~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

3.金と銀の獣(2)

砂漠に入って二週間目、ついに、ワルプルギス山のふもとに到着した。
「と、とうとうやった! サマエルの山に着いたぞ!」
(はや)る心を押さえ、食料を三日分用意してから、僕は山に入って行った。
びくびくものだったけれど、結界は、何事もなく僕を通した。
僕は、ほっとして、登り始めた。
今までの熱く乾いた空気とは全然違う、湿って冷たい空気が僕を包んでいく。

ほとんど人が入らない山には、当然、道なんかないし、登山経験もない僕は、息ばかり切れて、ちっとも距離が稼げない。
すごくもどかしかったけど、お陰で山の存在を疑う気なんか、これっぽっちも起きなかった。
こんな大変な思いをして登っているのに、“山がない”なんて、あり得ないよね。

やがて、日が傾いてくる。
その頃には、くたくたで、もう限界だった。
リオンにもらった護符で、どうにかその場に結界を張り、申し訳程度にパンをかじる。
それから、寝袋にもぐり込み、僕は速攻で眠ってしまった。

「──ウワオーン!」
それからどれくらい経ったのか、いきなり、ぞっとしない声が響き渡った。
「──狼だ!」
疲れ果ててはいたけど、僕は反射的に飛び起き、それからほっと息をついた。
結界張ってあったんだっけ。
手出しできないと分かったら、狼達も諦めるだろ。

そうは思ったけど、深い山の中で一人ぼっち、爛々(らんらん)と光る眼と荒い息遣いに取り囲まれていくのは、あまり気持ちのいいもんじゃない。
そうしているうちに、どんどん狼は増えていき、結界がすっかり囲まれてしまうと、群れが二つに分かれ、一頭の狼が僕に歩み寄って来た。

そのとき、さっと雲が切れて、満月が顔を出した。
月の光に照らし出された狼は、でかくて、子牛ほどもあった。
青みがかった銀色の毛並み、体は傷だらけで、耳ときたら、片っぽ千切れてしまっている。
けど、黒い眼はいかにも利口そうだし、物腰にもどことなく、ただの狼とは思えない風格がある。

「学院の落ちこぼれ連中より、頭が良さそうな感じだなぁ。
体も一番大きいし、きっと、こいつがボスなんだろうな」
そう言ったら、まるで僕の話を理解したみたいに、片耳の狼はうなずいた。
……言葉が分かる?
そうか、こいつ、賢者の使い魔なのかもしれないぞ。

そこで僕は、声をかけてみることにした。
「……ね、キミのご主人は、賢者サマエル様なんでしょ?
僕は、ずっと遠くから彼に会いに来たんだ、弟子にして欲しくて。
お願いだ、連れてってよ、サマエル様のところに!」

そしたら、やっぱり使い魔だったらしく、狼は、苛立たしげに鼻を鳴らした。
“フン、弟子ダト? 厚顔無恥(コウガンムチ)ナ人間メ、オ館様ハ、何者ニモ会ワヌ!
明日マデ待ッテヤルユエ、コノ山ヨリ立チ去ルノダナ!”
サイクロプスの時と同じように、頭の中で声がする。
でも、巨人のとは違って、狼の声は、岩場を渡る荒々しい風みたいな感じがした。

ちょっと怖かったけど、僕は勇気を奮い起こした。
「い、嫌だ、サマエル様に会わせてくれるまで、僕は絶対、帰らないぞ!」
銀色の狼は、闇色の眼で僕を睨みつけた。
“今一度言オウ、無知蒙昧(ムチモウマイ)()ヨ。
オ館様ハ弟子ナドトラヌ、しんは様ニ噛ミ殺サレタクナクバ、明日ト言ワズ、()ク立チ去ルガイイ”

「シ、シンハって誰だよ、僕は帰らないって言ってるだろ!
いいよ、連れってってくれないなら、自力で彼のところに行くから!」
また、僕が言い返すと、狼は今度は牙をむき出した。
“コレホド言ッテモ分カラヌトハ、アキレ返ッタ愚カ者ヨ。
ナラバ、死ヲモタラス炎ノ獅子ニ会ウガヨイ。
ソノ時、後悔シテモ遅イゾ、警告ハ与エタノダカラナ!”

