~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

19.予言のひずみ(4)

一週間後。
「いい加減、認めたらどうなのだ、タナトス。賭けは、私の勝ちだろう?」
ひじをついて半身を起こし、汗に濡れた銀髪をかき上げて、サマエルは、兄に語りかけた。
潤んだ紅い瞳、長いまつげ、いつもは青白く冷たい肌は熱を帯びて、ほのかな桜色に上気した頬と、紅を引いたような唇とが、第二王子の美貌をさらに引き立てる。

寝そべっていた魔界の王は、額に垂れた黒い髪を乱暴に払いのけ、弟にそっくりな紅い眼を怒らせて跳ね起きた。
「黙れ! 俺はまだ負けてはおらん!」
「そんな強がりを言って。お前もそろそろ限界だろうに」
「くそっ、貴様こそ本気を出せ、俺を満足させろ!」
タナトスは、勢いよく弟を仰向けにした。

「放せ!」
サマエルはもがいた。
「放して欲しければ、本気でやれ!」
タナトスは、抵抗する弟の手首をつかんで押さえつけ、二人の体から放出される、媚薬(びやく)をたっぷりと含んだ甘い芳香が、一層強く匂い立つ。
「駄目だ、タナトス!」
「うるさい、命令に従え!」
「よせ! 後で苦労するのはお前だぞ!」

「ちいっ、もったいぶりおって!
(めし)いた眸”が欲しくないのか! “焔の眸”はどうするのだ!」
タナトスは、暴れる弟を怒鳴りつけた。
深く息を吐き、サマエルは、渋々体の力を抜いた。
「……それほど言うなら、本気になろう。でも、後で泣いても知らないぞ」
「ちっ、大した自信だな、貴様!」

「ああ、飽きるほど見て来たからな、今まで。
一度味を占めてしまった者達が、抑制が効かなくなり、堕落してしまうのを。
おそらく、お前もそうなるさ……」
「ふん、そんな柔弱(じゅうじゃく)(やから)と俺を一緒にするな、この尻軽男め!」
「タナトス……。
お前、私が道楽で、女や……時には男とも、寝て来たと思っているようだが、それは思い違いだ。
私は食い扶持(ぶち)を、自分で稼がなければならなかったのだよ、この体でね……」
第二王子は、悲しげに自分を指した。

タナトスは顔をしかめた。
「何を言っている、貴様は毎日、俺や親父達と飯を食っていただろうが」
「小さな頃はね。だが、私には拷問(ごうもん)同然だったよ。
ベルゼブル陛下の、汚い物でも見るかのような視線が恐くて、常に消えて無くなりたいという思いで一杯だった……味どころか、何を食べているかもよく分からないほどで……。
叔母上が寝込まれてからは、余計に緊張が(つの)り、食事時が近づくと、腹痛や吐き気にみまわれるようになって、食堂へも行けなくなり……」
サマエルは身を震わせた。

第二王子が自殺未遂をしたことでシンハが現れる前は、イシュタルも加え、四人で食事をしていた。
しかし、シンハが記憶を消し去った直後、彼女は病に倒れて闘病生活を送ることとなり、緩衝(かんしょう)役が消えた食卓は、一気にぴりぴりと張り詰めるようになってしまったのだ。

「ちっ、俺だとて、あのギスギスした雰囲気の中で食う飯は、まずさの(きわ)みだったぞ。
一人で食うようになったときには、心底せいせいしたな。
……昔、ジルやイナンナ、プロケルと人界にいた時には、どんな物でも美味だった気がするが」
タナトスは、テーブルの皿に向けて手を振った。
「そうだね。初めて、団欒(だんらん)というものを体験したな」
サマエルは、淋しげに微笑んだ。

「……で? それと貴様の食い扶持と、どういう関係があるのだ?」
「再三呼び出されても、私は行くことができなかった……ご立腹された陛下は、そんな私を、無理矢理食堂まで引きずっていったのだよ。
結果、私の症状はますますひどくなり、部屋から一歩も出られなくなってしまった……。
だが、陛下は、それを仮病と決めつけ、私が食堂に来るまで、一切食物を与えないようにと命じられたのだ。
それから、何も口に出来ない日々が始まった……いくら空腹を訴えても、誰も耳を貸さず、私がいかに無価値な存在かを、否応なく実感させられた……。
仕方なく、みずから(かて)を求めて徘徊(はいかい)するうち、目が回って倒れ……そのときお前が通りかかって……」

