19.予言のひずみ(6)
“……あきれたものだ。王ともあろう者が、
懐かしいダイアデムの姿に、湧き上がる思いを抑え、サマエルは感想を述べた。
クスクス笑いを、叔母は返して来た。
“だから、『焔の眸』が呼び出されて、人界に行った時は、ちょっとしたパニックが起きたのよ。
また、タナトスが荒れるんじゃないかって。
でも、あの子、何事もなかったように平然と執務をこなしていたから、皆、肩透かしを食らっていたわ”
“そうでしたか。本当に進歩していますねぇ。タナトスをお願いします、叔母上”
“ええ、ちゃんと相手をしてあげるわ、お前に免じてね”
“ありがとうございます”
彼は頭を下げた。
「わたし、用事の途中なの。またね、サマエル、リオン」
そう言ってイシュタルが去ると、サマエルはまだ考えに没頭していた子孫に、声をかけた。
「私の部屋に来ないか、リオン。“
「……え、あ、うん、行くよ」
リオンは、ようやく我に返った。
回廊を歩きながら、サマエルは、リオンに詫びた。
「さっきは、いきなり、変なことを言ってしまって、すまなかったね」
「う、うん……ちょっと驚いたけど、ま、仕方ないよね。
……魔族なんだし」
子孫の表情が少し曇ったのに気づいたサマエルは、眼を伏せた。
「時々思うよ、私さえいなければ、と……」
少年は、否定の身振りをした。
「そしたら、ぼくも生まれてないよ? 前に言ったでしょ、そんなこと気にしないでって。
それよか……ねえ、サマエル。
ぼく、ずっと考えてたことがあったんだけど……」
「何だい?」
「あの……あのさ、その……」
少し言いよどみ、それから、意を決したようにリオンは顔を上げた。
「あのさ、サマエル。あなたのこと、“お父さん”って呼んでいい?」
「──ええっ!?」
想像もしていなかった言葉に、サマエルは仰天して歩みを止めた。
最近は、意外なことを言われてばかりいる……そんな思いが頭をよぎる。
「そんなにびっくりすることかな。
……ねぇ、駄目?」
少年は小首をかしげ、
「し、しかし……初めて会ったとき、お前はあんなに私を嫌って……」
サマエルは口ごもった。
リオンは頬を赤くし、首を横に振った。
「あ、違う、嫌ってたんじゃないよ。
サマエルは王子様だし、魔力は強いし、おまけにカッコイイんだもの、悔しかったんだ。
ライラを取られちゃうと思って……ぼくなんか、全然
サマエルは首を横に振った。
「そんなことはないさ。お前にもいいところがあるし、第一、ライラは私よりお前を選んだろう?
それに、世界を滅ぼすだけのための力など、あっても仕方がないしね」
「そんな力、使わなきゃいいじゃない。
サマエルが紅龍に変身しちゃったのは、バカ天使のミカエルのせいなんだし、あんなことがあった後じゃ、もう天界も、ちょっかいかけて来ないよ」
「しばらくはね。いずれ天界とは、決着をつける時が来るだろうが……」
「ねぇ、そんなことより、呼んでいいでしょう、サマエル?」
真剣な眼差しで自分を仰ぐ子孫を、サマエルは眩しげに見た。
(私もこんな風に、無邪気な瞳でベルゼブル陛下に願うことが出来たなら、どんなにか……。
いや、たとえ勇を
私は……タナトスと違い、陛下の子ではなく、生け贄の儀式もまだ先だ……)
「……やっぱり駄目か。千年以上も経った子孫じゃ、もう血のつながりとか、全然関係ないもんね……」
栗色の髪の少年はしょげた。
その仕草はジルを思い出させ、サマエルは頬をゆるめた。
「そんなことはないよ、リオン。
ただ、まったくの予想外だったから、本当に驚いてしまったのだ……」
リオンは元気よく顔を上げた。
「え、じゃあ、いいの?」
「ああ、お前さえ良かったら……」
「わーい、やった!」
小さな子供のようにはしゃぐリオンの姿は、やはり、亡くなった妻をほうふつとさせる。
この少年は紛れもなく、自分とジルの血を引いている、改めて彼は思った。
「そんなにうれしいかい?」
少々くすぐったい気分で尋ねてみる。
「──うん! ぼく、小さい頃、こんなお父さんがいたらいいな、とか色々考えてたんだけど、想像したより、ずーっと強くて、すっごくカッコイイお父さんが出来たんだもん!」
顔を輝かせて答える少年の栗色の瞳には、打算も迷いもなかった。
その仕草は年の割に子供っぽく、リオンの精神年齢は、おそらく、人族の十代前半くらいなのだろう。
魔族とも人族とも年の取り方が違うのは、複雑な遺伝子のなせるわざだった。
「私もうれしいよ、リオン。
こんな男を、父と
二百年生きた妻よりも先に
「うん、お父さん!」
リオンは、ぎゅっと抱きつき返した。
それから二人は、温かい気持ちに満たされながら部屋へと向かった。
「でもさ、人界の屋敷でも迷子になっちゃったけど、ここはもっとすごいよね、本物の迷路みたいだ」
「大丈夫。ここでは、行き先を告げれば床に表示が出るから。
──私の部屋へ、案内を頼む」
サマエルが口を開いた途端、回廊に敷き詰められた絨毯に、淡い光の矢印が浮かび上がった。
「あ、なるほど。便利ー」
「だが、知らない場所は指定しない方がいい。
汎魔殿は広大だ、往復が大変だよ。移動魔法は禁じられているから」
「そっか」
光に導かれ、手の形をした燭台の間を縫うように歩きながら話すうち、彼らは目的地に着いた。
「ここが、お父さんが子供だった時、住んでた部屋?」
「そうだよ、あまりいい思い出はないけれど……。
──!?」
扉を開けた刹那、二人は凍りついた。
誰もいないはずの室内に、異様な
「──“
とっさにサマエルは、息子同然のリオンを後ろにかばう。
「待っていたぞ、ルキフェル。サタナエルと話はついたようだな」
不気味な瞳を彼らに向け、テネブレは、いつも通りの不吉な口調で言った。
サマエルは、さらに身を硬くした。
「……それがどうした」
「左様に警戒せずともよい、おぬしと二人きりで、少々話がしたいと思うて参ったのだ」
「……分かった。リオン、隣の部屋で待っていてくれないか」
「う、うん」
少年が隣室に消えるやいなや、“黯黒の眸”は、ずかずかと近寄って来た。
反射的に、サマエルは一歩退く。
テネブレは、鼻を鳴らして匂いをかいだ。
「ふん……、おぬし、サタナエルと寝たな」
「私から望んだことではない、いつもあいつは無理に……」
言いかける彼に突如、むしゃぶりつき、宝石の化身は強引に唇を奪った。
「──痛っ!」
サマエルはテネブレを突き飛ばす。舌に噛みつかれたのだ。
「お前、
あるいは、もう一人の兄弟をも連れて行こうとしているからか!
