19.予言のひずみ(1)
半年が経ち、どうやらファイディーの国情は安定した。
そこでようやく、サマエルは、リオンを連れて魔界へ帰還することにした。
「すまないね、ライラ。
だが、私は名目上、リオンの後見人として、魔界に還ることになっている。
どうしても、彼を借りていかなくてはならない。
国も、一旦は落ち着いたとはいえ、不安がないわけではないし、何より、恋人同士を引き裂くようなことはしたくないが……」
「いえ、サマエル様のお陰で、この国も戦火に巻き込まれずに済みましたし、わたし達のことは、お気になさらなくて結構です。
それより、早く、ダイアデムを復活させてあげて下さい」
ライラは気丈に答えた。
穏やかな微笑みの裏の苦悩と焦り……時折その眼をよぎる辛そうな光、胸に下げたペンダントの紅い石を固く握り締める仕草……。
本当は、一刻も早く魔界に行って、“焔の眸”を復活させたいという気持ちを抑えかねていることに、ライラとリオンは気づいていたのだ。
「ライラ、すぐ帰って来るから、ぼくを忘れないでいて」
「まあ、何を言うの、リオン。
あなたの方こそ、魔界に行けば王子様なのだし、あちらには綺麗な人もたくさんいるでしょう、もしかして……」
「そ、そんなこと、あるわけない! ぼくはそんな、浮気者じゃないよ、信じてくれないの?」
リオンは、泣きそうになるのを必死でこらえた。
「ご免なさい。でも、不安なの……」
ライラも悲しげにうつむく。
そのやりとりを黙って聞いていたサマエルが、その時、口を挟んだ。
「二人ともすまない。やはり、キミ達は一緒に人界にいた方がいいね。
私のために、二人を仲違いさせたくない。魔界へ行くのはやめにしよう……」
その辛そうな声に、自分達だけの世界にいたライラとリオンは、はっとして彼を見た。
サマエルの緋色の眼は、二つの思いに引き裂かれて傷つき、苦しげに胸元のペンダントを握り締める手は白く、震えている。
「そんな! サマエル様、お行きになって下さい!
ご免なさい、わたしが愚かでした。彼を信じて待っていますから!」
「ご免ね、サマエル、ぼくら、自分勝手で……」
「いや、そんなことはない、私こそ、自分の都合を、二人に押しつけてしまって……。
それに、ライラ、リオンは私の子孫で、顔も似ているが、浮気っぽいところは似ていないと思うし、それでも心配なら、タナトスにでも見張らせておくよ、それで、キミの気がすむなら……」
「い、いいえ! あなた方を浮気っぽいなんて、思ってませんわ」
「ぼくを信じて。お願いだよ、ライラ」
別れを惜しむ恋人達のそばで、サマエルは彼らの行く末を案じていた。
二人が一緒にいたいと思えば、寿命の差が問題となることは明白だったから。
もし、リオンが魔界の王位に就くとしても、何万年も先のこと、このまま人界にいること自体は差し支えがなかった。
ライラを魔族とすることにも、本人の同意があれば問題はない。
だが、アンドラスにより血の
位を譲るにふさわしい年長の近親者がいない今、ライラが女王になるしかないが、彼女が若いままでいれば、やがて、天界の監視者に、必ず気づかれてしまう。
また、リオンを正式に女王の配偶者とするには、天界との悶着を恐れぬ覚悟が必要だった。
それを考えると、リオンは表には出ない方がいい。
二人に子供が出来たら王位を譲り、ライラを魔界に連れて来る……というのが一番穏当なやり方だろう。
しかし、みずからの幸福のために、彼らが、子供を人界に置き去りにする……などということに同意出来るだろうか……。
サマエルは、考えあぐねていた。
「いつまでもこうしてたいけど、もう行かなきゃ。
泣かないでね、ライラ……」
そう言うリオンの方が、本当はくじけそうになっている。
「分かってるわ。すぐ会えるのに、わたしがいけないの。早く行って」
ライラは、蒼白な頬に、無理矢理笑みを浮かべて見せた。
「リオンの力は強いから、直接、魔界からキミに話しかけることも出来るよ。
会いたくなったら、この魔法陣で、毎日でも帰って来られる。
それで我慢してもらえないだろうか、二人共……」
サマエルは、心苦しそうに言った。
「ええ、大丈夫です」
「うん。じゃあ行ってくるよ、ライラ」
「行ってらっしゃい、リオン。幸運を祈っていますわ、サマエル様」
微笑んだまま手を振ったライラも、青白い燐光を発する魔法陣に入った二人が姿を消すと、顔を覆って泣き出した。
汎魔殿の魔法陣から出たサマエル達は、さっそく執務室に出向き、タナトス王に、うやうやしく礼をした。
「陛下、このたびは帰還のご許可を頂きまして、お礼の言葉もございません。
さ、リオン、お前もごあいさつを」
「あ、あの、タナ、トス……へ、陛下。
ま、魔界に来れて、うれしいです……」
王族にふさわしい服装に身を包んだリオンは、使い慣れない敬語をつっかえながら言い、頭を下げた。
「ふん、ようやく来たか」
どっしりとした机に腰掛けたタナトスは、立つこともせず、二人を見据えた。
「サマエル、戻ったのね!」
そのとき、長い銀髪をなびかせて、一人の女性が、執務室に駆け込んで来た。
サマエルによく似た顔立ちに、夜の青色をしたドレスをまとった女性は、金の粒を散らしたラピスラズリの瞳を煌めかせ、サマエルを固く
「……!?」
いきなりの出来事に、リオンは眼を白黒させる。
サマエルは、優しく彼女を引き離した。
「叔母上、リオンがびっくりしていますよ。
リオン、こちらがイシュタル叔母上だ、ごあいさつなさい」
イシュタルは、青金色の眼を見開いた。
「まあ、この子が……?」
「はい、私の小さい頃に似ているでしょう?」
「あ、あの、初め、まして、リオンです……」
リオンは、ぺこりと頭を下げた。
「魔界へようこそ、リオン。よろしくね。
でも、本当によく似ていること」
美女に笑みを投げかけられて、リオンはどぎまぎし、紅くなった。
「は、その、よろしく……お願いします」
「ちょうどいい、叔母上、俺はサマエルと話があるから、その間に、リオンを親父に引き合わせてやってくれ」
その間、
「ええ、でも、何の話?」
心配そうにイシュタルは尋ねた。
短気なタナトスは、眉間にしわを刻み、激しく机をたたいた。
「何でもいいだろう!