王子というのに食事も満足に与えられず、広大な城を彷徨(さまよ)い、空腹のあまり回廊の隅で気を失ったサマエルを、誰一人見向きもしなかった。
目を留めたのは、タナトスだけだった。
ただし、そのときの彼は、おのれの欲望を満たす対象としてしか、弟を見ていなかったのだが。

「……ああ、思い出したぞ。
こんなところで寝ているとは妙なヤツだと思ったが、あの日、貴様はひどく飢えていたな。
食い物で釣って、部屋に連れ込み、楽しんだのだった。
……だが、くそ親父め、どんな理由があろうと、まだガキだぞ、餌ぐらいやってもよかろうに……!」
自分の行動は棚に上げ、父親への嫌悪感で、タナトスは顔を歪ませた。

第二王子は、暗い視線を宙に彷徨わせた。
「……今考えると、陛下は意図的に、私が()ちるように仕向けたのではないだろうか。
碑文にある生け贄の条件に、合わせようとしたのかも知れないね……」
「何だと?
親父は本気で、貴様を、あの、わけの分からん駄文(だぶん)に合わせる気だったというのか?
まさか……」
魔界王は眉をしかめた。
要石に刻まれた、紅龍になるための条件は、そのすべてが真逆なことがらを述べており、矛盾に満ちていたのだ。

『紅龍となる者は、(たっと)き者の中で最も気高くかつ無垢(むく)で、同時に最も卑しく(けが)れし者、秀麗(しゅうれい)なる者の中で最も美に優れ、しかも最も醜怪(しゅうかい)な者、心優しき者の中で、最も(たお)やかで、かつ最も暴戻(ぼうれい)な者なり』

「あの頃は、無論、陛下のお考えなど分からなかったよ。
またも絶望し、死のうかと思ったが、餓死するほどの度胸はなく……。
飢えをしのぐため、夜中、こっそりと厨房(ちゅうぼう)で残飯を漁っているうち、ついに料理番達に見つかってしまい、口止めと糧を得るために、彼らに体を売った……。
とても苦しく辛かったけれど、陛下に逆らった罰だと思い、耐えた……。
それを皮切りに、パン一切れ、精気の一口を得るため、下働きの男女を相手にすることとなり……それは、叔母上がお元気になられるまで続き……。
どうせ、私はすでに(けが)れていたけれども、日夜、こんな目に遭い続けなければ、生きることさえ許されないのかと、一人になるたび泣いていた……」

「ちょっと待て。叔母上が元気になるまでに、たしか数年かかったはずだ。
その間、親父は貴様に、ずっと餌を与えなかったのか?」
兄の問いに、サマエルは無言でうなずく。
「だが……普通、餓死してしまうぞ、誰かが食い物を与えなければ。
生け贄にするつもりだったのなら、死なれては困るはずだ、なのに貴様を放っておいたのか?」

サマエルのまつげが震えた。
「……陛下は私がどうやって糧を得ているのか、ご存知だったのさ。
使い魔を使えば、すぐ分かることだ。
当時、たった一度、陛下に回廊で行き会ってしまったことがあって……。
そのとき、すれ違いざまにあの方は、氷のような瞳でこう仰った。
『何たる不名誉。名目だけでも王子と名乗る者が、下僕に体を売ってまで生き延びたいのか。
王家の誇りを守るためなら、死も(いと)わぬという気概(きがい)もないとは。
見事死んでみせよ、王子と認められたいならば』と……。
全身から冷たい汗が噴き出し、目の前が真っ暗になったよ」

