18.希望を超えて(3)
弟から視線をもぎ離すと、タナトスは、ぐったりとうずくまっていた堕天使に声をかけた。
「ところで、貴様はどうするのだ、シェミハザ。やはり天界に還るのか?」
どうにか、自力で手当を終え、回復に専念していたシェミハザは顔を上げ、見かけよりは力強い声で答えた。
「はい。やはりシンハ様のご忠告に従いまして、天界にて密かに牙を
「ふむ。では、折をみて天界の動向を知らせろ」
「はい。天界の結界は、思念波を遮断するように出来ておりますが、細工するなり結界の外へ出るなりして、必ずご連絡致します。
それから、これを頂いてもよろしいでしょうか」
堕天使は、いつの間にか手元に持って来ていた、血まみれの翼を持ち上げて見せた。
それは、大天使の純白の翼……紅い龍と化したサマエルが、食いちぎったものだった。
タナトスは、いかにも嫌そうに、眼を細めてそれを見た。
「……ふん、そんなもの、どうする気だ?」
天使もまた、長く触れていたくない様子で、無造作に翼を地に落とした。
「天界に帰還するからには、ミカエルと共に戻らなかったことについて、天帝並びに大天使達に、弁明せねばなりません。
その理由を、色々と考えているうちに思いついたのでございます、これを使えばよいのではと」
「そんな薄汚い羽を、どう使うのだ」
「はい。これを取り返すため紅龍に立ち向かい、どうにか成功したものの、負傷し失神した。
それを死んだと思い込み、魔物達は去った……とでも釈明すれば、裏切りには気づかれないものと思います。
わたくしは、職務に忠実な天使で通っておりますから。
こんな食いかけでも、役には立ちます。ぜひ、頂きたいのですが」
「なるほど。それがあれば、天使の長ミカエルが尻尾を巻いて逃げ出した後も踏み止まり、魔物どもから神族の象徴である白き翼を取り返した“天使の
サマエルが口をはさんだ。
「はい。“天使の鑑”は少々大げさですが、そんなところでございます」
「そういうことなら、構わんぞ。持っていけ。
本来なら戦利品として、汎魔殿にでも飾っておくべきかも知れんが、くそ忌々しいミカエルを思い出して不愉快だからな」
魔界の王は、
シェミハザは、軽く
「ありがとう存じます。
……しかし、あのミカエルと、これからも、顔を合わせて暮らさねばならないかと思うと、ちと、うんざりではございますが……。
それでも、さすがに、ヤツも今までのように鼻持ちならない
「ふむ、悪魔に翼をもぎ取られた天使の長か……。
たしかに、この上ない恥さらしだな。
俺が、あやつの立場なら、おめおめと生き延びようなどとは思いもせんが……。
ところで、世界が滅びるのを目撃出来ずに残念だったな、シェミハザ」
魔界王は、皮肉っぽくにやりとした。
堕天使は、ケガを忘れてつい肩をすくめ、傷の痛さに思わず顔をしかめた。
「つっ……“カオスの貴公子”様がなさらなくても、いずれ必ず、この世界にも終わりがやって参ります。
この世界は、破壊されては作り直されている、と天界の伝承にもございますしね。
それゆえ、サマエル様、時が至れば、ためらう必要はございません。
思う存分、壊しておしまいになればよいのです。
その節は、ぜひとも、わたくしをお呼び出し下さい。
今度こそ、この眼でしかと、それを見届けたいと思っておりますので」
サマエルは首をかしげた。
「……おやおや、いいのかな? そんなことを言って。熾天使ともあろうものが」
「まったくだ。天使とは思えぬ言い草だな」
魔界王タナトスも、珍しく弟に賛同した。
シェミハザは、怖いほど優しい笑みを浮かべた。
「わたくしは、もはや、堕天使でございますから」
「なるほどな。それでは、天界の連中と気が合わんのも無理はあるまい。
貴様は、我らと考えが似ている……」
「お褒めに預かり、恐縮でございます……タナトス様。
……では、皆様、わたくしはこれにて……」
熾天使は、やっとの思いで立ち上がり、お辞儀をして去ろうとした。
その彼に、リオンが声をかけた。
「待って、シェミハザ。そんなによろよろしてて、大丈夫? ちゃんと天界まで還れるの?
ねえ、サマエル、彼を回復してあげた方がいいんじゃない?」
だが、魔族の王子は静かに首を振った。
「それは不要だと思うが」
「えっ、なんで?」
少年は不思議そうな顔をした。
サマエルは、ふと気づいたように眼を上げた。
「そうだ、ありがとう、リオン。お陰で大事なことを思い出したよ。
シェミハザ、“紅龍”の爪と牙には、天界の魔法や薬では解毒出来ない、強力な毒がある。
数週間は、高熱が続き、抵抗力の弱い者は死に至る……。
お前も当然、苦しむことになるだろう。危ないと感じたら、私の名を、三度呼んでから眠りにつきなさい。
その傷を通じて、私とお前はつながっている。
夢の中に入り込み、毒を少し中和してあげよう」
リオンは首をかしげた。
「え、だったら、今すぐ、毒を消してあげた方がいいじゃない、どうして……」
「いいえ、リオン様。それでは、駄目なのでございます……」
熾天使は首を横に振った。
「だって、そんなに苦しそうなのに。死んじゃうかも知れないんだろ?」
リオンは、ますます不思議そうな顔をした。
「お考えになってみて下さい……。
たった今、わたくしは、天界の宿敵である紅龍……すなわち、邪悪な龍や、魔物達と、激しく戦って来たばかり、なのでございますよ……?
