18.希望を超えて(2)
「……どんな条件も飲む、だと?」
タナトスは、弟を鋭い目つきで見た。
「はい、何なりと仰って下さい、その代わり、魔界に帰還するご許可を……」
サマエルは、すがるように言ったが、魔界王は露骨に不快な顔になり、腕組みをした。
「貴様が戻れば、また、宮廷すずめどもが騒ぎよるだろう。
……それより、くそ親父が、うだうだ言うのは必至だな」
返事を渋る魔界の王に、リオンは言った。
「えー、タナトスは王様なんだから、そんな人達や、お父さんの言うことなんか気にしないで、許可してあげなよ。
それに、“焔の眸”は、魔界の大事な宝物なんだし、早く元に戻さないと困るんじゃないの?」
タナトスは、忌々しげに彼を睨みつけた。
「うるさい、何も知らん癖に。ガキは黙っていろ!」
リオンは、ぷうっと頬を膨らませた。
「ひどいや、ガキなんて。本当のことじゃないか」
「タナトス様、わたしからもお願い致します。
サマエル様を、魔界に帰して差し上げて下さいませ」
ライラは、二人の間に割り込むように口を添えて、頭を下げる。
そんな彼女をちらりと見、タナトスは、気を落ち着けるように一呼吸おいてから、うなずいた。
「……ふむ。たしかに、今の魔界の王は俺だ。
家臣どもが何と言おうと、押し通せばいいことか。
ならば、条件……は、後でゆっくり考えるとして、とりあえず……そうだな、リオンの後見人として同行する、ということならば、魔界への帰還は許可してやる。
それでどうだ? サマエル」
兄の顔に、嫌な笑いが張り付いていることを知ってか知らずか、サマエルは、またも深々と
「ありがたき幸せでございます」
タナトスは、笑みを消し、続けた。
「だが、言っておくぞ、俺は、そんなペンダントがあったことなど知らん。
見たことすらないからな!
覚えておくがいい、シェミハザもだ」
「心得ております、タナトス様」
声をかけられた熾天使は、痛みをこらえて胸に手を当て、頭を下げた。
シェミハザは、少し離れたところで一人、傷の手当をしていた。
ローブを裂いて包帯代わりにしていたが、傷は深く、巻くそばから血がにじみ、血や泥で汚れた白い布はみるみる真紅に染まっていくのだった。
「まあ、ひどい傷! お手伝い致しますわ」
ライラは、初めて傷のひどさに気づき、熾天使に駆け寄った。
「ぼくも手伝うよ、シェミハザ。
あ、まだお礼言ってなかったね、さっきはありがとう」
彼女の後を追いながら、リオンも声をかける。
疲労が色濃く残る顔に、シェミハザは、気丈にもかすかな笑みを浮かべ、首を横に振って見せた。
「いえ、心配はご無用でございます。
お二方のお手を
「本当に大丈夫ですの?」
「遠慮しなくていいんだよ、ひどいケガじゃない」
「……いえ、大丈夫です。お構いなく」
「そう、ならいいけど」
助力を断られたリオンは、魔界の君主を振り返った。
「……でもタナトス、今の、どういう意味?
ペンダントのこと、知らないって? あなたが持ってたんでしょう?」
「言葉通りだ。
魔界王たる俺、タナトスは、そいつに渡したペンダントの存在を、まったく知らなかったということだ」
タナトスはすげなく返答する。
「……どういうこと?」
当惑するリオンに、シェミハザが言った。
「つまりですね、リオン様。
もし万一、“焔の眸”様の復活が天界に知られ、さらに、魔界の王が彼の蘇生を手助けしたと分かったら、どうなるでしょう。
話が一層、大ごとになってしまうとお思いになりませんか?」
「あ、そうか。だから、知らなかったことにするんだね」
少年はようやく納得し、うなずいた。
ペンダントを握り締めて居住まいを正し、サマエルは、改めて深々と礼をした。
「兄上、いえ、魔界王タナトス陛下、心からのお礼を申し上げます。
これより後は、必ず、陛下とお呼び致します」
すると、予想に反してタナトスは、不快の極みといった顔をした。
「心にもないことをほざくな、心の底では、これっぽちもありがたがってなどおらんくせに!
俺は、
兄が
「とんでもございません、真実ありがたいと思っておりますよ、兄上。
この“左眼”のことは、私も覚えていました。
せめて、“焔の眸”の形見にと、頂戴致したいとは思っておりましたが、私がいくら頼んでも、決して渡しては頂けまいと、初めから諦めていたのでございます。
ですから、恩人であり、兄であり、魔界の君主たるあなた様を、呼び捨てになど、もはや出来るわけもございません。
それに、常々私を無礼者と、ののしっておいでだったではないですか。
何ゆえ、今まで通りでよいと仰るのでございますか?」
タナトスは、ますます不快そうな顔になった。
「ちっ、貴様、わざとやって楽しんでいるのだろう!
何度も言わせるな、俺を呼ぶのは名前だけでいい、敬語を使うのもやめろ、気色が悪い!
