3.金と銀の獣(3)
何も起きないまま、一瞬、二瞬……時が過ぎてゆく。
「……早く、殺れよ……」
僕は、うめくように言った。
すると、どういう風の吹き回しか、突然ライオンは起き上がり、僕を解放したんだ。
「な、何で……?」
『死に急ぐでない、
我が
「……えっ? 血?」
『左様。生きとし生くる者が死に際に大地にこぼす血潮、その紅き滴りが、
ライオンは、僕の耳元でささやく。
血がこいつの食べ物だけど、直接生き物を殺して食ったりはしない、ってことらしい。
『それほど会いたくば、連れて行ってやろう。
ただし、記憶のことはともかく、サマエルが汝を弟子にすることなぞ、あるまいぞ』
いかにも渋々って感じで、ライオンは言う。
途端に、元気が戻って来て、僕は飛び起きた。
「ホ、ホントに連れてってくれるの?」
ライオンは重々しくうなずいた。
『我は精霊、生き物とは異なり、偽りは申さぬ』
「あ──ありがとう! 僕は、シュネ・ヴィアラー。本名じゃないけどね。
年は十五歳くらい、かな、ほら、記憶がないから、よく分かんないんだ。
キミはいくつ? サマエル様の使い魔なんでしょ? 精霊ってことは、“焔の瞳”の化身なの?
あ、でも、ずっとサマエル様と一緒にいたわけじゃないよね?
十三年前まで、“焔の眸”としてお城にいたのに、どうして、今はこの山にいるの?」
興奮したときの癖で、僕は立て続けにまくしたてた。
ライオンは、うるさそうにぶるんと頭を振り、紅々と燃え上がるその眼で僕を見据えた。
『童子と申すは、何ゆえ、かようにせわしないものか……』
「あ、ご、ご免。でも、色々知りたくて」
『我は、サマエルと共に暮らしてはおるが、使い魔ではない。
我が年齢など、正確には分からぬ。
“焔の眸”として生成されたは、遙かなる太古。獅子の身体を獲得せし折より数えたと致しても、六十万年を軽く
ライオンの話には、古風で難しい言い回しばっかり使われていて、僕は頭を抱えた。
「ええっと……要するにキミは、六十万年以上も生きてるってこと……?」
ライオンは無言でうなずいた。
「ふ~ん、すごいお年寄りなんだねぇ。あ、えっと……キミの名前、何だっけ?」
『我は、シンハと呼ばれておる』
「じゃあ、シンハ。いつここに……」
もっと話を聞こうとした僕をさえぎって、シンハは闇に向かって呼びかけた。
『──出よ、ケルベロス!
その声に、やぶをかき分けて現れたのは、狼のボスだった。
他の狼達と一緒に行ったんじゃなかったのか。
“シカシ、奥方様、オ館様ニ、オ叱リヲ受ケルノデハ……?”
狼は鼻にしわを寄せて、うさんくさそうに僕を上から下まで見る。
……奥方……? って、たしか奥さんって意味だよねぇ。
まさか、このライオンが、サマエルの……?
僕が首をかしげていると、ライオンは、しっぽをぴしりと地面に叩き付けた。
『差し出口無用、黙るがよかろう。
過ぎ去りし事柄を愚痴るは、人族に任せておけばよい!
我がすべての責任を取るゆえ、
もはや、夜明けも近い、童子も眠かろう』
ケルベロスと呼ばれた狼は、ため息をついた。
“ヤレヤレ、以前ニモ、コレト同様ノコトヲシタ憶エガ……”
彼はブツブツ言いながらも、しゃがみ込んで、僕に背を差し出した。
“奥方様、直々ノゴ命令トアラバ、致シ方アルマイ、サッサト乗ルガイイ!”
(うっわー、賢者サマエルの使い魔に乗っけてもらったなんて言っても、誰も信じないだろうな!)
