~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

19.予言のひずみ(2)

サマエルが目覚めたときには、豪華な天蓋(てんがい)つきの広いベッドに寝かされていた。
殴られた傷は癒えていたものの、着衣は脱がされ、全裸だった。
そして、体にまとわりつく汗と乱れたシーツ、深部のうずきが、またも兄に抱かれたのだと知らせていた。

(……いつものことだ。そして、これからは、もう、ずっと……)
彼は、けだるい体をどうにか起こして、ベッドから降りた。
色鮮やかな模様の絨毯(じゅうたん)が敷き詰められた寝室の内装は、汎魔殿内部と遜色(そんしょく)がないほど豪奢(ごうしゃ)を極めており、かなりの広さがある。
大きな窓から部屋の奥まで差し込んでいる光は、すでに(あかね)色をしていた。

「……もう、半日経ったのか」
彼はつぶやいた。
魔界の一日は人界の三分の二ほどである。
加えて、みずから意識を閉じたに等しかったため、余計に時間が早く過ぎたように感じられたのだろう。
ベッドの脇に、体から引き剥がされた状態で放り出されている服を、再びまとうだけの気力もなかった。

また、衣服を着けていようと裸だろうと、大した違いはないと言えた。
今日からは、この獄窓(ごくそう)から、すべてを、ただ眺めているだけの生活になるのだから。
(もはや私は、死ぬまでここから出られない。だが、それを望んだのは私……)
サマエルは、おのれの愚かさを呪った。

ジルが愛した花畑で花を摘んだり、二人が結婚式を挙げた巨大な樹の下で、小鳥のさえずりを子守唄代わりに、のんびりと昼寝をしたり、彼女と暮らした人界の屋敷で、懐かしい思い出の品々を眼にすることも、こうなった以上、もはや出来ないのだ。
思い出よりも、“焔の眸”のそばにいることを望んだ結果が、これだった。

(人界に戻ったら最後、二千年後の処刑のときまで、“焔の眸”とは会えない。
それに引き換え、魔界にいれば、たとえ手元に置くことは叶わなくとも、時折は、塔の窓から愛しい輝きの片鱗を眼にしたり、懐かしい“気”を感知することが出来るかも知れない、そう思ったのに……。
これでは、何の希望もないまま、魔封じの塔の(とら)われ人として、散々兄にもてあそばれ……挙句、生け(にえ)として、無惨な死を遂げなければならない……。
まあ、それも、あながち悪いことでもないか……。
どの道、あと二千年で、この苦痛に満ちた生を終わらせることが出来るのだから……)

そのとき、彼は、薬指にはめたままだった指輪に気づき、澄んだ紺碧(こんぺき)の海のような色を(たた)えた宝石を、日光に透かして見た。
(どうして、タナトスは、これを残しておいたのだろう?
……そうか。私が死ねば、労せずして手に入るものな。
でなければ、指ごと切り落として奪ったに決まっている)

母の形見であり、今はジルの遺品ともなった、青い鋼玉(サファイア)の指輪には、魔法がかけられている。
持ち主が死ぬか、みずから進んで相手に贈ろうとしない限り、外すことは出来ないのだ。

彼は、妻が目の前にいるかのように、指輪に語りかけた。
「……ねぇ、ジル。キミの言っていた新しい家族とは、リオンのことだったのかい?
“焔の眸”との(えにし)(はかな)いもので、彼の涙……ダクリュオンの一粒すら、私の手元には残らなかったよ。
私には、新たな恋を求めることすら許されないのか……」
紺碧(こんぺき)の宝石は、無心に(きらめ)き、答えはない。

「……もはや、私には何もないよ、ジル、キミとの思い出の他は、何も。
愛も、涙も、静かに眠る墓さえも……」
サマエルは、指輪に口づけた。
わずかな希望さえも(はかな)く散り失せ、気持ちは、ただ沈んでゆく。
それに反して、体のほてりは、なかなか冷めない。

