19.予言のひずみ(5)
「あ、サマエル! タナトスと話がついたんだね!」
それから数日後、汎魔殿の回廊で、駆け寄って来る栗色の髪の少年に、第二王子はうなずいてみせた。
「ああ、リオン」
「よかった、心配してたんだ」
「賭けをしていたのさ。私が勝ったら、“
だが、タナトスはなかなか負けを認めなくてねぇ。
無用に長引いても困るから、とどめを刺してしまったが」
リオンは眼を見開いた。
「──えっ、ま、まさか……」
「あ、殺してはいないよ、もちろん。
ただ、二度と目覚めたくないほどいい気分……夢見心地でいるだけで」
サマエルは、くすくす笑った。
リオンが今まで見たことがない、どことなく色っぽく、しかも明るい笑いだった。
「あら、サマエル。ようやく説き伏せたのね」
ちょうどそこにイシュタルが行き会い、藍色のシルクドレスを揺らしながら近づいて来て、こちらも
サマエルは、かぶりを振り、銀の髪がさらさらと青いシャツにまといつく。
「いえ、叔母上。あまりしつこいので、本気を出してしまいました」
イシュタルは、金の粒を散らした藍色の眼を丸くした。
「あらまあ、やってしまったの。
でも、あの子、困るでしょうね。この後、どうする気かしら」
「散々忠告したのですが、どうしてもと……。
あいつは素直に頼まないと思いますが、私が魔界を去った後は、お相手してやって下さいませんか。
お願いします」
サマエルは叔母に
「でもねぇ。ベルゼブル様が何て仰るかしら。きっと不機嫌になられると思うし」
イシュタルは、頬に指を当て、考える振りをした。
「そう仰らずに。ご老体のお相手だけでは、ご満足出来ていないのは存じていますよ」
甥の言葉に、彼女はにっこりした。
「……ふふ。しょうがないわね。お前ほどじゃないけれど、あの子もやっぱり……。
うんと焦らせば、さらに美味しくなるでしょう、その後で相手をしてあげるわね」
「おやおや、それまでお預けとは。あいつも気の毒に……くく」
またも、意味深な笑いを、サマエルは漏らした。
「ねえ、タナトスを一体どうしたの? 気の毒って、どうして?」
リオンが不思議そうに尋ねると、よく似た美男美女は一瞬顔を見合わせ、それからサマエルが答えた。
「お前がもっと大人になったら話してあげよう」
「えっ、何だよ、それ。また子ども扱い?」
リオンはむくれた。
「そうではないさ。お前は人族の中で育ったから、魔族の習慣や考えになじむのは、時間がかかるということだよ。
汎魔殿には、知っておかなければならない多くのしきたりがある。
いきなり、全部覚えるのは無理だろう?」
「う、まあ、そりゃそうだけどさ……」
少年は、まだ不服そうだった。
そのとき、サマエルの紅い眼に暗い影が差した。
「……では、一つだけ教えておこうか。よく覚えておきなさい」
「うん、ちゃんと覚えるよ、何?」
それには気づかず、無邪気にリオンは身を乗り出す。
サマエルは、子孫を深刻な眼差しで見つつ、
「ライラとキス以上のことがしたくなったら、必ず、私か叔母上に言うこと。
お前はインキュバスの血を引く者……人族の女性相手の場合、力を制御しないと、女性は気が狂うか……下手をすると、命を落とすかもしれない」
「ええっ、命を落とす!?」
リオンは青くなった。
魔界の王子は眼を伏せた。
「すまない、私のせいで面倒をかけるね……。
お前がいつ大人になるのか、見当がつかない。
私も普通の魔族とは成長の度合いが違うから、念のため早目に言っておくのだ。
今は心に留めておくだけでいい、大人になるまではね」
「う、うん……」
うなずいたものの、少年の栗色の眼は明らかに動転していた。
イシュタルは
「大丈夫よ、リオン。わたしが色々教えてあげるから。
人族にとって、わたし達は“媚薬”そのものなのよ。
人族と魔族の混血が、ここまで容易に進んだのは、一つにはこのお陰もあるのよね。
皆、誘惑に勝てなかったってわけ」
「それに、お前が私のようになるかは分からないし、もしそうなったとしても、力は抑えればいいことだ。
不安に思うことはないよ」
「うん、分かった……」
リオンは、自分を納得させるように同意した。
「それで、いつ、“焔の眸”を復活させるの?」
イシュタルは話題を変えた。
「そうですね、儀式に最適な天体の位置もありますし、一月ほどかかるかと」
「えっ、そんなに!?」
「大丈夫だよ、リオン。その間も人界に戻れるから」
「あ、そっか」
少年は胸をなで下ろし、それでもさっきの話が気になるのだろう、考え込み始めた。
彼をこれ以上刺激しないよう、サマエルは心の会話に切り替え、タナトスとの賭けを叔母に語った。
“……で、あっさり勝負がついてしまったせいですか、へそを曲げまして”
イシュタルは苦笑した。
“ま。しょうがない子ねぇ”
“それでも進歩しましたよ。予言を検証していたのには驚きました。
生け贄にならずに済む方法を見つけ、私に生きる希望を持たせようとするなんて、以前のあいつでは考えられません”
叔母はうなずいた。
“次元回廊が閉ざされてから、タナトスはいつも暗い顔をしていたわ。
『魔界では、すべてがくすんで見える』って。