不服そうな狼の話なんか、それ以上耳にも入らず、僕はワクワクしながら、大きな背中にまたがった。
“シッカリ、シガミツイテオレ、人間。落チタトシテモ、拾ワヌゾ”
『
「わ、わわわっ!」
言うなり、狼の体が大きくジャンプし、僕は必死に毛皮にしがみついた。
隣を、ライオンが、弾丸のように突き進んでいく。
やぶや雑木林や大きな岩も、魔物の彼らには、全然邪魔にならない。
頭上には無数の星、地上では、西に傾き始めた月の光に照らし出された夜景が、流れていく。
その中を、二匹は、金と銀との双子の流れ星みたいに駆け抜ける。
体の下に躍動する筋肉を感じながら、このままずっと深い夜と同化して、世界の果てまで行けたらどんなにいいだろう、そう僕は思った。
一生忘れられない夜になりそうだった。
だけど、どんなことにも終わりが来る。
たとえ、それが、どんなに良いことでも、悪いことであったとしても。
“
夢見心地のひとときはあっという間に終わり、銀色の狼は、荒っぽく僕を振り落とした。
「痛ってて。お手柔らかに頼むよ、ケルベロス」
“馴レ馴レシク我ノ名ヲ呼ブナ! 人間ゴトキノ分際デ……!”
ケルベロスは、人間が好きじゃないみたいだったけど、目の前にそびえ立つ建物に心を奪われていた僕は、何を言われても全然気にならなかった。
「こ、これが、サマエル様の家?
すっげー! かっこいいー!」
真夜中もとっくに過ぎているのに、窓という窓には
それは、屋敷と言うより、城って呼んだ方がふさわしいみたいな、壮大な館だった。
王都アロンの宮殿よりは小さいけど、素晴らしさでは引けを取らない。
僕にはそう思えた。
大口を開けて見上げていたら、大きな門が音もなく開いた。
シンハとケルベロスは、すたすた中に入って行く。
『何を致しておる、童子、参るぞ』
「あ、ま、待ってよ、二人とも……わっ!」
慌てて追いかけたけど、足下が暗くて、つまずきそうになった。
「それが、弟子志願の子かい? シンハ、ケルベロス」
聞く者の心を優しく包み込むような、物静かな声が聞こえて来たのは、そのときだった。
“御意ニゴザイマス、オ館様”
ケルベロスはさっと体を伏せて答え、ライオンは、よろけた僕を横目で見た。
紅い眼が、館の灯りを反射してきらりと光る。
『左様。我が牙にかかろうとも、去らぬと
ルキフェルよ、汝が
「引導を渡す? 物騒なことを言うね……」
優しげな声が答える。
門を入ってすぐのところに、黒いローブを着た人が立っていたんだ。
闇にその色が溶け込んでいて、僕は一瞬、闇そのものが口を利いたみたいな錯覚に陥って、息を呑んだ。
「キミが、シュネだね」
声をかけられて、僕は我に返り、慌てて頭を下げた。
「あ、はい、あ、あなたが、サマエル様ですか!
き、記憶を、と、取り戻してもらいたくて、や、やって来ました!
ぼ、僕──僕は、小さい頃のことを何も覚えていないんです、ホントの名前さえ知りません。
だから、僕は、知りたいんです、自分が、どこの誰なのかを、ホントの両親はどこにいるのか、今も生きているのかを……!
お願いです! 何でも、どんなことでもしますから!」
「困ったね。私達は他人と関わりたくないし、失われた記憶を回復するなんて芸当も、できないよ」
彼は穏やかに言った。
賢者は、闇色のローブのフードをすっぽりとかぶり、顔はよく見えない。
でも声は、思ったより若々しかった。
「な、なら、ぼ、僕を、弟子に、して下さい、い、一人前の魔法使いになって、自分で、き、記憶、取り戻す方法を、み、見つけますから!