冷たい金属の感触が恋しくなり、窓に触れようと歩きかけた彼は、ふと途中で歩みを止めた。
「──ないぞ。どうして。まさか……」
牢獄である魔封じの塔ならば、当然、すべての窓にはめられているはずの、鉄格子がなかったのだ。

戸惑いつつも、第二王子は窓に歩み寄り、留め金を外してみた。
窓は、何の抵抗もなく、外へ向かって開いた。
刹那、新鮮な空気が流れ込み、輝かしい裸体と、体に沿って流れ落ちる銀の雨のような髪をなぶってゆく。
サマエルは、ほっと息をついた。
少し湿り気を含んだ涼しい風が、ほてった体に心地よく、閉塞感も一挙に消える。
折しも、遥か遠くの宮殿に、夕日が沈んでいくのが紅い眼に映った。

「汎魔殿があんなところに……とすれば、ここは……ああ、そうか」
振り返り、改めて見直すと、室内の装飾には見覚えがあった。
ここは(けん)龍城にある、タナトスの部屋だったのだ。
兄が王位に就いてから、この城はもう、使われていないはずだったが。
「……どうして、タナトスは、私をここに連れて来たのだ……?」

サマエルが首をひねったそのとき、ドアが勢いよく開き、黒い絹の部屋着をまとった魔界王がずかずかと入室して来た。
「ふん、やっと目覚めたな、サマエル。
よし、ジャーマラ、そこでいい、置け」
タナトスは、ベッド脇のテーブルを示した。
「かしこまりました、タナトス様……あ」
彼の後について、カートを押して来た緑色の小人は、料理の皿を並べようとして、サマエルに気づくと手を止めた。

夕日を背にした第二王子は、何も隠さず、悠然と窓際に立っている。
引き締まった裸体に白蛇のように絡みつく長い銀の髪が、妖艶(ようえん)さを(かも)し出し、さながら一幅の絵画のようだった。

風に吹き散らされたものの、部屋の中にはまだ、王子の体から立ち昇る摩訶(まか)不思議な香りが漂っていた。
その香りに包まれ、まじまじと、サマエルの(なまめ)かしい姿態(したい)を見つめるうちに、小人の薄緑色の頬には紅が這い登ってきた。
眼を離すことも出来ず、徐々に息が荒くなっていく。

その様子に気づいた王は、薄紫色のガウンを取り出し、いつもよりは優しく弟に着せかけた。
「こいつには目の毒だ。これでも着ろ」 
「はい……」
自分の裸体が、他人に及ぼす影響を熟知していたサマエルは、大人しくそれに袖を通す。

「──ジャーマラ! 何をぼけっとしている、さっさと支度しろ!」
怒鳴りつけられ、一瞬で我に返った小人は、大急ぎで仕事を開始した。
「あ、す、すみませんっ、今すぐ!」
パンとオムレツとシチュー、デザートはチョコレートケーキという、王族の食事にしては質素な料理が、手際よく並べられていく。

「し、失礼しました、ど、どうぞ、ごゆっくり……」
幾度も頭を下げ、逃げるように使い魔が走り去ると、魔界王は平然と椅子に腰掛け、料理を示した。
「どうだ、美味そうだろう。気に入るはずだぞ、食ってみろ」
「……いえ、私は……」
「──いいから、そこに座って食え!」
タナトスは、噛みつくように言い、もう一つの椅子を指差した。

「……はい、では、頂きます」
あまり食欲はなかったが、命ぜられた通り向かいに座り、シチューを一さじ、口に運ぶ。
途端に、サマエルは、危くスプーンを落としそうになった。
「こっ、これは……!」

