~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

19.予言のひずみ(1)

半年が経ち、どうやらファイディーの国情は安定した。
そこでようやく、サマエルは、リオンを連れて魔界へ帰還することにした。
「すまないね、ライラ。
だが、私は名目上、リオンの後見人として、魔界に還ることになっている。
どうしても、彼を借りていかなくてはならない。
国も、一旦は落ち着いたとはいえ、不安がないわけではないし、何より、恋人同士を引き裂くようなことはしたくないが……」

「いえ、サマエル様のお陰で、この国も戦火に巻き込まれずに済みましたし、わたし達のことは、お気になさらなくて結構です。
それより、早く、ダイアデムを復活させてあげて下さい」
ライラは気丈に答えた。

(はや)る心を押さえて、サマエルは、不平一つ言わずにライラを手伝い、ファイディー国の再興のめどが立つまで待っていた。
穏やかな微笑みの裏の苦悩と焦り……時折その眼をよぎる辛そうな光、胸に下げたペンダントの紅い石を固く握り締める仕草……。
本当は、一刻も早く魔界に行って、“焔の眸”を復活させたいという気持ちを抑えかねていることに、ライラとリオンは気づいていたのだ。

「ライラ、すぐ帰って来るから、ぼくを忘れないでいて」
「まあ、何を言うの、リオン。
あなたの方こそ、魔界に行けば王子様なのだし、あちらには綺麗な人もたくさんいるでしょう、もしかして……」
「そ、そんなこと、あるわけない! ぼくはそんな、浮気者じゃないよ、信じてくれないの?」
リオンは、泣きそうになるのを必死でこらえた。

「ご免なさい。でも、不安なの……」
ライラも悲しげにうつむく。
そのやりとりを黙って聞いていたサマエルが、その時、口を挟んだ。
「二人ともすまない。やはり、キミ達は一緒に人界にいた方がいいね。
私のために、二人を仲違いさせたくない。魔界へ行くのはやめにしよう……」
その辛そうな声に、自分達だけの世界にいたライラとリオンは、はっとして彼を見た。

サマエルの緋色の眼は、二つの思いに引き裂かれて傷つき、苦しげに胸元のペンダントを握り締める手は白く、震えている。
「そんな! サマエル様、お行きになって下さい!
ご免なさい、わたしが愚かでした。彼を信じて待っていますから!」
「ご免ね、サマエル、ぼくら、自分勝手で……」

「いや、そんなことはない、私こそ、自分の都合を、二人に押しつけてしまって……。
それに、ライラ、リオンは私の子孫で、顔も似ているが、浮気っぽいところは似ていないと思うし、それでも心配なら、タナトスにでも見張らせておくよ、それで、キミの気がすむなら……」
「い、いいえ! あなた方を浮気っぽいなんて、思ってませんわ」
「ぼくを信じて。お願いだよ、ライラ」

別れを惜しむ恋人達のそばで、サマエルは彼らの行く末を案じていた。
二人が一緒にいたいと思えば、寿命の差が問題となることは明白だったから。
もし、リオンが魔界の王位に就くとしても、何万年も先のこと、このまま人界にいること自体は差し支えがなかった。

ライラを魔族とすることにも、本人の同意があれば問題はない。
だが、アンドラスにより血の粛清(しゅくせい)が行われたことで、王族の大多数が命を落とし、彼女が王家の血を引く唯一の生き残りになってしまったことが、事態を難しいものにしていた。
位を譲るにふさわしい年長の近親者がいない今、ライラが女王になるしかないが、彼女が若いままでいれば、やがて、天界の監視者に、必ず気づかれてしまう。
また、リオンを正式に女王の配偶者とするには、天界との悶着を恐れぬ覚悟が必要だった。

