3.金と銀の獣(4)
ざわっと鳥肌が立ち、僕の頭は、パニックに陥っていた。
(そんな……そんな! 賢者サマエルが“悪魔”だなんて……!
やっとの思いで、ここまで来たのに、すごすごと帰るしかないのか。
いや、そんなことより早く逃げないと、ホントに食われちゃうかも……!
でも、待てよ。彼らは、たしかに魔物かも知れない、だけど……)
僕は、無理に気を落ち着かせて、賢者だとばかり思っていた“悪魔”の姿を観察した。
サマエルの瞳は紅色で、人間の眼には滅多にない色だったけど、とても優しげに光っていて、唇も、優しい曲線を描いていた。
物静かなその声は、とても恐ろしい魔物とは思えない。
彼の穏やかな表情を見てると、脅しの言葉も嘘だって気がして来て、僕は勇気を振り絞り、声を出した。
「か、帰りません!
あ、あなたが賢者じゃなく、悪魔だとしても、ううん、死神そのものでも、で、弟子にしてもらえるんなら、ぼ、僕は構わない!
そ──それに、あ、あなた方が、悪い、魔物だとは、お、思えないんだ、僕には……」
「なぜ、そう思うのかな?」
サマエルは、優雅に首をかしげた。
「だ、だって……さっき、ケルベロスだっけ? も、そっちのシンハも警告に来たけど、な、なんで、そんな面倒なことしたの?
そ、そっと忍び寄ったら、一発で倒せたはずだよ、僕の魔法なんて、き、きっと、二人の足許にも及ばない、すっごい下手くそなんだから。
そ、それに、サマエル様は、十三年前、女王様を助けたんでしょう?
わ、悪い魔物なら、そんなこと、しない……と思うけど……」
「彼女が、我らと“血の契約”を交わしたのかも知れない、とは考えないのかい?
知っているのだろう? 魔法使いを志す者ならば……」
サマエルは、唇に微笑を浮かべたまま、言った。
“血の契約”。それは悪魔に魂を売り渡し、願いを叶える禁断の黒魔法。
もちろん、学校では、絶対、そんなことはしてはいけないと習った。
「知ってます、で、でも、違うと思う……。
ライラ女王様が、魔物退治にそんなもの使うわけないし、く、黒魔法なんて、ずっと言い伝えられて来た、け、賢者サマエル様のイメージと、ぜ、全然、そぐわないもの」
「私は、賢者ではないと言ったろう?
そんなに買いかぶられても、弟子にはできないよ」
「お──お願いします、サマエル様!」
僕は、再び頭を下げた。
もう、僕は、ここがダメならもうどこにも行く場所がない、ギリギリの瀬戸際、って気分だった。
「ふう、困った子だねぇ。どうしようか、シンハ」
魔族の王子はため息をつき、明るく光るライオンを振り返った。
すると突然、ライオンの体が、爆発でもしたみたいに紅く激しく輝き始めたんだ。
「──わっ、な、何!?」
まぶしくて、思わず僕は手で顔を覆った。
再び眼を開けたとき、ライオンは消えてしまっていて、代わりにそこにいたのは、僕より二つ三つ年下くらいの女の子……いや、男の子だった。
(? あれ、シンハはどこにいったんだろう?
この子……まさか、変身したのか……!?)
僕は、突然現れた、その美しい少年に見とれた。
燃えるような深紅の髪を後ろで結わえて、いたずら好きの妖精みたいな顔立ちのほっぺたには、そばかすがいっぱい。
肌は透き通るように白いし、唇はつやつやで、さんご色をしている。
少し肌寒いのに、上半身は、袖のない短い上着を素肌に羽織っただけ。
腰には、キラキラ光る薄い布を巻き、膨らんだズボンは上着とお揃いの布で出来ていて、体の線がうっすらと透けて見える。
先がくるんと反った靴と薄紫の上着には、両方共、銀色の糸でキレイな模様が刺しゅうしてあった。
美しいネックレスをいくつもさげ、右手にはめられた金の輪や耳のピアスには、たくさんの宝石が輝いていたけど、一番すごい宝石は、やっぱり、彼自身の眼だ。
紅く輝くその瞳は、奥に黄金の炎がゆらゆらと踊っていて、それだけで十分素晴らしい芸術品だった。
「──ちっ! バッカだなー、サマエル!
