ここん家の子でいていいのかな、って思い始めたら、マイアさんが病気で死んじゃって。
追い出されるって思ったけど、一月経っても、何も言われなかったから、中等科が終わるまでは大丈夫かなって、思ってたのに……。
先生は、僕の記憶と魔力を封じて、他の施設にやるって……。
それ聞いたとき、目の前が真っ暗になって……」
「可哀想に、ショックだったろうね……」

「それに、ペルス・ネージュ山に行ってみて、思ったんです。
先生は、僕を……もう一度、あそこに捨てようとしてたんじゃないかって……」
「まさか、そんなことをするはずがないよ、いくら何でも」
サマエル様は否定する。
けれど、僕にはそうとしか思えなかった。

「でも、マイアさんは、僕のことで毎日先生とケンカしたせいで、心臓が余計に悪くなって、早死にしちゃったんですよ。
だから、先生は、僕が憎くなって、それで……」
「おいおい、そりゃ、お前の思い込みだろ」
ダイアデムも言った。
たしかに、そうかも知れない。
だけど、僕は、思ってることを全部、吐き出してしまいたい気分だった。

「だって、僕は捨て子。本当なら五年前、死んでたはずの、存在しない子供なんだ。
もう一度捨てたって、心も痛まないよ。
そして、僕が家出したってことにすれば、誰も心配しないし、わざわざ捜したりもしない。
もしまた、誰かに助けられても、記憶がなければ戻って来る心配もない。
でも、それ以前に、魔力を封じられて冬山に放り出されたら、間違いなく死ぬ……完全に僕を始末出来るよ、ね……」

「シュネ、いけないよ、そんな考え方をしては……」
悲しげなサマエル様を振り切るように、僕は言った。
「それじゃ、サマエル様、ダイアデム。静かに暮らしてたのに、お騒がせしてご免なさい。
昨夜も、泊めてもらって、ありがとうございました。
もう、会うこともないだろうし、僕のことは忘れて下さい。
さようなら、お元気で」
僕は深く頭を下げ、ドアに向かった。

「待ちなさい。キミは、またあの山に行く気かい?」
サマエル様が、僕の背中に声をかける。
「いいえ。もう、死のうなんて考えませんよ」
振り向かずに、僕は首を横に振った。

「僕は一人で……そうだな、砂漠のど真ん中で暮らします。
周りに人がいなきゃ、僕が魔法使って失敗したり、また何か、変なのを召喚しちゃっても、誰にも迷惑かからないでしょ!」
言うなり、僕はドアに飛びついた。

「おい、待てよ、オレ達の話を……」
追いかけて来るダイアデムの声を振り切り、僕は絶望的な気分で部屋を飛び出した。

もう、僕には行き場がない。
どうして、先生は、僕を助けたりしたんだろう。
あの山で死んでたら、こんな風に悲しんだリ、苦しんだりしなくて済んだのに。
涙がぽろぽろ頬を伝う。
僕は、玄関目がけて、全速力で走った。

朴念仁(ぼくねんじん)無口で愛想のない人。また、がんこで物の道理のわからない人。わからずや。
アレクサンドライト(アレキサンドライト)
昼の光や蛍光灯の光では緑に、白熱光では赤く見える鉱物。
1830年春、ロシア皇帝アレクサンドルII世の成年式の日に、ウラル山脈のタコワヤ川流域のエメラルド鉱山で発見され、アレクサンドル石と名付けられた。