それが、もし、傷一つなく、元気一杯だったなら……?
天帝や、大天使達は、どう思うでしょうか……?」
リオンは、ぱんと手を合わせた。
「そうか、裏切ったこと、すぐバレちゃうよね……!」
サマエルは、リオンの話を引き取って続けた。
「その通り。だから、彼には気の毒だが、中和も少しずつした方がいいのだよ。
あまりに早く直ったら、怪しまれるからね。
辛いだろうが、ぎりぎりまで耐えてもらいたいな、シェミハザ」
「はい、よろしくお願い致します」
「それはともかく、ふふ……ミカエルにはたっぷりと毒を注ぎ込んでやった。
まあ、しぶといヤツのことだ……あれくらいで死ぬわけはないだろうが、自由に動き回れるようになるまでには、半年や一年は必要だろう。
その間に、天界の中枢へ食い込み、しっかり自分の立場を固めるがいい。
期待しているよ」
魔界の王子は、乱れた白銀の髪を整えながら、
そのあまりに
「どうした? そんな顔をして」
問われて、シェミハザは我に返る。
「……あ、いえ、お、お心づかい、かたじけなく存じます、サマエル様。
それですから、リオン様、ご心配には及ばないのでございますよ。
何しろ……このまま、ひどく傷ついた姿で、天界の門の前に行き、息も絶え絶えに経過を説明したなら、後になって、いくらミカエルがわたくしを疑い、それを皆に言い触らしたところで、誰も、それを信じようとはしないでしょうからね……」
「くっくく……役者だな、貴様も」
魔界の王は、その場面を想像して、思わず含み笑いを漏らした。
「ふふ……実際よりも、もっとずっと弱り果てて、今にも死にそうな、お芝居をして、ご覧にいれますよ、タナトス様」
「はっはっは! せいぜい気合を入れて演技をし、神族どもを煙に巻いてやるがいい!
達者でな、シェミハザ。初舞台の成功を祈っていてやる!」
タナトスは、熾天使に近寄り、親しげにその肩を叩いた。
「ありがたき幸せでございます、魔界の王、タナトス様。
では、皆様、失礼致します」
シェミハザは、傷の痛みをこらえ、再び礼をした。
それから、ぎこちなく空に向かって手を差し伸べる。
スポットライトのような光が天から降りて来て、体を包んだかと思うと、天使の姿はかき消えた。
それを見送ったタナトスは、笑いを納め、振り返った。
「さて、俺も還るぞ。貴様らもついて来るか?」
「えっ、今? だけど、ライラが……」
リオンが口ごもると、サマエルが代わって答えた。
「彼女の弱った体には、魔法陣での次元転移や、毒性の強い魔界の大気は負担がかかり過ぎる。
それにまだ、色々と、後始末もせねばならないしね。
私達は、少し落ち着いてから行くことにするよ、タナトス」
「そうだな。では、来る気になったら俺を呼べ。
念のため、この門は封じておく」
そう言い残し、タナトスは、紅龍の力で復活した魔法陣に足を踏み入れた。
青白い輝きを残し、魔界の王は姿を消した。
「えっと、ぼくらはどうしようか……?」
リオンが聞いた。
「とにかく、ライラを休ませてあげた方がいいね。
いったん……そうだな、ファイディー城に戻った方が、彼女も落ち着くのではないかな」
「そうだね。……ライラ、どう?」
それまで、疲れ切ったようにソファに身を預けていた王女は、うっすらと微笑を浮かべた。
「ええ……これでやっと……懐かしいお城に帰れるのね、うれしい……」
そう言うと、急にぐったりとリオンに寄りかかって、彼を慌てさせた。
「あ、ライラ!? ど、どうしたの!?」
「シッ、大丈夫、ほっとして気が
眠らせてあげなさい、蘇生したばかりの彼女には、その方が楽だと思うよ。
この状態のまま、ファイディー城まで移動しよう」
「うん。……今まですっごい大変だったし、疲れちゃったんだね……」
「お前も休む必要があるだろう」
「あ、そうだね」
「では」
サマエル達は魔法で、城まで飛んだ。
こうして、ようやく人界と魔界、天界をも巻き込む世界崩壊の危機は、無事、回避された。
人界に残った彼らの最初の仕事は、城を逃げ出して散り散りになった家臣達を探し出して役職を任命し、国政の立て直しをすることだった。
しかし、殺されてしまった者も多くいたし、復帰を渋る者もいて、混乱した城の機能が元通りになるには思ったより時間がかかった。
それが終わると、アンドラスが“病死”したと発表して、ライラが次の王位に
無論、前王が魔物に取り憑かれ、世界征服を企んでいたことは厳重に伏せられていたが、あれほどの魔力のぶつかり合いが、小数とはいえまだ世界各地に残る魔法使い達に、気づかれずにすむわけはなかった。
そこで、すべてのいきさつを知っている者はいなくとも、“人の口には戸は立てられぬ”のことわざ通り、どうしても、ある程度は、国民及び周辺諸国にもその話は漏れてしまっていた。
それでも、他国からの侵略がなかったのは、ライラの父が率先して進めて来た平和協定のお陰もあったが、密かにサマエルが使い魔を放って好戦的な国を調べ、そこへ
賢者サマエルと言えば、誰知らぬ者のないほどの有名人だったから、どの国の王も興味半分とは言え、喜んで会ってくれた。
そして、彼の人柄に惚れ込み、サマエルがそう言うならばと、協定の存続を認めてくれたのだった。