「──な……そう仕向けたのは、あのくそ親父自身だろうが、それを、何という言い草だっ!」
タナトスは、本気で腹を立てた。
「だから、カオスの試練を受けるのも迷わなかった。
あれ以上の苦しみはないと思えたし、また、魔力を手にすれば、ベルゼブル陛下も認めて下さるのでは、という淡い期待もあった……どちらも、至極甘い考えだったがね。
『魔界のために死ぬのが使命』と言われてしまっては。
親の言いつけを守るのが、子の(つと)め……ならば、私は、今度こそ、生け贄として立派に死んでご覧にいれなくては……」
サマエルは、疲れたように眼を閉じる。

魔界の王は眼を()いた。
「たわけたことを! もはや貴様は、餌もろくにもらえんガキではない、それにあの男が、貴様の父親とは限らんのだぞ!?」
弟王子は、ゆっくりと首を横に振った。
「それでもいい……叔母上に眉間を射ぬかれ、お前に心臓を食い破られて絶命する間際、あの方が『よくやった』と言って下さる可能性が少しでもあるなら、私は“生け贄の道”を(いと)わない。
喜んでこの命、捧げよう……“別の道”など必要ないのだ、私には……」

サマエルが、ベルゼブルを、父であって欲しいと願うのも無理はなかった。
他に父親の可能性があるベルフェゴールは謀反人で、すでに殺害されており、もう一方のミカエルは、憎むべき敵である。
おまけに、双方とも性格破綻(はたん)者に近いときては、魔界の支配者だった偉大な男が父親だと考える方が救われるに決まっていた。
……どれほど、邪険に扱われているとしても。

「──も……もういい!」
どうしようもない苛立ちがこみ上げて来たタナトスは、噛みつくようなキスでサマエルを黙らせた。
ここへきて、ようやく彼は悟ったのだ。
弟が狂気に侵されたのは、軟弱だったから、あるいは“黯黒の眸”のせいだけではなかったことを。

親の言葉を素直に信じて従う幼い頃から手(ひど)く扱い、生は苦痛と悲しみしかもたらさず、そこから解放され、愛されるためには死ぬしかないと思い込ませて、生け贄となる運命を疑いなく甘受(かんじゅ)するよう仕向けられた結果なのだ。
洗脳されたと言ってもいい。

その張本人は、無論、前魔界王ベルゼブルである。
父親かどうかも不明なのに、そう仕向けた男をここまで(した)う弟と、たとえ実子でなくとも、年端も行かぬ子供に無慈悲な仕打ちをした父親……(いにしえ)の予言を信じて。
予言とは、一体、何なのだろうか。
タナトスは、居たたまれない気分だった。

今、彼が何を言おうと、長期に渡る洗脳がすぐに解けるわけはない。
それでも、タナトスは、口に出さずにはいられなかった。
“──たわけ、酷薄(こくはく)な男にどれだけ義理立てしたところで、見返りなどないわ!
貴様に父親などおらんと思え!
それよりも、『焔の眸』のことを考えろ!
目の前で貴様が(むさぼ)り食われ、血に染まって死んでいくのを見ねばならんのだぞ、しかも、それを忘れることは出来んのだ!
本気を出せ、『焔の眸』と共にいたければ!
後のことは、貴様が責任を感じる必要はない、俺が望んだのだ”

現在、魔界の王位に就いている兄から、前魔界王である父親への強い怒りと、不条理な現実に対する激しい(いきどお)りが、サマエルに流れ込んで来る。
思い起こせば、人々が顔を背け、自分など存在しないかのごとく振舞っていた時にも、タナトスだけは、自分を見、触れて来ていた。
たとえ異父兄弟だとしても、この世界で二人だけは、確実に血がつながっているのだ。

おのれの存在を抹消したいという気持ちは消えなかったものの、第二王子はとりあえず、兄を受け入れ、魔界の至宝を甦らせてみようと思った。
そうすれば、何かが変わるかも知れない……。
自分のために怒ってくれているその背中に、彼は腕を回す。
兄の体は温かだった。

食い扶持(ぶち)食べ物を買うための費用。食費。
暴戻(ぼうれい)荒々しく道理にそむいていること。残酷で徳義にもとること。また、そのさま。
性格破綻(はたん)者社会生活ができないほど性格に欠陥のある人。
酷薄(こくはく)残酷で薄情なこと。また、そのさま。