3.金と銀の獣(5)
登った時は、暗くてよく分からなかったけど、明るくなってから下山して来ると、あちこちに高い崖があった。
昨夜、真っ暗な中を滅茶苦茶に走ってた時、よく落っこちなかったな……。
ケルベロスの背に揺られながら、僕は冷や汗をかいていた。
……でも、待てよ。
今思うと、昨日、最後に僕がつまずいたのは、木の根や岩みたいなものじゃなくて、何だか柔らかったような……。
「ねえ、ケルベロス。ひょっとして、僕を転ばせたの、キミ?」
僕は訊いてみた。
“我ダ。ソウデモセネバ、オ前ハ、崖カラ落チテシマッテイタダロウ”
「そっか。ありがとう……」
僕がそう言ったときには、もう、ふもとに着いていた。
“ココマデ来レバモウ、魔法ハ使エル。何カ食スレバイイ”
「いいよ、向こうについてからでも。早く行こう」
本当に、食欲はなかったんだ。
だって、僕が拾われた山に行ったって、記憶が戻るわけないもの……。
僕は、きっと、一生このまんまなんだ……。
そう思ったけど、ともかくケルベロスはまた速度を上げ、ペルス・ネージュ山へとひた走った。
僕が魔法を使うよりも早く、移動できるような気がした。
それでも、二つの山の間にはかなり距離があったし、温かい毛皮と適度な振動とで、僕は何度もうたた寝をしてしまった。
すごいスピードで走ってたのに、眠っても背中から転げ落ちなかったのは、彼が魔法でも使ってくれたんだろうか。
“着イタゾ、しゅね”
言われて、僕は、はっと目覚め、ケルベロスから飛び降りた。
“サテ、コレカラドウスルノダ? 山ノ近クニハ、集落モ、ナサソウダガ?
……オイ?”
そして、問いかけて来る彼に返事もせず、僕は、まっすぐに山を登り始めた。
太陽がもう、傾き始めていたんだ。
それに追われるように、僕はせっせと登り続け、気が急いてることを察した狼は、もう何も言わず、後をついてくる。
五年前は、僕もまだ小さかったし、雪もたくさん積もってたから、今より疲れやすかったはずだ。
だから、ほんの少し足が重くなって来たところで僕は立ち止まり、周囲を見回してみた。
見覚えのあるものはないか、何か思い出せやしないかと思って。
でも、あのとき……リオンが見せてくれた記憶では、何もかもが雪に覆われていて真っ白で、どこにも目印になるようなものはなかった。
そのせいなのか、いくら眼を皿のようにして周りを見ても、やっぱり何も思い出せない。
がっかりしてる間にも、太陽はどんどん沈み、辺りは薄暗くなり始めた。
ああ、もう夜になってしまう……。
僕は、思わずガクンと膝をつき、道端に倒れこんでしまった。
疲れ半分、残り半分は、あの日とおんなじように寝そべることで、記憶が戻りはしないかと思って。
“ド、ドウシタ、しゅね! 大丈夫カ!?”
ケルベロスが、びっくりして駆け寄って来る。
でも。
「……やっぱ駄目だ」
つぶやくと、ケルベロスは僕のほっぺたをぺろりと舐めた。
“具合デモ悪イノカ、しゅね。今、オ館様ヲ呼ブ、シバシ待テ……”
「違うんだよ、ケルベロス。具合なんて悪くない。
キミはもう、サマエル様のところへ帰って。僕はここに残るから」
“……ココニ残ルダト? 帰リハ、ドウスルノダ。
ソレトモ、カヨウナ所ニ、
「住む……? うん、それもいいかも。
じゃあね、ケルベロス。ありがとう、さよなら」
僕は眼をつぶった。
“何ヲ言ッテイル? 起キヨ、ソシテ我ガ背ニ乗レ。
我ハ、りおん様ノトコロヘ、連レ帰サネバナラヌノダ”
狼は、しつこく鼻で僕をつつき、起こそうとする。
「うるさいな、もういいから、あっちへ行ってよ!