お、お、お──お願いです!」
僕は焦ると、つい、どもってしまうんだ。
「悪いが私は、弟子は取らないことにしている」
賢者は静かに答えた。
それでも、僕は食い下がった。
「そ、そこを何とか……!」
「キミの保護者はどなたなのかな? ここに来るのに、ちゃんと了解は取ってあるのだろうね?」
訊かれて、僕はどきりとした。
リオンは、賢者に何も話してくれてないんだろうか。
そうか、邪魔はしたくないって言ってたもんな。
これも試練の一つなんだろう、ちゃんと自分で、会いに来たわけを話さなきゃいけないんだ。
「あ、あの……ま、魔法学院の、が、学院長が、親代わりですけど、ぼ、僕、せ、成績悪いから、ぼ、僕の魔力と、記憶を、け、消して、他の施設に、やるって……」
ああ、もう、涙が出そうなくらい、下手くそな説明だ。
ゆっくり話そうとしてるのに、どうしても、どもりが出てしまう。
わけが分からなくなりそうになる頭を振って、僕は懸命に話し続けた。
「だ、だから、賢者様の、弟子にして、もらおう、って、思って。
ス、スクライ先輩が、リ、リオンを、紹介してくれて……。
そ、それで、魔力、封じられそうに、なったら、リオンが来てくれて、お城に、連れてって、くれて。
じ、女王様が、し、城に先生、呼び出して、くれるって。
でも、僕、待ってられなくて、ここに来た、んです……」
滅茶苦茶な説明だったけど、サマエル様はうなずいた。
「……ふむ、そうか。
だが、それでは私に頼るよりも、やはり一旦城に戻って、ネスターから直接説明を受けた方が、いいのではないかな?
女王の前では、ごり押しや嘘は通用しないだろう、学院長の本音が聞けると思うけれど」
僕は、首をぶんぶん横に振った。
「い、いいんです。
どうせ、僕のこと嫌いで、最初から、家に置く気、なかった人、ですから。
それに、学院に、戻されることに、なったりしたら、今度こそ、記憶も魔力も、取られちゃいますよ」
賢者は、ゆっくりと首を振った。
「私に教えられることなど、学校と大して差はないよ。
それに、賢者と呼ばれる者に師事したところで、偉大になれるとは限らないしね」
けど、僕は引き下がらなかった。
僕に取っちゃ、一生を左右する大問題なんだから。
「べ、別に、僕、偉くなりたいわけじゃ、ないんです、で、でも、千年以上も生きている、あなたなら、き、きっと、僕を助けられると……」
『千年以上、か。汝は、サマエルの正体を知っておるのか?』
そのとき、シンハが、僕らの会話に口を挟んで来た。
「え? 正体って……?
サ、サマエル様は、偉大な、魔法使いで、せ、千年以上も、生きておられる、け、賢者で……」
どもりながら答える僕を、サマエル様はさえぎった。
「待ちなさい、私は賢者などではないよ。ただキミ達人間が、そう呼んでいるだけのことだ。
正確に言えば、私の年齢は、二万千二百四十歳だが」
「ええっ、二万、千、二百? キミ達人間、って……あの……?」
面食らう僕に向けて、シンハは言った。
『サマエルは、人には
魔界の君主、タナトスが弟にて、“カオスの貴公子”の称号を持つ、魔族の王子なのだ』
あまりにも唐突で意外な話に、僕は眼をぱちくりさせた。
「う、嘘、でしょう、そんな、まさか、あなたが……」
「嘘ではないよ。ほら、ご覧」
そう言いながら、今の今まで、賢者だとばかり思っていた相手は、ゆっくりとフードを外したんだ。
月の光に浮かび上がった彼の額には、小さめだったけど、一本の角が生えていた。
その上、背中には、コウモリみたいな真っ黒い翼まで生えていることに気づき、僕は息を呑んだ。
「ふふ、驚きのあまり、口も利けないようだね。
さて──どうする?
私は悪魔、いつ気が変わって、キミを襲うか分からないよ?
今すぐ帰った方が、身のためだと思うけれどね……?」
魔物のシンボル、黒い翼を大きく広げて見せ、魔族の王子は、にっと笑った。
1 古代インドの数量の単位。普通一千億と解するが、異説も多い。転じて、きわめて大きな数量。
2 数の単位。10の60乗。一説に10の72乗。
引導を渡す
1 僧が死者に引導2を授ける。
2 相手の命がなくなることをわからせる。
あきらめるように最終的な宣告をする場合などにいう。