あんな優しく言ったんじゃ、迫力なさ過ぎて脅しの意味ねーぜ!
──ったく、しょーがねーな!」
紅毛の少年が、ほつれかかった髪をかき上げながら、あきれ顔で言う。
その声は、ライオンの重々しい声とは全然違ってて、きれいなソプラノなんだけど、可愛い外見の割に、言葉づかいはすごく乱暴だった。
魔界の王子は、小さく肩をすくめた。
「そうは言うけれどね、ダイアデム。
“女の子”に、あまり手荒なことはできないだろう?」
それを聞いた瞬間、僕は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
「──ち、違う、ぼ、僕は女じゃない、男だよっ!」
僕は首を横に振り、懸命に否定する。
紅毛の少年は、ライオンの姿をしているときそっくりに、鼻をくんくん言わせた。
「ムダだぜ。魔物はな、こう、鼻が利くんだ。
いくら、男のナリして乱暴な言葉使っても、女の子ってのは甘くていい匂いがすっから、すぐバレんだよ。諦めろって」
言われてしまって、僕はうつむいた。
──そう、僕は女だ。
ずっと、男の子の格好をして、男言葉を使って、友達も男子ばっかりだったけど……。
「ふ~ん、訳ありってヤツか?
ま、いいけどさ。あんまり胸はでかくないな、お前。
オレとしちゃあ、も少し、こう……でっかい娘の方がいいけどなー」
少年は、胸のところで大きく球を描いた。
だぶだぶしたローブを着てるのに、どうして、僕の胸の大きさなんか分かるんだ?
……そうか、シンハにのしかかられた、あのときだ。
「エッチ!」
思わず僕は、その少年のほっぺたを張り飛ばしていた。
「およっ……」
少年は頬を押さえ、眼を丸くして僕を見た。
「──よさないか!」
そのとき、ぞわり、と闇が動いた。
僕にはそう思えた。
いつの間にか、サマエル様が、僕のそばまで来て、手をつかんでいた。
彼の手は氷のように冷たく、僕はぞっとした。
間近で見るサマエル様は、想像していたのよりずっと若々しい。
魔族の年はよく分からないけど、二十歳後半くらいに見えた。
額に生えた鋭い角は純白で、さらさらな銀髪は、月の光の加減なんだろうか、右の生え際が一部、紫色をしている。
魔界の王子にふさわしい、高貴な感じがする整った顔。
でも、ついさっきまで穏やかだった彼の眼は、今、めらめらと黒い炎が燃え盛り、とても怒っているようだった。
彼が悪魔だと聞いたときよりも、もっとひどい寒気が僕を襲った。
千年、ううん、二万年以上も生きているなんて、もっと、よぼよぼのおじいさんみたいな人だとばっかり思っていたのに。
──怖い。僕は、この人が、怖くてたまらない。
「──は、放せっ! ぼ、僕に触るな!」
「キミが彼を叩いたのだぞ!」
サマエルの手を振りほどこうともがくと、彼はさらに力を込め、僕を取り押さえようとする。
ますます恐しくなって、僕は暴れた。
「い、嫌だ! さ、触るな、放せ、放せよっ!」
「まあ、待てよ、サマエル。
女の子に、あまり手荒なことはしたくねーって言ったのは、お前だろーが。
放してやれよ、お前につかまれてるトコが痛くて、暴れてんじゃねーのか?」
「……お前がそう言うのなら……」
渋々といった感じで、サマエル様は僕を解放した。
「大丈夫かい? すまなかったね、つい、かっとしてしまって」
サマエル様は謝ってくれたけど、体がガタガタと震え出し、どうしても止まらなくなってしまった。
自分で肩を押さえてみても、ムダな努力だった。
何てことをしちゃったんだろう、僕は。
もうダメだ、こんな最低の態度を取ったんじゃ、弟子になんか、してもらえるわけがない。
ここで追い返されたら、僕の記憶は、一生戻らないかも知れないのに。
