~紅龍の夢~

巻の五 THE MEMORY OF EMERALD ─緑柱石の記憶─

1.魔法学院(3)

夜はよく寝られず、朝になっても『早く放課後になれ』、そればっかり考えて、僕は何も手につかずにいた。
なのに、こんな日に限って、授業が伸びる。
じりじりしていた僕は、先生が終わりって言った瞬間に教室を飛び出し、アルファ実験室に駆けつけた。

「遅れてすみません、先輩!」
息せき切ってドアを開けたけど、実験室はがらんとして、静まり返っている。
「……あ、あれ?」
僕は肩透かしを食らい、そっと中に入った。
色んな薬の臭い。天井は高く、空気はひやりとして誰もいない。
後ろの方に机と椅子が並び、前の方は、実験が出来るように、広く空間が取られている。

「もしかして、忘れられちゃったのかな……」
僕は脱力して、椅子に座り込んだ。
いや、ちゃんと約束したんだし、そんなわけない。
僕みたいに、授業が伸びたのかも知れないし。
もう少し待って、それでも来ないようなら迎えに行こう、そう思ったとき。

「やあシュネ、ご免、待ったかい?」
先輩が大きな箱を手に、実験室に入ってきた。
「後をつけてた女の子をまいてきたのと、ちょっと準備する物もあってさ」
「あ、先輩、よかったぁ。てっきり忘れられちゃったかと……」
僕は、心の底からほっとして立ち上がった。
「はは、昨日の今日だぜ、忘れるわけないだろ。
まずは結界、それから魔法陣だな」

先輩は、手早く部屋に結界を張り、床に魔法陣を描いた。
その中央に、机と椅子を並べて僕らは向かい合わせに座る。
そして、先輩は、人の頭くらいもある大きな水晶球を、持って来た箱から取り出した。
「さて、始めるぞ」
「は、はい……」
僕は緊張して、心臓が口から飛び出しそうだった。

「そんなに硬くならなくていいよ。深呼吸して、落ち着いて。
少しずつ、過去をさかのぼってみるから。
ただし、あまりいい思い出がないかも知れない。それは、覚悟しておいてくれよ」
「わ、分かりました」
僕は何度か深呼吸し、気を静めた。

「よし、じゃあ、水晶球に意識を集中して」
「はい」
見つめても、水晶には、逆さまの僕自身が映っているだけ。
こんなんで大丈夫かなと、心配になったとき、僕の顔が突然くるりとひっくり返ったかと思うと、誰かの顔に置き換わった。

『そうつっかかるなよ。
あのな、お前、高等科に、サマエルに会ったことがある先輩がいるんだってこと、忘れてねーか?』
しゃべってるのは、ケイル……そっか、これは昨日の記憶だ。
先輩のことを教えられた僕が、高等科の教室めがけて走っていく……。

そのとき、映像が乱れて、今度は、他の生徒達が見えて来た。
『無理に決まってるよ、そんな有名人、簡単に弟子なんか取らないって。
オレ達みたいな落ちこぼれ……っていうか、どんないい成績のヤツでも、断られるよ、きっと』
『え、でも、行ってみなきゃ分かんないだろ』
『おいおい、サマエルの家、知ってんのか?』
これは数週間前、ジンとのやりとりだ。

そして、画面がまた変化した。
迷路みたいな学院の廊下を、僕が一人で歩いている。
周りには誰もいない。
そして、僕のずっと前を、召喚術のベタク先生が歩いていた。
この先生は、あんまり好きじゃない。
僕が、召喚術が苦手ってこともあるけどね。

そのとき、ベタク先生が、ネスター先生に行き会い、尋ねた。
『おお、学院長先生。いいところでお会いできました。
シュネをどうなさるおつもりなのですか?』
自分の名前が出たことに驚いて、僕はとっさに廊下の角に隠れた。