礼が言いたくば、“黯黒の眸”とそこの二人に言え、軟弱な貴様に、“兄上”などと呼ばれ、すり寄って来られるなど、鳥肌が立つわ!」
「ま~たそんなこと言って。ホーント、素直じゃないんだから。
サマエル、タナトスの
無邪気に言ってのけるリオンを、タナトスは怒鳴りつけた。
「何だと、魔界の王を、天邪鬼呼ばわりする気か、貴様!」
サマエルは、噴き出しそうになるのをこらえ、答えた。
「たしかにそうだ、でも、ダイアデムの方が、遙かに可愛げがあるけれどね」
「うん、そうだよね、タナトスはもう大人だから、全然可愛くないー」
彼らのやり取りを、ライラはくすくす笑いながら見ている。
「──ふん、勝手に言っておれ!」
ぷいと横を向いたタナトスは、あることを思いついて少年に向き直った。
「そうだ、そんなことより、リオン、貴様、一度魔界に来てみんか?
棺桶に片足を突っ込んでいるヨボヨボのくそ親父も、孫が来たような気分になり、俺に絡んでくる暇がなくなって、いいかも知れん。
最近は、俺の顔を見るたび、死ぬ前に孫の顔が見たいなどとぬかしてしつこいのだ、あの死にぞこないは。
どの道、俺などよりくそ親父の方が、魔界のことを教えるのには適任だ。
貴様がうんざりするくらい、長々と昔語りを聞かせることだろうさ。
どうだ?」
「……相変わらずひどい言い方するんだねぇ、自分のお父さんのことまで……。
でも、行ってみたくもあるなぁ。
二人のお父さんなら、ぼくにとってはお祖父さんみたいなものだし、魔界ってどんなとこか、興味もあるし……」
リオンがそう答えると、ライラは少し不安そうな面持ちで彼を見た。
ローブのほこりを払いながら、サマエルは、ゆらりと立ち上がった。
「さて、今まで通りでよいとのお達しだし、お言葉に甘えることとするよ、タナトス。
まず、ペンダントのことだが。
千二百年ぶりの里帰りで、懐かしさのあまりあちこち覗いていたら、宝物庫で、偶然にもこれを見つけた、ということにしておくか?
そうすれば、万が一、天界にバレたとしても、私が独断でやったこととして押し通せるさ。
“紅龍”の恐ろしさは、身に沁みているだろうし、ミカエルも何も言えまい」
「ふん……それほど悪知恵が回るようになったのなら、アメ玉の効果もちゃんとあったということだな」
普段の言葉遣いに戻った弟に向かって、タナトスが憎々しげに言う。
「ペンダントの効果って言うより、さっき、『ダイアデムは復活出来る』って教えてくれた人のお陰じゃないの?」
リオンが、またも口を出す。
「ふん、その石がなければ、復活が出来んことに変わりはあるまい」
「どちらでもいいさ。とにかく、これを渡してもらえて、お礼の言葉もないよ、タナトス」
サマエルは、胸に手を当て、優雅な礼をした。
彼はもう、まったく打ちひしがれてはいなかった。
あれほどタナトスを苛々させた、心の闇に狂い咲きする華の匂いを思わせる、腐臭にも似た甘い香りも今は消え、唇にはいつもの穏やかな微笑みが浮かび、先ほどまで暗く沈んでいた瞳には希望の光が灯って、彼の表情は、先刻までとは打って変わってとても明るい。
サマエルは、再度ペンダントに口づけしてから首にかけ、大事そうにローブの中にしまい込んだ。
タナトスは、意外に早く立ち直った弟を横目で見ながら、苦々しく思った。
(ふん、散々、女を渡り歩いたあげくに、たどり着いた相手は精霊か!
まったく、呑気なものだ、俺が魔界の君主として苦労していた間、こいつがしてきたことといったら、女
そう思うと、急に殴ってやりたい衝動が湧き上がり、彼は拳を握り締めた。
だが、弟に殴りかかることはやめ、代わりに深く呼吸をした。
ライラが、自分の動きを、じっと見詰めていることに気づいたのだ。
深呼吸のお陰で頭が冷え、改めて考えてみると、たしかに、“焔の眸”は
魔力によって創り出されたその化身は、どれをとっても美しく、タナトスでさえ、心
それに、他の
恋人として不足がないどころか、理想の
サマエルが、何を差し置いても欲しがるわけだった。
弟が、ありきたりなものは好まないことを、彼はよく知っていた。
消える間際に変化した女の姿を見れば、“焔の眸”の、弟に対する思いもまた、一目瞭然だった。
あの貴石の化身達は、サマエルのためなら、どんなことでもするだろう。
それも、自分や父親……歴代の魔界王に仕えたときのように渋々ではなく、心から喜んで。
そして、今回のことがあるまで、タナトスはすっかり忘れていた。
力ある者は、“焔の眸”から望みの姿を引き出せるということを。
もう少し、ダイアデムを優しく扱って手なずけておけば、彼も、自分好みの女を手に入れられたのかも知れなかったのだが。
後悔先に立たず……。
(ちっ、俺としたことが、何をうじうじといつまでも……!
こんな軟弱者のことなどどうでもいい! 考えるだけ無駄と言うものだ!)
タナトスは、心の中で吐き捨てた。
サマエルがどんな様子をしていようと気に入らないことに、今さらながら気づいた彼は、弟王子が魔界に帰還したら、無理難題を吹っかけてやろうと固く心に決めたのだった。