「──ウワオーン!」
ボス狼が一声吠えると、たくさんいた狼達はさっと身を(ひるがえ)し、去っていく。
大群の立てる足音と声が山に響き渡っていたけど、段々それも遠くなって、やがて聞こえなくなった。
辺りが静まり返ったら、急に疲れがどっと押し寄せてきて、僕はへたり込んでしまった。

「……炎の獅子って、おかみさん達が言ってたライオンのこと?
そいつも、サマエルの使い魔なのか……な」
深い山の中だからだろうか、自分の声まで奇妙に聞こえて、ものすごくドキドキした。
『その炎のライオンを見てしまった者は、食い殺されるか、眼を(つぶ)される』……。
ウースタインで聞いた言葉が、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。

「こ、こけ脅しさ、そんなの……。
な、何があったって、僕は賢者に会いに行くんだ……!」
強がって言ってみても、声が震える。
情けないけど、仕方なかった。
元々、僕は大した魔法は使えないけど、今持っている荷物の中で武器になりそうなものといったら、果物ナイフくらいで、こんなんじゃ、狼どころかウサギだって殺せやしない。

「そ、そうだ、火を点けよ……」
僕は、急いで荷物を探り、火打ち石を取り出した。
焚火があれば動物は寄って来ないし、明るければ心も落ち着くさ。
震える手で、枯れ枝を集め、どうにか火を起こす。
その明るさと温かさに後押しされて、僕はまた眠りについた。

翌朝。
眼が覚めると、焚火は消えていた。
小枝を集めてもう一度火を着け、ウースタインで買った干し肉をあぶって食べながら、僕は考えた。
昨日の狼の言葉も気になるけど、試練はたくさんあるって、リオンは言ってたし、それより何より、やっとここまで来たのに、一度脅かされたくらいで、しっぽを巻いて帰るわけにはいかない。
そう結論を出した僕は、火の始末をして、さらに登り続けることにした。

でも、いつ黄金のライオンが襲い掛かってくるかと気が気じゃなくて、ちょっとした物音や風の音にも、つい神経を尖らせてしまう。
「──く、くそぉ、負けないぞ、う、い、痛て、痛てて……」
慣れない山道を、たった一日で、早くも筋肉痛になってしまった足で、僕は、よたよたしながら進んでいった。

でも、足だけじゃなく、体のあちこちが痛い。
思った以上に登山ってのは、普段使わない筋肉を使うんだな、って僕は実感した。
僕は元々、運動は苦手だし、学院を出てからも、歩くより乗り物や魔法で移動する方が多かったしね。
それでも、無理矢理足を動かしてるうちに、段々痛みは軽くなってくる。
やがて、日が沈み、ワルプルギス山での二度目の夜が来た。

護符を使って結界を張り、焚火を前にして、僕はちょっと拍子抜けした気分を味わっていた。
「……何だ、やっぱり、こけ脅しだったんだな。ライオンなんか、全然出て来ないじゃないか。
ちぇっ、びびらせてさ」
その直後、まるで僕のつぶやきが聞こえたみたいに、遠吠えが響いた。
昨日と同様、たくさんの狼が、結界を取り囲んでいく。

「何度来たって無駄だよ、帰らないからね!」
僕は、群れに向かって叫んだ。
するとまた、巨大な狼が、のそりと僕の前に立った。
“マダオッタノカ、愚カ者”
「いて悪いか!
弟子にしてくれるかどうかは、キミじゃなくて、サマエル様から直接聞きたいんだよ、僕は!」

“シツコイゾ!”
狼のボスが歯をむき出すのと、その隣にいた一匹の狼が、僕目がけて跳びかかって来るのとは同時だった。
「──ギャン!」
すごい音と白い光、悲鳴と共に、狼は地面にたたきつけられる。

途端に狼達は殺気立ち、結界目がけて一斉に飛びかかろうとしたところで、ボスが吼えた。
「──ウオーン!」
統制が取れている群れは、その一声で攻撃をやめ、山の中に引き返してゆく。
倒れた狼も、すぐに起き上がって後を追う。
よかった。大したケガはしてないみたいだ。