『シュネをどうするとは……?』
ネスター先生が聞き返す声がする。
『この学期が終わったら、進路を考えねばなりませんでしょう。
ですが、シュネは、高等科に進むには、あまりにも……』
『ああ、その件ですか。たしかに成績はよくないですね』
胸がどきりとした。

『初等科までは魔力が安定しない生徒も多いですが、中等科の四年になっても魔力が制御出来ないとなると、これ以上、学院に置いても無駄でしょう。
見込みがないと本人にも知らせ、普通の学校に行かせるのが、一番の得策だと思いますよ』
ベタク先生は言い切った。
分かっちゃいたけど、こうまではっきり言われると……。
だから嫌いなんだ、この先生。

だけど、次の瞬間、そんな思いも一瞬で吹き飛んでしまうようなことを、ネスター先生が言ったんだ。
『わたしもそれは考えていました。
しかし、シュネの場合、魔力が暴発する恐れがあります。
転校の際には、魔力を封じる必要があるでしょうな。
ことによると……魔法に関するすべての記憶も、消去しなければならないかも知れません。
……無論、最悪の場合、ですが』

『何と、そこまで考えていらしたとは。
しかし、成績が悪いと言っても、素行は悪くはないでしょう。
かえって、いじめられているくらいですよ。
なぜ、記憶まで消す必要があるんですかね?』
けげんそうなベタク先生の声が聞こえる。

『いや、それは……ああ、ここでは生徒に聞かれます、わたしの部屋で続きをお話しましょう』
『そうですな』
先生達の足音が遠くなっていく。

僕は、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
そのうちに、生徒達が通り過ぎ始めて、我に返り、歩こうとしたけど、足が言うことを聞かなかった。
壁に手を当てて歯を食いしばり、座り込んでしまいそうな体を支えるのがやっとだったんだ。

ネスター先生が、僕のこと好きじゃないのは分かっていた。他の施設にやりたがっていたのも。
でも、魔力を封じた上に、記憶まで消す気でいたなんて……。
けど、命を救ったからって、他人の記憶や魔力まで自由にする権利なんかあるんだろうか。

その後、僕は絶望感に打ちのめされて、何日も食事がのどを通らなかった。
夜もよく寝られず、授業に出る気力も失せてしまったから、体調が悪いことにして、授業も休んだ。
どんな魔法を習ったって、記憶を消されてしまうんなら、覚える気になるわけがない。
これは、先月の出来事だ……。

「──畜生!」
その声に、僕は我に返った。
先輩が、机の上で拳を固く握り締めていた。
「キミが焦ってるわけが、ようやく分かったよ。こんなことがあったなんて」
僕はうなだれた。
「……ええ。僕、ネスター先生にあんまり好かれてないから……」

「相手が気に入らなきゃ、何してもいいっていうのか!?
まったく!」
スクライ先輩は、思い切り机をたたいた。
「先輩?」
僕はびっくりして彼を見つめた。
「……あ、ご免、だからこそ、記憶を取り戻そうとしてるんだもんな」
先輩は大きく息をついた。

そのときになってようやく、僕は、この先輩が受けた災難を思い出した。
「……あの、先輩。魔力を封じられるのって、どんな感じなんですか?
やっぱり辛いんですか……?
──あ、ご、ご免なさい!」
つい聞いてしまってから、僕は慌てて謝った。

四年前のことだ。
“禁呪の書”を盗んだ濡れ衣を着せられて、セエレ・スクライ先輩は、学院を放校されてしまったんだ。
一年以上も経ってから、偶然会った賢者サマエルが無実を証明してくれて、半年間の療養の後、ようやく彼は学院に戻って来れた。
そしたら、どういうわけか、ものすごく魔力が強くなってたらしい。

でも、前はすごく明るい人だったのに、別人みたいに影のある性格になってしまったって聞いた。
それで、かえって魅力が増して、学院に限らず女の子達にモテモテになったみたい。
先輩は迷惑そうだけど。

