~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

4.夢飛行(1)

「し、しまったぁ!
あーあ、なんて間抜けなんだろう、思いっきり寝坊しちゃった……。
お日様がもう、あんなに高く上ってる」
飛び起きた僕は、がっかりしてため息をついた。
「今日こそは、ちゃんと早起きして二人にあいさつしようって、わざわざカーテン開けて寝たのに」

仕方ない、今からでもいいから、すぐ、二人に会いに行こう。
そう思って起き上がったら、服はすごく汚れているし、おまけに体も臭う気がする。
……そういえば、学院を出てから、ずっと入浴してなかったな。
昨夜、ダイアデムが、風呂に入ってから話をしに来いよって言ってたのは、このせいだったのかも……。

「えっと、バスルームは……ここか」
学院の寮の部屋くらいもある広い脱衣所で服を脱ぎ、浴室に続くドアを開けた途端、僕は息をのんだ。
湯煙の向こうにかすむ、公衆浴場と大して変わらないくらいの、でっかい浴槽が眼に飛び込んで来たんだ。
ダイアデムが言ってた通りだ。すごいな、家で温泉に入れるなんて。

壁にある大きなドラゴンの口から、白く濁ったお湯が絶え間なく流れ出て、イオウの臭いが立ち込めてる。
ドラゴンと浴槽は透き通っていて、水晶を彫って作られてるみたい。
よっぽど、でかい水晶を使ったんだろうな。
金ピカの蛇口は、ひょっとしたら、本物の金で出来てるのかも知れない。
さすが、魔界の王子様だ、お金持ちだよなぁ。

「……あ、見とれてる場合じゃないや」
僕は慌てて、体と髪を石けんで洗い始めた。
 魔法で済ませりゃ早く終わるけど、せっかくこうして目の前に温泉があるんだし、魔法だと、なんか入浴した気分になれなくて、さっぱりしないんだよね。

全身の汚れが、ようやく落ちたと思えたところで、そっと湯船に手を入れてみる。
温泉に入るの、初めてだったから。
熱いかと思ったら、ちょうどいい温度で、僕は恐る恐るお湯に体を浸した。

「……はうぅ……貴族か王様にでもなった気分……気ー持ちいい……」
思わず声が出ちゃうくらい、極楽気分だったけど、のんびりしてる暇はない、
急いで支度して、あいさつに行かなきゃ。
全身に柔らかくまとわりついて来る温泉の誘惑を振り切って、僕は、早々に湯船から上がった。

バスタオルを体に巻いて、脱衣所の鏡の前に立つ。
そこに映った僕は、情けないくらいやせてて、ダイアデムに言われた通り、胸も、全然膨らんでない。
顔も不細工、瞳も冴えない灰色で、その上、キツネみたいな釣り目。
目じりに指を当てて、思い切り下に引っ張ってみる。
ここまで垂れ目じゃ変だけど、せめて、こんなに細くなきゃなぁ……。

おまけに、僕の髪ときたら、どうしようもないニンジン色の癖毛で、いつも落ち着きなく、ピンピン跳ねてるんだ。
せめて、ちょっとは整えようと、鏡の前に置いてあったブラシでガシガシとくしけずったけど、髪が短いせいもあって、濡れているのに全然まとまらない……。
どうせなら、ダイアデムみたいに真っ赤な方が、まだカッコいい気がする。
唇と鼻は、ちょこっとマシなんだけど……。
鏡の中から見返す自分の顔は、どう見ても男の子だし。

ため息をつきながら、脱衣カゴに手を伸ばしたとき。
その先にある物を見て、僕は、がっくりと肩が落ちるのを止められなかった。
体が綺麗になった分、さっき脱いだ服の汚さと臭いが、倍増した気がした……。

「洗濯しなきゃ着られないよなぁ、こんなの。でも……」
ここで魔法が使えるのかどうか、分からない。
ともかく、試してみるしかなかった。
僕は、ぎゅっと眉を寄せると眼をつぶり、集中して呪文を唱えた。
「──ラヴァージュ!」

一呼吸置いてから、思い切って眼を明ける。
砂まみれだったズボンとシャツ、下着にローブに至るまで、ちゃんと綺麗になっていた。

……よかったぁ。
僕は胸をなで下ろした。
よく考えたら、家の中で魔法が作動しなかったらすごく不便だもん、使えるようにしてあるに決まってるよね。
洗濯魔法も、今までは失敗ばかりしてたけど、今日はちゃんと出来て、そのことにもほっとした。

でも、汚れは落ちても、この服はお古だから、かなりくたびれてる。
新品に戻すか、新しい衣装を出せればいいんだけど、まだ僕には、そんな上級魔法は使えない。
この上に、ローブを着れば、見えないからいいよね。

……けど、現実って、やっぱり厳しいなぁ。
ホントは、ここに置いてもらいたいけど、弟子入りなんて絶対無理、断られるに決まってる……。
でも、ダイアデムをぶっちゃったことも、ちゃんと謝ってなかったし、昨夜も泊めてもらった。
二人に、きちんとお詫びとお礼を言ってから、出て行こう。
これから行くあてもないけど……。

「はぁーああ……」
暗い気分で、のろのろ服を着る。
ため息をつくと幸せが逃げるって言うけど、僕は元々、幸せって状態にはほど遠いんだから、別に構わないよな。

今後の行き先はともかく、ネスター先生のところへだけは絶対戻らない、それだけは、はっきりしていた。
どんな理由があったのかなんて、今さら聞きたくもない。
たとえ、魔力も記憶も消さないって約束されたとしても、あんなことがあった今では、あの人の言葉を信じることなんか、出来るわけがなかった。

