17.絶望の果てに(3)
「……そう言うと思っていたよ、タナトス。
だが、常に父の愛を独り占めにしていたお前に、何が分かる……。
母は亡くなり、見捨てられた孤児同然だった幼い私が手に入れることが出来たのは、シンハとの、ほんのひとときの
彼がいなければ、私はとっくに、死んでしまっていただろう……」
サマエルは、苦しげに言った。
「ふん、なぁ~にが“父の愛”だ! あのくそ親父!
あいつはな、貴様だけではなく、俺のことも
タナトスは歯ぎしりをするような口調で答えた。
「……そんなことはないだろう、お前がいたずらばかりしていたから、単に手を焼いていただけのことではないのか?」
「──違う!
親父は貴様のことを、出来損ないとののしっていたが、俺のことも見捨てていたのだ!
『心を持たずに生まれて来たゆえ、王位に就けば、同族殺しに
サマエルは眼を伏せた。
「……その話は、ジルから聞いたよ」
「ああ、彼女は俺の記憶を読んだからな!
そして、我が事のように憤慨してくれたぞ。
どうして、予言などより、自分の子を信じないのかと。
ちゃんと心があるからこそ、泣いたり笑ったり出来るのだ、と言ってな!
──ふん、予言などくそ食らえだ! 見ろ、俺は、そんなものになったか?
今まで殺した同族は、たったの一人きり、それとて、ひどい心の痛みを伴っていた。
彼女の墓に、二度とこんなことはせんと誓ったのだ、俺は……!」
現魔界王は、おのれの胸を強くたたいた。
「タナトス……それでも、私はお前がうらやましいよ。
少しの間だけでも、両親の愛というものを感じることが出来たのだから」
「──ふん!
それまで、浴びるように与えられていたものが、あるときから一切、手に入らなくなったとしたらどうだ、どれほど求めてもな。
それでも、貴様は、うらやましいなどとほざくのか?」
「…………」
睨みつけて来る兄に、サマエルは答えることが出来なかった。
「母上は、貴様を産んでから死ぬまでの数日間、貴様のことだけを気にかけていた。
見舞いに行っても上の空で、まるで、俺の姿が見えていないかのようだった。
叔母上もまた、貴様の子育てと親父を相手にするのに忙しく、俺のことは叱ってばかりいたしな。
……そして親父は……出来損ないの俺の代わりに、貴様を王に仕立てようとしているのだと思った。
もし、お前が生まれなかったら……いくら予言があろうとも、俺を王にする外ないゆえ、親父も俺を見捨てず、何とかしようとしただろう、そうでなくても、母上がかばってくれたに違いない、そうも思ったものだった」
タナトスは、ぷいと横を向いた。
サマエルは深く息を吐き、兄に質問をぶつけた。
「タナトス、お前、先ほど“紅龍”の心に触れただろう。
……どう思った? 何を感じた?」
「な、何だ、唐突に。俺の話とどういう関係が……」
予想外な問いに面食らう兄をさえぎり、サマエルは催促した。
「いいから言ってみるがいい。何を感じたのだ?」
「ふ~む……そうだな……闇を感じた。
苦しみと悲しみ、そして……激しい憎しみに閉ざされた永劫の闇……といったところか」
「それを、いつも私は感じているのだ。
お前とこうやって話しているときも……誰かと、愛を語らっているときでさえもだ。
それゆえ、私は、心の休まる暇がない。
私の精神は、常に正気と狂気の境目にあって、振子のように揺れているのだから……。
狂気に囚われ、制御不能となることが分かっていながら、天界との戦の際には切り札として使われ……そのあげくに、“味方に”殺されるのだ。
“カオスの力”を授かった直後、陛下は、魔界のために死ぬのがお前の使命だ、と言われた……そのとき、この人は、私を生かしておきたくはないのだな、と思ったよ……」
「──ふん、その点では、俺も親父と同意見だな。
貴様が生まれてなど来なければ、無論、母上は亡くならん。
つまり、親父は妻を失うこともなく、俺も見放されずに済んだのだからな!」
「く、っ……」
サマエルは絶句した。
「ちょっと! タナトス、そういう言い方はないんじゃない!?
いくらサマエルのこと嫌いでも、あなたは一応、お兄さんなんだから!」
それまで、黙ってただ二人のやりとりに耳を傾けていたリオンは、驚きと怒りを同時に感じて叫んだ。
「うるさいぞ! 俺はこんな女々しいヤツを、弟と思ったことなどないのだ!
関係のない者は、黙っておれ!」
「関係あるよ!
ぼくは、サマエルの子孫で、彼の血を引いてることを誇りに思ってるんだ、彼の悪口を言うと許さないぞ!
そんなら、ぼくも言ってやる、サマエルだって、好きであんたなんかの弟に生まれたわけじゃないんだ!」
「──ちぃ! 魔界王たるこの俺を、“あんた”呼ばわりするつもりか!
サマエル、貴様は子孫までもがまったくなっておらぬな!」
「ぼくは、ぼくだ!ぼくの言葉づかいは、サマエルとは関係がないよ!