いや、それともタナトスの相手をしたからか!?」
痛みをこらえ、サマエルは詰問した。
すると、突然、魔界の至宝の片割れは頭を抱えた。
「……分からぬ。何ゆえ、かような心持ちになるのか。
そのたびに、我は、すべてを滅してしまいたくなる……。
いかに対処致せばよいやら、皆目見当がつかぬ、何ゆえか苦しいのだ、ルキフェル……」
サマエルはあっけに取られ、“黯黒の眸”の化身を見つめた。
魔界の至宝の顔は苦痛に歪み、本当に
「どうしたというのだ、テネブレ。タナトスと話してみたか?」
テネブレは、悲しげに首を横に振った。
「おぬし同様、サタナエルも我を拒絶する。
いかに求めようとも、誰も我には目もくれぬ。
我のみが、いつも捨ておかれ、忘れられる……」
「それはお前が、自分の考えを強要し、支配しようとするからさ。
特に、タナトスには押し付けは禁物だよ。ヤツは猟犬と同じ、獲物を追う性分。
お前やリリスのように自分から迫るより、逃げればいい、間違いなく追いかけてくるぞ」
「左様なこと、我に出来るわけがなかろう、“焔の眸”のごとく、生まれ変わりでもせぬ限り!」
悲痛な声で言い、魔界の至宝は眼を閉じた。
禍々しい瞳が隠れたせいか、テネブレがひどく小さく見える。
このときになって初めて、サマエルは、闇の精霊の心を理解出来た気がした。
「……そうか、お前、淋しいのだな」
“黯黒の眸”は、弾かれたように眼を開ける。
「──淋しいだと? 我がか?」
「孤独を感じ、心が満たされないのだろう? そういう精神状態を、“淋しい”と言うのだよ。
タナトスに言ってみるがいい、『一人、取り残されて淋しい』と。
同じような思いを抱えているから、きっと分かってくれるだろう」
しかし、テネブレは、虚ろな眼で頭を横に振った。
「いいや、サタナエルが、我に関心を寄せることなどあり得ぬわ。
我は今まで散々、主たるあの者に背いてきた。
いかに
さらばだ、ルキフェル。我が兄弟と
刹那、暗黒の化身の姿は、空中に溶け込むように消えた。
(……ふむ、あいつにも“心”はあったのだな。
タナトスと同様、すべては淋しさから出たことか……。
人騒がせだが、哀れでもある……まあ、私も他人のことは言えないが)
しばし、過去の事件に思いを巡らせてから、サマエルは隣室の扉を開けた。
「出て来ていいよ、リオン」
「もう話が終わったの、サマエ……ううん、お父さん。
あれ、口から血が出てるよ?」
リオンは彼を指差した。
「……ん? ああ、ちょっと噛まれただけさ」
第二王子は唇をぬぐう。すでに血は乾き、傷もふさがっていた。
「噛まれた──何で!? 大丈夫!?」
少年は驚き、先祖に駆け寄った。
「平気だよ。
だが、“黯黒の眸”が、淋しさを持て余していたとは気づかなかったな」
「えっ、あんなヤツでも淋しいの?」
リオンは栗色の眼を丸くした。
「……昔から、“黯黒の眸”は、禍々しいと忌み嫌われて、儀式にも出られず、長いこと忘れられていた。
似た境遇の私が、カオス神殿の司祭となったとき、あいつはようやく、分かってくれる相手が出来たと喜んだのだろう。
ところが、私はテネブレを嫌い、あげく魔界を出てしまい、今もまた、あいつの兄弟、それも二人共奪っていく……。
タナトスにも邪険にされて、“黯黒の眸”は、今度こそ、一人ぼっちになってしまうと思ったのだろうね。
だが、それを……淋しいという思いをうまく表現できなくて、今まで誰にも、理解してはもらえなかったのだな……」
「ふうん、そうだったんだ。ちょっとだけ可哀想かも」
「“焔の眸”を復活させたら、二人でもう一度、あいつと話してみるよ。
タナトスにも教えておこう、テネブレの気持ちを。淋しがっているということをね」
「うん。じゃ、早くダイアデムを戻さなきゃね」
「そうだな。楽しみだ」
サマエルは、ようやく、心からの笑みを浮かべることが出来た。
児戯に等しい 《「史記」絳侯世家から》ある行為が無価値であることにいう。
煩悶(はんもん) いろいろ悩み苦しむこと。苦しみもだえること。
宥恕(ゆうじょ) 寛大な心で許すこと。