僕に、もういいと言われたから帰って来た、そうサマエル様には言えばいいだろ!」
僕は眼を閉じたまま、乱暴に彼を押しのけた。
“しゅね……?”
ケルベロスは困ったようだったけど、僕はもう話すのはやめた。
もうすぐ、ペルス・ネージュ山にも雪が降る。少し登っただけで、ふもとよりずっと寒い。
きっと、朝晩にはもう、霜が降りてるはずだ。
僕はこの山で助けられた。なら、ここで終わりにしてしまおう。
もう五年も前に、僕は……ホントは死んでいたんだから……。
このまま……こうしていれば、確実に……。
固く閉じたまぶたから、涙があふれて来る。
そのとき。
「ンなトコで、なに寝転んでんだよ、ガキ」
元気な声が、頭の上から降って来た。
「え……!?」
驚いて眼を開けると、不思議な瞳が、僕を見下ろしていた。
紅い中に、黄金の炎がゆらゆら揺れている……。
サマエルのところにいた、ライオンが変身した少年、ええと、名前は……。
「キ、キミ……ダイアデム? どうしてここに……」
「お前が、いきなり倒れてメソメソしてるって、ケルベロスが泡食って連絡して来てよ。
心配だから、行ってみろって、サマエルが言うんでな。
どうしたんだよ、シュネ」
「だから、もう放っておいてよ!
僕が、どこで何しようと、キミらには関係ないだろ!」
ごろりと寝返りを打って、僕は背を向けたけど、ダイアデムはしつこく話し掛けてくる。
「そうは言ってもよ、女の子を、一人で山ン中に放り出すわけにもいかねーしなー。
リオンのトコにゃ、戻りたくねーってのか?」
「……お城に行ったって、結局、学院に連れ戻されるだけだよ。
女王様だって、僕みたいなみなし子の言うことよか、魔法学院長やってるネスター先生の言うこと、信じるに決まってるもの。
そしたら……」
「ンなわけねーだろ。お前がガキだろうが何だろうが、正しけりゃ胸張ってろ。
ライラはちゃんと話、聞いてくれっから」
「キミも女王様の知り合い?」
「ああ。ライラは……」
「いいよ、もう。僕が戻らない方が、皆も面倒が減っていいでしょ。
女王様もネスター先生もリオンも、僕のせいで時間を無駄にしなくていい。
……僕は、“いらない子”なんだから!」
「──はぁ!? 何言ってんだ、てめー」
その言い方にカチンと来た僕は、飛び起きて、まくしたてた。
「──だって!
僕を拾ったとき、ネスター先生は、行方不明の子を憲兵所に問い合わせてくれたけど、僕みたいな子供は、届けられてなかったんだよ!
捜されてないってことは、僕は迷子じゃなくて、捨て子なんだ!
つまり、僕は、いらない子供ってことだよ!」
紅毛の少年は、可愛らしく首をかしげた。
「ふーん、そういうもんか? ……っつか、捨て子じゃいけねーのかよ。
それに、親ってーのは、そんなにいいもんなのか?
オレは精霊で、ンなもん生まれた時からいねーし、他の親なんざ見てても、全然いいとも思えねーから、よく分かんねーな」
彼は悪気はないみたいだった。
というか、精霊なんだもの、人間の、しかも親子のことなんか、知りようがないんだろう。
たしかに、親なんて最初からいなきゃ、諦めもつくのに……。
「いいね、キミ。うらやましいよ……」
また、涙が出て来る。僕はまぶたをこすった。
彼は、ぽりぽりとほっぺたをかいた。
「まあ……その、なんだ、ともかくよ、も一度、サマエルんトコに来ねーか?