殺したりはせん、男同士の話があるのだ、さっさとガキを連れて消えてくれ!」
「まあ、何て言い草かしら!」
怒るイシュタルを、サマエルはなだめた。
「叔母上、心配ご無用ですよ。彼をお願いします。
私も後で伺いますから。ベルゼブル陛下に、よろしくお伝え下さい」
「仕方ないわね、分かったわ。いらっしゃい、リオン」
「え、でも……」
ためらうリオンに、サマエルは微笑みかける。
「大丈夫だよ、リオン。お前は魔族なのだ、胸を張っていなさい」
「うん」
二人が謁見の間を去ると、おもむろにタナトスは立ち上がり、弟の顔を覗き込んだ。
「さて、貴様、どんな条件でも呑むといったな。覚悟は出来ているのか?」
顔からは血の気が引いていたが、サマエルは気丈に答えた。
「……ええ、出来ています。何なりとお申し付け下さい、陛下」
「ふん。では、最初に言っておくが、俺が許可したのは、貴様が魔界に来ることだけだ。
復活させた“焔の眸”は、貴様にはやらん、宝物庫に戻す。一人で人界に還れ。
……いや、どうせなら、復活は、儀式の時まで待った方がいいか。
貴様の胸を切り裂き、心臓を取り出すとき、ついでに“焔の眸”を蘇生させるというのはどうだ?」
タナトスは、指で弟の胸を斬る真似をした。
サマエルは絶句したものの、すぐに気を取り直した。
兄なら、そんなことを言い出しかねないないと思っていたのだ。
彼は、首の後ろで鎖を外し、紅い石のペンダントを机の上に置く。
「そうですか。私は、どちらでも構いません。
これは、お返しします……あと、これも必要だと、“黯黒の眸”が言っていましたね」
彼が取り出したのは、“ウィルゴ”という貴石だった。
水に血を落とし、かき混ぜた時に出来上がるような模様が、透明な中に浮かび上がっている。
これは、“眸”達の化身のうち、女性のみが創り出す石で、これを授けられた者を強力に守護する力があるのだ。
「貴様、もう諦めたのか」
弟が狼狽する様子を見て楽しもうと思っていたタナトスは、当てが外れて不満気だった。
「ええ。ただし、私は、人界には還りませんよ」
サマエルは言い、魔界の王はけげんそうな顔をした。
「何だと? 貴様、どんな条件でも呑むと言ったではないか」
「はい、そう申し上げました。しかし、“焔の眸”のいない人界には戻りたくありません。
儀式の時まで魔封じの塔におります。その方が、陛下もご都合がよろしいでしょう?」
タナトスは鼻にしわを寄せた。
「……貴様、何を企んでいる。二千年間、俺の慰み者になっていてもいいと言うつもりか?」
第二王子は眼を伏せた。
「それが、陛下のお望みならば。
どうせ、私は、二千年後、食用にされる家畜です。
たとえ、“焔の眸”をその間、お借り出来たとしても、時至れば、別れなければなりません。
ジルを亡くして分かったのです……残される者の辛さ、悲しさを、嫌というほど。
そんな思いを、“焔の眸”には、させたくありませんから……。
加えて、汎魔殿にいる者達の心から、私に関する記憶、そして記録も一切、消去して頂きたいのですが。
“私”はいなかった。そんな子供は生まれて来なかったし、元から存在しなかったのです……」
「何を、わけの分からんことを!
欲しい物を手に入れる努力もせずに、逃げてばかりいる軟弱者め!」
タナトスは、苛立って声を荒げ、弟につかみかかると引き倒し、ところ構わず殴る蹴るを始めた。
無抵抗のまま、サマエルは言い返した。
「何をすればいいのです、何の努力をせよと?
怒りに任せて再び紅龍となり、世界を滅ぼすことですか?
……そんなことをするくらいなら、死んだ方がいい。
殺して下さい、今すぐ」
「うるさい、何か方法があるだろう、貴様ほど頭がよければ、どんな方策でも考えつくだろうが!」
タナトスは弟の首をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「……ありません、何も。
これが私の運命……受け入れるより外にないのです……」
暗い眼をした弟王子は、すべてのことを諦め切っていた。
泣くことが可能なら、彼は泣いていただろう。
「この──たわけ者めがっ!」
タナトスは、そんな弟のみぞおちに、拳を力一杯めり込ませた。
「ぐっ……」
気を失った体を手荒く背負い、運んでいく。
厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること。特に、独裁政党などで、一体性を保つために反対派を追放すること。