それを考えると、リオンは表には出ない方がいい。
二人に子供が出来たら王位を譲り、ライラを魔界に連れて来る……というのが一番穏当なやり方だろう。
しかし、みずからの幸福のために、彼らが、子供を人界に置き去りにする……などということに同意出来るだろうか……。
サマエルは、考えあぐねていた。

「いつまでもこうしてたいけど、もう行かなきゃ。
泣かないでね、ライラ……」
そう言うリオンの方が、本当はくじけそうになっている。
「分かってるわ。すぐ会えるのに、わたしがいけないの。早く行って」
ライラは、蒼白な頬に、無理矢理笑みを浮かべて見せた。

「リオンの力は強いから、直接、魔界からキミに話しかけることも出来るよ。
会いたくなったら、この魔法陣で、毎日でも帰って来られる。
それで我慢してもらえないだろうか、二人共……」
サマエルは、心苦しそうに言った。

「ええ、大丈夫です」
「うん。じゃあ行ってくるよ、ライラ」
「行ってらっしゃい、リオン。幸運を祈っていますわ、サマエル様」
微笑んだまま手を振ったライラも、青白い燐光を発する魔法陣に入った二人が姿を消すと、顔を覆って泣き出した。

汎魔殿の魔法陣から出たサマエル達は、さっそく執務室に出向き、タナトス王に、うやうやしく礼をした。
「陛下、このたびは帰還のご許可を頂きまして、お礼の言葉もございません。
さ、リオン、お前もごあいさつを」

「あ、あの、タナ、トス……へ、陛下。
ま、魔界に来れて、うれしいです……」
王族にふさわしい服装に身を包んだリオンは、使い慣れない敬語をつっかえながら言い、頭を下げた。
「ふん、ようやく来たか」
どっしりとした机に腰掛けたタナトスは、立つこともせず、二人を見据えた。

「サマエル、戻ったのね!」
そのとき、長い銀髪をなびかせて、一人の女性が、執務室に駆け込んで来た。
サマエルによく似た顔立ちに、夜の青色をしたドレスをまとった女性は、金の粒を散らしたラピスラズリの瞳を煌めかせ、サマエルを固く抱擁(ほうよう)し、口づけた。
「……!?」
いきなりの出来事に、リオンは眼を白黒させる。

サマエルは、優しく彼女を引き離した。
「叔母上、リオンがびっくりしていますよ。
リオン、こちらがイシュタル叔母上だ、ごあいさつなさい」
イシュタルは、青金色の眼を見開いた。
「まあ、この子が……?」
「はい、私の小さい頃に似ているでしょう?」

「あ、あの、初め、まして、リオンです……」
リオンは、ぺこりと頭を下げた。
「魔界へようこそ、リオン。よろしくね。
でも、本当によく似ていること」
美女に笑みを投げかけられて、リオンはどぎまぎし、紅くなった。
「は、その、よろしく……お願いします」

「ちょうどいい、叔母上、俺はサマエルと話があるから、その間に、リオンを親父に引き合わせてやってくれ」
その間、仏頂面(ぶっちょうづら)でいた魔界の王は、追い立てるように手を振った。
「ええ、でも、何の話?」
心配そうにイシュタルは尋ねた。
短気なタナトスは、眉間にしわを刻み、激しく机をたたいた。
「何でもいいだろう!
殺したりはせん、男同士の話があるのだ、さっさとガキを連れて消えてくれ!」

「まあ、何て言い草かしら!」
怒るイシュタルを、サマエルはなだめた。
「叔母上、心配ご無用ですよ。彼をお願いします。
私も後で伺いますから。ベルゼブル陛下に、よろしくお伝え下さい」
「仕方ないわね、分かったわ。いらっしゃい、リオン」
「え、でも……」
ためらうリオンに、サマエルは微笑みかける。
「大丈夫だよ、リオン。お前は魔族なのだ、胸を張っていなさい」
「うん」