「いや、構わないよ、キミなら。
……ひどかったな。今まで当たり前にできてたことが全然できなくなるんだから。
学院長だけじゃなく、学院の教師全員を恨んだよ。
いや、魔法使いに、大人……社会全体を呪ったといってもいい。
賢者に助けられなかったら、俺はまだあのまま、すべてを憎んでいたろうな……」
先輩は音が聞こえるくらい強く、歯を噛み締めた。
同時に、澄んだ青い眼に、暗い影みたいなものが浮かぶ。
思わず僕は、ぎくりとしてしまった。

「ほ、本当にすみません、余計なこと言っちゃって」
僕が頭を下げると、先輩は首を振り、一瞬で影は消えた。
「いいって、続けよう。俺がキミの記憶を取り戻してやるよ。
そんなことにならないように」
「はい、お願いします」

僕は、もう一度、水晶に意識を集中させた。
どんどん時がさかのぼっていく。
マイアさんの笑顔。おいしい手料理、先生も微笑んでる。
あの頃はホント、よかった。あのままだったらな……。

そして、とうとう、五年前の、ネスター先生に拾われた運命の日にたどり着いた。
冷たい雪の中に倒れてる僕。先生の言葉は、意識が朦朧(もうろう)としてる僕には分からない……。

「……駄目だ」
その声で、僕は、また現実に引き戻された。
スクライ先輩が、すごく怖い顔で水晶球を睨んでいた。
「どう……したんですか?」
「この先が、どうやっても見えないんだ」
「え?」

「この感じは……過去によっぽど嫌なことがあって、キミ自身が思い出さないようにしているか、さもなきゃ、誰かがキミの記憶を封じてるか、どっちかみたいだな。
しかも、かなり強力にね」
「ぼ、僕は思い出したくてしょうがないですよ!」
僕は叫んだ。
魔力を使えるようになるためには、それしかない……はずなんだから。

僕らは顔を見合わせた。
ネスター先生だ。それ以外に考えられない。
奥さんのために、僕の記憶を封じたのはいいけれど、彼女は死んでしまい、もう、落ちこぼれの僕を、学院に置いとく必要はない。
半端な魔力も邪魔だし、それに魔法使いには、先生が僕の記憶を封じていたことが分かってしまう。
だから、いっそのこと、魔力も記憶も全部消してしまおうって考えたんじゃないだろうか……。

「ひどいな。許せない……」
先輩の瞳に、また暗い影が差す。
それを見てるうち、僕の胸の中にも、複雑な気分が湧き上がって来た。
怒り? 憤慨? それとも……。うまく表現出来ないけど……。
放校されてたスクライ先輩は、ずっとこんな気分だったのかな……。

僕は、頭を振って立ち上がった。
「ありがとうございました。僕、もう行きます」
「行くって、まさか、キミ……」
「ええ、サマエルは自分で探します。お世話になりました」
僕は深く礼をした。
準備はとっくに出来てる。構うもんか、このまま学院を出て、賢者探しに行こう。

「待てよ、まだ……」
「放して……あ!」
つかまれた腕を振り払った弾みで倒れそうになった僕を、先輩が支えてくれた。
「諦めるのは早いぜ、シュネ」
「え?」

「最初は俺も、卒業してから賢者に会っても遅くないと思ってた。
でも、そういうことなら、急がなくちゃな。
俺は、賢者の家は知らない。でも、居場所を知っていそうな人には心当たりがあるんだ」
僕は、無言でスクライ先輩を見つめた。
裏切られてばかりで、もう希望を持つのが怖くなっていたんだ。

すると、僕の心を読んだみたいに、彼は言った。
「ああ、その人も知らないかもな。
けど、手探りで探すより、ダメモトで会ってみたらどうだ?」
「……そう、ですね」
僕はどうにか、うなずいた。
「次の休みに会えるように、手配してみるよ」
「はい……お願いします」