けど、そんなに、僕のこと嫌いだったんなら、マイアさんが死んだ後すぐに、追い出せばよかったのにさ。
先生に好かれてないことは知ってたし、元々、成績も悪かったんだから、覚悟は出来てた。
大して、ショックも受けなかったんじゃないかな。
学院の友達と別れる辛さを除けば、ね……。

十五で独り立ちってのは、普通よりちょっと早いけど。
でも、記憶がない僕の年は、正確には分からないし、もしかしたら、もっと上なのかも知れない。
いや、それはないか、僕は、学年でも一番のチビなんだから。

どっちみち、僕は身なし子なんだし、ある程度大きくなったら、出てけって言われるだろうと、ずっと思ってた。
今まで、放り出されずにいただけでも、ありがたいくらいだった。
五年前と同じで、一人に戻るだけさ。
砂漠を旅しながら、どうするか考えよう。

また悲しくなってきたけど、僕は、まぶたをこすり、涙を我慢した。
泣いたって、何の解決にもならないもんね……。
魔法のお陰で、最低限の食べ物だけは不自由しないんだから、一人でだって、ちゃんと生きていけるさ。
僕は、自分にそう言い聞かし、頭を振って、暗い思いを吹き飛ばした。

それはそうと、サマエル様達はどこにいるんだろう。
昨夜、聞いとけばよかったな。
浴室から出て、部屋の外を覗いてみる。
廊下はしんと静まり返り、人の気配もない。
左右どっちから来たのかさえ覚えてないし、建物はすごく広くて、迷子になりそうだった。

でも、人界じゃ、“賢者”ってことになってる魔族の王子の屋敷の中って、どうなっているんだろう。
好奇心に負けて、廊下に足を踏み出そうとしたとき、裸足のままだったことに気づいた。
慌てて、靴を()こうとしたら……。

「わ、汚っ!」
僕は思わず声を上げた。
靴も、上等な絨毯(じゅうたん)の上を歩くのが気が引けるほど、泥とほこりまみれだったんだ。

「──ラヴァージュ!」
慌てて、呪文を唱える。すぐに汚れは消えた。
さっきの服のときといい、ここでは魔法が使いやすいような気がする。
そうか、ここは魔族の住処だ。そういう仕様になってるのかも知れないな。
ともかく、二人を捜してみよう。

豪華な装飾に目を奪われながら、僕はゆっくりと歩き始めた。
ふかふかの絨毯に吸収されて、自分の足音さえも聞こえない。
昼間なのに、静か過ぎる無人の廊下は、とても明るいのに、ちょっと不気味な感じがした。

「嫌だよぉ……」
かなり行ったところで、ようやく、人の声が聞こえた気がした。
声がしたと思える方に歩いていくと、やがて一つの部屋に行き着いた。
ドアが、ほんのちょっと、開いている。

ノックをしようとしたとき、中から、また声が聞こえた。
「嫌だぁ、放せ! や、やめてくれぇ! サ、サマエルってば!」
あの紅毛の少年、ダイアデムの声みたいだった。
「じっとしていればすぐ済むのだから、静かにしておいで、ダイアデム」
今度は、魔界の王子サマエルの声がした。

「やめろ、嫌だぁ、くすぐったいよぉ!
そ、そんなトコ、さ、触るなって!
オレ、そこは敏感なんだからよぉ!」
「逃げないでおくれ。毎日のことなのだから、いい加減慣れてくれないか?
初めてでもあるまいし、第一、誰だってやっていることだろう?」

「誰がやっていようと、初めてじゃなくたって、オレは、こんなのはヤなんだって、いつも……わあっ! 痛たたた、痛いよぉ、痛いってばぁ、サマエル!
お願いだぁ、もうやめてくれぇ! カンベンしてくれよぉ!」
「こら、これ以上暴れると、そこに縛り付けてしまうぞ」
「だってぇ、ヤなもんはヤなんだぁ!」
「……ああ、ほら、じっとして。
ちょっとの間の辛抱だよ、すぐ終わらせるから」

「──ヤダ! あ、ああ、ぎゃーっ、痛い、痛いってば!
だ、誰か助けてくれぇ!
は、放せ、この、ヘンタイ!」
「……まったくお前は、人聞きの悪いことしか言わないねぇ……」

い、一体、彼らは何をやってんだ……!?
僕が面食らっていたとき、乱暴にドアが開けられ、誰かが飛び出して来た。
「わあっ!?」
びっくりして心臓が止まりそうになったけど、それは相手も同じだったみたい。

「うひゃっ!?
あ、お前!?」
「ど、ど、どうしたの? キ、キミ……」
昨夜、後ろで束ねられていたダイアデムの長い髪は、今は、ほどけてバサバサと広がり、裸の胸を覆い隠していた。
髪を下ろすと、彼は、ますます女の子みたいに見える。

「シュネ……た、助けてくれよぉ、サマエルが、無理矢理……」
それだけ言うと彼は身震いし、僕の後ろに回って、細い体をぎゅっと押しつけて来る。
僕の胸はドキッと鳴った。
「な、何? どうしたって言うのさ?
サ、サマエル様が……キ、キミに何をしたの……?」
「オレ、ヤなんだよぉ。なのに、サマエルが……」

僕の背中に、ダイアデムの体の震えが伝わってくる。
どうしよう。でも、このままじゃ……。
僕は、思い切って、開け放たれたままのドアの中に声を掛けた。
「サ、サマエル様? 一体どうしたんですか? か、彼に、何を……」