二人が謁見の間を去ると、おもむろにタナトスは立ち上がり、弟の顔を覗き込んだ。
「さて、貴様、どんな条件でも呑むといったな。覚悟は出来ているのか?」
顔からは血の気が引いていたが、サマエルは気丈に答えた。
「……ええ、出来ています。何なりとお申し付け下さい、陛下」

「ふん。では、最初に言っておくが、俺が許可したのは、貴様が魔界に来ることだけだ。
復活させた“焔の眸”は、貴様にはやらん、宝物庫に戻す。一人で人界に還れ。 
……いや、どうせなら、復活は、儀式の時まで待った方がいいか。
貴様の胸を切り裂き、心臓を取り出すとき、ついでに“焔の眸”を蘇生させるというのはどうだ?」
タナトスは、指で弟の胸を斬る真似をした。

サマエルは絶句したものの、すぐに気を取り直した。
兄なら、そんなことを言い出しかねないないと思っていたのだ。
彼は、首の後ろで鎖を外し、紅い石のペンダントを机の上に置く。
「そうですか。私は、どちらでも構いません。
これは、お返しします……あと、これも必要だと、“黯黒の眸”が言っていましたね」

彼が取り出したのは、“ウィルゴ”という貴石だった。
水に血を落とし、かき混ぜた時に出来上がるような模様が、透明な中に浮かび上がっている。
これは、“眸”達の化身のうち、女性のみが創り出す石で、これを授けられた者を強力に守護する力があるのだ。

「貴様、もう諦めたのか」
弟が狼狽する様子を見て楽しもうと思っていたタナトスは、当てが外れて不満気だった。
「ええ。ただし、私は、人界には還りませんよ」
サマエルは言い、魔界の王はけげんそうな顔をした。
「何だと? 貴様、どんな条件でも呑むと言ったではないか」

「はい、そう申し上げました。しかし、“焔の眸”のいない人界には戻りたくありません。
儀式の時まで魔封じの塔におります。その方が、陛下もご都合がよろしいでしょう?」
タナトスは鼻にしわを寄せた。
「……貴様、何を企んでいる。二千年間、俺の慰み者になっていてもいいと言うつもりか?」

第二王子は眼を伏せた。
「それが、陛下のお望みならば。
どうせ、私は、二千年後、食用にされる家畜です。
たとえ、“焔の眸”をその間、お借り出来たとしても、時至れば、別れなければなりません。
ジルを亡くして分かったのです……残される者の辛さ、悲しさを、嫌というほど。
そんな思いを、“焔の眸”には、させたくありませんから……。
加えて、汎魔殿にいる者達の心から、私に関する記憶、そして記録も一切、消去して頂きたいのですが。
“私”はいなかった。そんな子供は生まれて来なかったし、元から存在しなかったのです……」

「何を、わけの分からんことを!
欲しい物を手に入れる努力もせずに、逃げてばかりいる軟弱者め!」
タナトスは、苛立って声を荒げ、弟につかみかかると引き倒し、ところ構わず殴る蹴るを始めた。

無抵抗のまま、サマエルは言い返した。
「何をすればいいのです、何の努力をせよと? 
怒りに任せて再び紅龍となり、世界を滅ぼすことですか?
……そんなことをするくらいなら、死んだ方がいい。
殺して下さい、今すぐ」

「うるさい、何か方法があるだろう、貴様ほど頭がよければ、どんな方策でも考えつくだろうが!」
タナトスは弟の首をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「……ありません、何も。
これが私の運命……受け入れるより外にないのです……」
暗い眼をした弟王子は、すべてのことを諦め切っていた。
泣くことが可能なら、彼は泣いていただろう。

「この──たわけ者めがっ!」
タナトスは、そんな弟のみぞおちに、拳を力一杯めり込ませた。
「ぐっ……」
気を失った体を手荒く背負い、運んでいく。

粛清(しゅくせい)
厳しく取り締まって、不純・不正なものを除き、整え清めること。特に、独裁政党などで、一体性を保つために反対派を追放すること。