わたし、女性に振られたことをいつまでも引きずって……と思っていたの。
でも、そうじゃなかった。ジルが亡くなった後、
口には出さなくても、お前に会えず淋しかったのね。
ジルが亡くなり、お前までが死んでしまったら、ずっとこんな気持ちでいなければならなくなるということに、初めて気づいたのじゃないかしら……”
王子は首をかしげた。
“それはどうですか。私を支配し、おもちゃにしたいだけでしょう……恩を着せて”
イシュタルは否定の身振りをした。
“いいえ、あの子なりに、お前のことは気にかけていたのよ。
ジルがの
『あいつも、とうとう一人だな』って……。
その表情は、悲しみに満ちていたわ。
あの子……そのとき初めて、“悲しい”って感情を覚えたのじゃないかしら。
ジルは、“生と死”、その両方で、タナトスを変えてくれたのね。
そして、今回、久しぶりにお前に会ったから、気持ちが高揚して、憎まれ口を利いたり、本気を出せなんてせがんだりしたのよ”
“……”
第二王子は返答に困り、無言でいた。
“ともかく、お前は死なずに済むのよ。
『焔の眸』と一緒になれば、今度こそ幸せになれるわ。本当によかった……”
叔母の藍色の眼が潤む。
サマエルは、伏目がちに答えた。
“……そうでしょうか”
“もちろんよ”
確信を込めて、彼女は答えた。
“でも、地位が人を作るって本当ね。即位してから、あの子、ものすごく変わったのよ。
初めは心配したけれど、ダイアデムが色々骨を折ってくれてね。
どうやら、彼とは何かあったみたいで、彼の言うことなら聞くのよ”
“……そうですか”
“ふふ、何があったのか気になる?”
少々複雑な表情のサマエルに、いたずらっぽくイシュタルは問いかけた。
“いえ、別に……”
“正直におなりなさい、さあ”
首を横に振る甥の手を取り、彼女は自分の額に当てた。
叔母の記憶は、戴冠式から始まっていた。
正装に身を包んだタナトスは、魔界の王にふさわしく堂々として、粗暴さはさすがに陰を潜めていた。
褐色の角や黒髪にダイアモンドを無数にあしらい、長い
その眼にだけ、鮮やかなルビーが使われていた。
レースの手袋、短い革のブーツ、短いマントは白で統一されているが、きつい目元や顔立ちから、サマエルとは違い、女性のようには見えない。
左右の壁に、レヴィヤタンとベヒーモスのタペストリーが下がる巨大な広間で、
こうして、戴冠式そのものは無事済んだものの、一部には即位を危ぶむ声もあり、数日後の初会議で、その懸念は現実となった。
虫の居所が悪かったタナトスは、大臣の言動に
その後も、少しでも気に入らないことがあるたび席を立ってしまい、会議が中断することもしばしばだった。
そんなある日。
いつも同様、王が身勝手に退席したため、困り果てた家臣達がぞろぞろと回廊へ出てきて、口々に不満を述べ合っているところへ、ダイアデムが通りかかった。
「何だよ、てめーら、
「おお、“焔の眸”殿。よいところへ。聞いて下され、実はですな……」
勢い込んで彼に駆け寄り、新魔界王の
腕組みをし、黙って聞いていた紅毛の少年は、話が終わると頭をかいた。
「やれやれ、しょーがねーガキだな、お前らじゃ手に負えねーか。
──おし、オレがいっちょ、がつんと言ってやらぁ」
「おお、お願い申します」
マンモンは、祈るように太い指を組み合わせた。
「わたしからもお願いするわ。タナトスったら、誰の話も聞かないのよ」
イシュタルも口を添える。
「そりゃそーだろ、あいつ、説教大っ嫌れーだもん。
ま、何とかやってみっさ」
ダイアデムは手を振り、執務室に向かった。
彼がどう説得してくれたものか、その後タナトスは、毎回席上でダイアデムと喧嘩はするものの、退出はしなくなり、イシュタルを安堵させた。
誰が王になっても同じと考える大部分の家臣達は、“焔の眸”を眺められるだけでも、会議に出席する価値があると思っていた。
一月ほど経ち、イシュタルは、至宝を自室に招き、労をねぎらった。
「いつも大変ね、お前にはお礼の言葉もないわ」
それまで黙って香り高い茶をすすっていた少年は、意外な返事をした。
「はん、まだ気がつかねーのかよ。ありゃ芝居なんだぜ」
「芝居ですって?」
イシュタルは、ラピスラズリ色の眼を見開いた。
湯気の立つカップを手に、ダイアデムは上目遣いで彼女を見た。
「そ。あいつ、わざと家臣どもを困らせてたんだ。
連中、タナトスなんかにゃ絶対、魔界王は勤まりっこねーって、散々陰口叩いてただろ?
だから、毎度、一
したら、大臣どもは安心するし、オレは感謝されるし、あいつもわがままな王様やってられっし、ぜーんぶうまくいくってワケ。
王なんて、
「……そうだったの。知っていて、あの子につき合っていたのね」
紅毛の少年は、肩をすくめた。
「まーな。けど、それでタナトスも気分よく王様やってんだから、自由にさせといてやれよ、イシュタル。
あいつにゃ、借りがあるしな」
「分かったわ。困った子だけれど、これからもよろしくね」
「ああ」
ダイアデムは、カップを目の高さまで持ち上げた。
その瞳の中で、炎がちろちろと揺らいでいた。