城に行く気、しねーんだろ? だったら、屋根のあるトコで寝て、メシでも食って少し落ち着けよ、その後で、色々考えよーぜ、な?」
僕はためらった。
「え、けど……サマエル様、すごく怒ってたし……。
僕と、顔を合わせるのも嫌なんじゃない?」
「ンなこたねーよ。連れて来ていいって言ってるぜ。
そら、もう泣くな。涙ふけよ」
彼は優しい声で、ハンカチを貸してくれた。
「あ、ありがと……」
しゃくり上げながら、僕は顔をふいた。
そんな僕に、彼はさらに畳みかけてくる。
「オレと一緒に、サマエルん家に行こ。な、いいだろ?
ゆうべのは、ちょっと脅かしただけだ、取って食いやしねーって。
ホントんトコ、サマエルってのはな、虫も殺せやしねーんだ」
「でも……」
「な、一日くらい、魔界の王子の屋敷に泊まってみるってのも、面白れーんじゃねーか?」
僕の顔を覗き込んで来るダイアデムの、きらきら光る炎の瞳。
見てると、何だか、不思議な気持ちになって来る。
「な? な? 一緒に行こ」
何度も念を押されて、僕は、つい、その眼に吸い込まれるようにうなずいていた。
「うん……」
「──よっしゃ、決まり。じゃ、まず、立てよ」
差し伸べられた彼の手を、僕はおずおずと握った。
手が触れ合っても、サマエル様につかまれたときみたいに、怖くはなかった。
ダイアデムが女の子みたいな顔をして、背も、僕より低いからかもしれない。
彼の手は、サマエル様と違ってとても温かく、それも、僕を安心させた理由かもしれなかった。
「せーの!」
それでも、彼は、見かけより力があった。
軽々と僕を立ち上がらせ、それからケルベロスの頭にもう一方の手を乗せて、長距離移動の呪文を唱えた。
「──ヴェラウエハ!」
あっという間に、僕らは、サマエル様のお屋敷に戻っていた。
さすが、あの距離を一瞬で……って思う間もなく、ダイアデムに手を引かれて玄関を入ると、僕はそれまでベソをかいていたのも忘れて、見とれてしまった。
「──わあ! すっご~い!」
屋敷の内部は、外に負けず劣らず、豪華で素晴らしかった。
果てしなく続いているみたいな廊下は、大理石でできてて、真ん中に紅いじゅうたんが敷かれ、一直線に伸びている。
あちこちに立派な額縁に入った油絵や、大きな花瓶に生けられた綺麗な花が飾ってある。
窓に掛けられた房飾りのついた厚手のカーテンには、落ち着いた色合いで細かい模様が織り込まれ、壁には、色んな物語……多分、魔界のお話かな……が、彫られている。
天井も高くて、やっぱり絵が描き込まれてるし、その上、ものすごくでっかいシャンデリアがたくさん下がって、キラキラ輝いていた。
さすが、魔界の王子様が住んでるお屋敷だ。
ファイディー国の宮殿の中もすごかったけど、考えごとをしていてあまりよく見てなかったし、ひょっとしたら、こっちの方が、もっとすごいかも……。
ぽかんと口を開けている僕を、ダイアデムは、にやにやしながら見ていた。
「初めて中に入ったヤツの反応は、似たり寄ったりだな」
「すっご~いねぇ、このお家……」
「ったりめーだ、魔界の王子の別邸なんだぞ。これでも小さいくらいだ」
「えっ、これでも?」
「そうさ、魔界の城は、もっと、もーっと、でっかいんだぜ。
ま、それは置いといて。ここら辺は全部客室だ、好きなところを使っていいぞ。
今後の話は、お前が一寝入りしてからだ」
彼は、ずらりと並んだ部屋の方に手を振った。
「うん……昨日はごめんなさい……ぼ、僕……」
「いいって、気にすんなよ。
あ、ここの風呂は温泉だ、朝になったら、ひとっ風呂浴びて、気ぃ落ち着けてから話をしに来いよ」
「ありがとう。お休みなさい」
「お休み、シュネ。明日な」
彼の後ろ姿を見送ってから、僕は、一番近くのドアを開けてみた。
中は、やっぱり、見たこともないほど豪華だった。
でも、へとへとに疲れていた僕は、すぐに柔らかいベッドにもぐり込み、一瞬で眠りに落ちた。