「美味い──というより、懐かしいだろうが?」
タナトスは、にやりとした。
「この味……それに、この並んだ料理、まるでジルが作ったような……」
食事の内容に驚く弟を満足げに見ながら、魔界王は言った。
「さっきのは、黔龍城の料理番だが、ヤツに、ジルのレシピを覚えさせたのだ。
時折、無性(むしょう)に食いたくなるのでな。
初めは、汎魔殿の料理番どもに作らせようとしたのだが、そんな庶民的なものは作れん、なぞとほざきおって。
危く、そやつらを晩餐(ばんさん)の材料にしてやるところだったが」

「……そうでしょうね、料理番にもプライドがありますから。
おや、チョコレートケーキ……ですね」
デザートに眼を止めたサマエルは、これにまつわる逸話(いつわ)を思い出した。
自分を力ずくで抱いた後、兄は極めて優しくなる。
これでも一応、慰めているつもりなのだろう。そう思うと、微笑ましかった。

「何を笑っている」
「……いえ、ただ懐かしくて。それに美味しいです、とても」
「ジャーマラにそう言っておいてやる。貴様が()めていたとな。
ともかく食え、話は後だ」
「はい」
二人はしばし、追憶(ついおく)の味を堪能(たんのう)した。

そのまま、しばらく黙々と食事をした後で、サマエルは疑問を口にした。
「……ところで兄上。なぜ、私を魔封じの塔に幽閉しないのですか?
それに、女性の体に作り変えてもいないのですね……前にはあれほど、私に子供を産ませると息巻いておいでだったのに」

すると、魔界の王は、ケーキにフォークを突き立て、彼を睨みつけた。
「──敬語を使うのはやめろ、ごちゃごちゃ言うのもだ! せっかくのデザートがまずくなる!
貴様が、勝手に、そう思い込んでいただけだ、違うか!」
弟王子はうなだれた。
「……そうだね」

「ふん、元々、貴様を女にする気などないわ。
あの時は、単に、精神的に追い詰めてやりたかっただけだ。
それに、貴様が、元から女だとしても、俺の子を(はら)むのは難しかろうさ。
……俺は、魔族の女は妊娠させられんと、魔法医に言われているのでな」
タナトスは、あっさりと言ってのけた。
「──えっ!?」
考えもしなかった事実に、サマエルは眼を見開いた。

王は、もう一切れケーキを頬張ると、平然と話し続けた。
「医者の見立て通り、後宮の女どもには子が出来る(きざ)しはない。
ただ一人、クニークルスの女が産んだ赤子がいたが、奇形児だった。
多胎(たたい)妊娠だったのか、背中で融合した二つの体、頭は四つ、瞳はそれぞれ別の色……黒、紅、朱、碧色をしていたな。
難産で、母親に意識がなかったのを幸い、魔力で遺体をクニークルスに似せて作り直したから、フィッダは、赤子が奇形だったとは知らなかったはずだ」

「……何という……。
クニークルスの女性の話は、ジルから聞いていたが……」
サマエルは、そう言うのがやっとだった。
現魔界王は、大したことはないと言いたげに肩をすくめた。
「ふん、同情などいらんぞ。
実のところ親父も同様で、魔族の女では血が濃過ぎて子作りは無理だが、人族か神族の女なら可能性はあると言われ、母上を妃にしたのだ。
それゆえ、深刻にはなっておらん。俺も、人族の妃を探せばよいのだからな」
「……そうか、よかったな」
第二王子は安堵の息をついた。

「だが、その子供の異常さは、見た目だけでなかったのだぞ……。
通常の赤子のように、うぶ声を上げるどころか、取り上げた魔法医を見据え、俺を呼ぶようにと言ったそうだ。
仰天した魔法医に招かれて入室した俺に、赤子は、『父よ、我は“火閃(かせん)銀龍”の化身。
予言はひずみ、生まれ()ずることあたわず』そう言いのこし、死んだ……」
「生まれたばかりの赤ん坊が、口を利いた!? まさか……!?」
サマエルは、またも驚きをあらわにした。