大体ね、あんたはさっきも……!」
リオンがさらに言い募ろうとしたとき、サマエルが二人の間に割って入った。
「もう、いいよ、リオン。おやめ。慣れているから。
ずっと、そう言われ続けて生きて来たのだから……」
「けど、サマエル!」
憤慨するリオンに、サマエルは微笑みかけた。
「ありがとう。私のことで怒ってくれる人が、叔母以外にいるとは思ってもみなかったよ、ジルのお陰だな……。
……だが、もう、私は疲れてしまった。怒るのも憎むのも。だから、再び眠りにつこうと思う。
眠ってしまえば、怒りも悲しみも淋しさも感じずに済むし、私が生きている間は、誰かがこの忌まわしい力を受け継いで、苦しむ必要もない……。
そして……“焔の眸”の輝きを夢に見ながら、五百年、千年と過ぎていくうちに“儀式”の時が来て、ようやく、私は死ねる……。
その時こそ、私は、真の安らぎを得るのだ……」
サマエルは、悲しそうな顔をしながらも、うっとりとした口調で言い、その表情を見たタナトスは、ぞっとして鼻にしわを寄せた。
「そんなこと言わないで、サマエル。死ぬことが安らぎだなんて……」
悲しげにリオンは言った。
「まったく、リオンの言う通りだぞ!
サマエル、貴様、死ぬことが救いだと、本気で思っておるのか!?」
タナトスが最も嫌悪しているのは、こんなときのサマエルだった。
現実主義の彼にとり、死を浄化と救済をもたらすものだと思っているような弟の態度は、腹立たしい限りだったのだ。
(いつも思うが、何なのだ、こいつは!
一見普通なのに、何かが微妙に狂い、妙にどこかが歪んでいるのに気づかされる……。
こいつらは、サマエルの異常さに気づいていないのか?
いや、リオンはあやつの子孫ゆえ、分からんのも仕方あるまいが、ライラは無意識に気づいているのかも知れん。
健全で、清潔な匂いしかしない、リオンの方を選んだのだからな。
しかし、サマエルの、熟れすぎて腐り堕ちる寸前の花か果実のような、甘ったるい匂いに魅きつけられる者もいる……ジルのように……)
こういうときのタナトスは、いつも、微妙に調律の狂った楽器の演奏を聞いているかのような嫌悪感に神経を逆なでされ、苛立つのだった。
「半ば気が狂っているくせに、見た目はまったく正常に見える、それがこいつの最もうっとうしいところだ!
気違いなら気違いらしくしろ、そうすればこっちもそのつもりで対処してやる、これでは、狂気に飲み込まれ、紅龍となって暴れ回っているときの方が、まだましというものだぞ!
──ふん、これだからジルも、二百年暮らしただけで、こいつに愛想がつきたのだろうさ!」
「よしなって! そんなこと言うから、サマエルは余計に……」
再び、リオンがタナトスをたしなめようとしたとき、か細い声が聞こえてきた。
「リ、オン……ケンカ、しないで……。
タナ、トス様も……サマエル…様を……そんなに責めないで、下さい、ませ……」
「よ、よかった、ライラ! 気がついたんだね!
大丈夫!? どこか痛いところはない!?」
急いでリオンは、ライラに駆け寄った。思わず涙があふれそうになる。
彼は急いで眼をこすり、それから彼女の手を固く握り締めた。
「ええ、大、丈夫、何とも、ないわ……。ご免、なさい、心配、かけて……」
「キミが生きていてくれさえすれば、それでいいよ……。
サマエルがキミを助けたんだ、だから、……彼を許してくれる……?」
「もちろんよ、リオン」
ライラが答えると、サマエルは彼女のそばに膝をつき、頭を下げた。
煌く長い銀髪が床を這う。
「すまなかった、ライラ。リオンだけでなく、キミまでひどい目に遭わせてしまって……。
その上、世界さえも壊そうとした愚かな私を……好きなように裁いてくれ……」
「裁くなんて……サマエル様、わたしはもう平気です……。
そんなに、ご自分を、責めないで、下さい……。
それに、タナトス様……ジルが、なぜ、あなた、ではなく……サマエル様を、選んだのか……その理由、をお考えに、なったことが……おありですか?……
──ゴホ、ゴホッ、ゴホゴホッ……!」
喉がひりついて、ライラは思わず咳き込んだ。
「どうしたの、ライラ! どこか苦しいの!?」
リオンが取りすがる。
「そうだ、急いで水を! 完全再生の後では、水が必要なのだ。
ひどい火傷もしていたし、彼女は脱水症を起こしているのだよ。
──アクイアス!
飲ませてあげなさい、リオン」
サマエルは、水の入ったコップと水差しを出し、リオンに渡した。
「あ、ありがとう、サマエル。
ライラ、つかまって。起こしてあげる」
「ええ……」
ライラは、喉を鳴らしてうまそうに水を飲み干し、何度もお代わりをした。