僕は一体、誰なんだろう。本当は、どこへ行ったらいいんだろう。
もう、この世界のどこにも、僕のいる場所なんか、ないんだ……。
そんな考えが、ぐるぐる頭の中を巡って、しまいには眼がうるんでくる。
懸命にこらえていたけど、我慢できなくなり、とうとう僕は泣き出してしまった。
「わあん……! ご免なさい、ご免なさい……!」
そして、僕は一目散に、元来た道を駆け戻った。
「あ、キミ、待って──」
後ろで、誰かが、何か言ってる。でも、もう、ここにはいられない。
真っ暗なのと涙で足元が見えなくて、何度も転んだけど、僕は止まらずに駆け降り続ける。
段々息が切れてきて走れなくなり、それでも、何とかよろよろ歩いていたけど、とうとう、何かに蹴つまずいた。
その拍子に、ばったり倒れて、僕はそのまま意識がなくなってしまった。
気がついた時は、もうすっかり明るくなっていた。
「あ、あれ? 何、このあったかいの……」
毛皮にくるまっていることに気づいた僕は、面食らった。
僕が起き上がったら、それがむくむくと動き始めて、さらにびっくりした。
「わっ、何……?」
“目覚メタカ。人族ノ娘ヨ”
それは昨夜、サマエルの屋敷まで連れてってくれた、銀色の狼だった。
「どうして、キミがここにいるの……?」
“オ館様ノゴ命令ダ。オ前ヲ送ッテイクヨウニト”
「……悪魔なのに、優しいんだね、サマエル様って。
帰ったら、ありがとうって……あ、あの子にも、もう一度、ご免なさいって伝えといてくれる?」
すると、狼は小首をかしげ、視線を宙に泳がせた。
“……今、伝エタ。
サテ、オ前ハ、ドコニ行キタイノカ?
特別ニナケレバ、りおん様ノ所ヘ連レ帰ルヨウニ言ワレテイルガ”
さすがは魔物、この狼も、護符なしに会話ができるらしい。
いつでもどこでも話が出来るなんて、便利だな。
「行きたい所、ねぇ……」
僕は、ちょっと考えた。
「あ、そうだ。
僕、弟子が駄目だったら、ネスター先生に助けられた山に行ってみようと思ってたんだ。
近くに僕を知ってる人がいるかも知れないし、拾われた場所に行けば、何か思い出すかもって」
“デハ、ソコヘ行コウ。ソノ山ノ名ハ?”
「ペルス・ネージュ山だよ。こっからだと、南東になるのかな?
キミ、知ってる?」
狼はもう一度、視線を遠くに送った。
また、サマエル様と話してるんだろう。
“……今、オ館様ニ教エテ頂イタ。
行ク前ニ、マズハ食事ヲ摂ルヨウニト、仰ッテオラレル。
出発スルノハ、ソノ後ダト”
僕は首を横に振った。
「……お腹なんか空いてない」
昨日のショックから、まだ立ち直れてなくて、食欲は全然なかった。
だって、ペルス・ネージュ山のことは、気休めに過ぎなかったから。
何度も、ネスター先生が、あの山の周囲で尋ねて回ったりしてくれたけど、手がかりは何もなかったんだ。
“駄目ダ。何カ食シタ後デナクバ、我ハオ前ヲ、ソノ山ニ連レテ行クコトハセンゾ”
「……分かったよ」
仕方なく、僕は荷物を探り、残っていたパン半分と水を取り出した。
“タッタソレダケデ、足リルノカ?”
「キミが乗せてくれれば、すぐに下まで降りられるだろ。
その後に魔法で、もっとましな食事が出せるから、大丈夫だよ」
僕はそう言って、パンを口に放り込み、水で流し込んだ。
「食べたよ。さ、早く行こう」
そしたら、やっと、ケルベロスは体を伏せて、僕を背中に乗せてくれた。
“シッカリ、シガミツイテオレヨ、娘”
彼の話し方が、前よりほんの少し、優しくなったような気がする。
「僕の名前はシュネだよ、……本名じゃないけどね。
あとちょっとだけだけど、一緒にいるんだから覚えてくれる?」
“分カッタ、チャント名前デ呼ブコトニスル”
彼はそう答えて立ち上がり、まずは山のふもとまで、僕を運んでくれた。