でも、リオンがくれたこの護符は、やっぱりすごい。
直接呪文を唱えるよりも、結界の力は落ちてるはずだけど、きっと、狼が何匹襲って来たって、全然へっちゃらだろう。
さすが、ボス狼は利口だ、それを知ってるから、仲間を止めたんだな。

そう思っていたとき。
どこからか、深い響きの重々しい声が聞こえてきた。
(いま)だこの地におったか、童子よ。ケルベロスでは荷が勝ち過ぎたか』
「だ、誰だ!?」
僕は、闇をすかして声の方を見た。
『我が名はシンハ。我直々に、汝に警告を発する。
──()ね! さもなくば、我が鋭き牙の餌食(えじき)にしてくれようぞ!』

真っ暗い中に、紅い光が浮かび上がって、段々近づいてくる。
光がそばまで来た時、僕は自分の眼を疑った。
それは本当に、炎のライオンだったんだ。
大きさは、ずっと前に動物園で見たライオンの倍くらいもあるし、たてがみは、燃え上がる真っ赤な炎で出来ていて、しなやかに動く体は、滑らかな金色の毛皮で覆われている。

そして、そいつは、すごく不機嫌そうだった。
鼻にしわを寄せて、地面をパシパシとしっぽで叩き、低い唸り声を出してる。
言葉を発するたびに見える口の中の、ずらっと並んだ鋭い牙は、明らかに僕を威嚇(いかく)していた。
でも、そのときの僕には、恐怖よりも、こんな生き物が人界にもいたのか、何て綺麗なんだろう……って思いがあるだけだった。

その思いを強めたのは、ライオンの眼だった。
紅く妖しく光る瞳の中には、不思議な黄金色をした輝きが、炎のようにゆらゆら踊っている。
まるで、“焔の瞳”みたいだと僕は思った。

“焔の眸”は、ファイディーの正当な王位継承者がだけが持つ宝石だ。
皆の話じゃ、深い紅色の中に黄金の炎が燃えていて、魔界の石だろうと言われるほどで、その輝きを一度見たら、絶対忘れられないんだって。
でも、アンドラス王の事件の時に紛失したって言われてたのに。

「……キミ、“焔の瞳”と何か関係があるの?」
思わず訊いたけど、ライオンはその問いには答えず、くるりと背を向けた。
()()ぬるがよい、明晩までに山を下らぬのならば、今度こそ汝の命はなきものと思え』
「帰らない! お願いだよ、サマエル様に会わせてっ!」
必死の思いで、僕は叫んだ。
せっかく、こんな山奥まで登って来たのに、賢者に会うこともできないなんて。

(すみ)やかな死を望むか、童子よ』
ライオンは冷ややかに言い、素早く向きを変えてジャンプした。
「──うわっ……!」
白い火花が散って結界が消滅し、そのまま、ライオンは僕に飛びかかってきた。
でかくて重い体が僕にのしかかり、もがいたけど、完全に押さえ込まれてしまった。

「くっ、苦し……は、放せっ!」
『……これでも去らぬと申すか?』
熱い息が顔にかかり、鋭い牙が光る。
僕は歯を食いしばり、ライオンの重みに耐えた。

「食いたきゃ、食えよっ!
僕、には、小さい頃の記憶が、ない。記憶が、戻るかもって、魔法学院に、入ったけど……落ちこぼれだし、が、学院長は、僕の魔力を、封じようとするし……。
だ、だから、サマエル様、なら、記憶を、戻せるかも、しれない、もし、駄目でも、弟子入り、出来たら、って思ったんだ……。
でも、会うことも、出来ないって、言うんなら……もう、僕には帰るとこもない、いっそ、一思いに……」

リオンには、ああ言ったけれど、僕はもう、何があっても、城に戻るつもりはなかったんだ。
「けど……僕、食ったら、しばらく、我慢、できるだろ?
あんまり、人間、食わないで、くれよな……」
ライオンの熱い息が、ますます近くなる。
僕は、鋭い牙が喉に食い込むのを覚悟して、ぎゅっと眼をつぶった。

厚顔無恥(こうがんむち) あつかましく恥知らずな・こと(さま)。
無知蒙昧(むちもうまい) 学問がなく、物事の道理を知らないこと。また、そのさま。
() その仲間。その同類の人。「学問の―」「無頼(ぶらい)の―」