~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

17.絶望の果てに(2)

“……彼女のことは、私に任せてもらえないだろうか……”
聞き覚えのある静かな思念が、悲嘆(ひたん)に暮れていた三人の心に、そっと流れ込んで来たのは、その時だった。
「むっ!? 今のは……貴様、正気に戻ったのか……!?」
タナトスが、急ぎ見上げると、龍はすでに攻撃をやめ、巨大な顔をぐっと近づけて、自分達を覗き込んでいた。
瞳に宿っていた闇の炎は、すでに消え失せ、いつもの穏やかな光を取り戻している。

「ああ……やっと気がついてくれたね、サマエル。
でも、もう遅いよ、ライラが……ライラが、死んじゃったんだよぉ……うっ、くっ……」
リオンはしゃくりあげた。
“いや、まだ遅くはないよ。すまなかったね、リオン。
そして、お前だけでなく、皆にも迷惑をかけてしまった……ようやく、おのれを取り戻すことが出来たよ、、お前とライラの必死の思いが、ダイアデムの残留思念と共鳴したお陰で……。
先ほど、ペンダントから彼が話しかけてきて、叱られてしまったよ、
『さっさと正気に戻れ! ライラが死んだら、リオンに一生恨まれちまうぞ』とね……。
再生ならば、私も出来る。人一人ならば、至極簡単なことだ。任せてくれないか”

「ホ、ホント!? じゃあ早く、ライラを生き返らせて! お願いだよ!」
勢い込む少年を抑え、タナトスは龍の姿の弟を睨みつけた。
「待て、リオン。サマエル、正気づいたのなら、なぜ元に戻らんのだ? 
それに、貴様が“死人(しびと)返し”ができるなどと、初めて聞いたぞ。本当のことなのだろうな」

答える龍の紅い瞳は、悲しげだった。 
“普段の私には、どうやっても出来はしないさ。
こうして、おぞましい紅龍となり、『カオスの力』を自在に扱えるようになってこそ、『(まか)る返し』の呪法も使えるのだ。
ともかく、私を信じて、そこをどいてくれないか。
早くしないと、彼女の細胞がすべて死んでしまうよ。そうなれば、もう蘇生は出来ない……”

「──ええっ!? いいから話は後にしてよ、タナトス!
サマエル、早くライラを助けて!」
リオンは顔色を変え、タナトスを脇に押しのけようとする。
「ふん……そら、シェミハザ。肩を貸してやる」
「も、申し訳、ございません……」
魔界王は、むっとしつつも、天使を抱えるようにして場所を空けた。

紅い龍はさらに顔を近づけ、鋭く尖った、(つや)のない闇色の爪を王女に突き付けた。
タナトスとリオンは、思わずぎくりとしたが、サマエルは指をライラに向けて、呪文を唱えようとしただけだった。

“──遙かなる太古より、魔界王家に受け継がれし『カオスの力』よ。
偉大なるその力を継ぎ、『カオスの貴公子』の称号を受けし、我が望みを叶えよ!
高邁(こうまい)なる志を持つ、彼の者の肉体を甦らせ、再び魂の器となせ!
──メンズ・セイナ・イン・コーパリ・セイノウ!”
紅い眼が輝きを増し、龍の指先から青白い光がほとばしる。
見る間に、痛々しい水ぶくれに覆われていたライラの肌が再生し、白い肌が戻って来た。

「あ、ライラっ、大丈夫……!?」
駆け寄ろうとしたリオンを、サマエルは前足で制した。
“もう少し待っておくれ、リオン。あと一段階必要だから”
「う、うん」
渋々、彼は元の場所に戻る。

“冥界の王ハゾスよ、汝が煉獄(れんごく)に迎え入れし、人族の王女ライラ・リデラード・ボウナ・ファイディーズ・リジャイナ十二世の魂魄(こんぱく)をこの世に戻し、再び人の子としての(とき)を歩ませよ。
()の者の寿命は、未だ尽きぬものなれば……!
──アド・ヴァケイタス・ダイアバライ!」

刹那、ライラの体が明るく輝き、空中に浮き上がった。
導きの(しるべ)のように光を放つ彼女目がけて、虚空(こくう)から湧き出た純白の光の玉が飛び込んでいく。
王女の体はさらに明るくなり、それから静かに地面に降りた。

光が消えると、紅龍の口から、安堵のため息が漏れた。
“……ふう。よし、終わった。間に合ってよかった。
再生と招魂(しょうこん)は成功したよ、リオン。もう大丈夫だ。
彼女が目覚めてから、たくさん水を飲ませれば、それですっかり元気になるだろう”

「あ、ありがとう、サマエル!」
リオンは、夢中で王女に駆け寄った。
青ざめていた顔には血の気が戻り、呼吸は落ち着いていて、少女は安らかに眠っていた。
そっと頬に触れてみる。
「あったかい……よかった、ライラぁ……」
ほっとして、彼は王女に取りすがった。

その間に、天空を覆い尽くしていた闇は徐々に撤退し、眩しいほどの砂漠の日差しが復活し始めていた。
正気を取り戻したサマエルが、王女の再生を負えた頃には、人界、魔界、天界のすべてを飲み込みつつあった暗黒は完全に消え失せ、あれほど激しかった地鳴りも雷鳴も、すべて幻だったかのように静まったのだった。

“吹き飛んでしまった砂も戻そう。砂嵐に巻き込まれないよう、皆は空で待っていてくれ”
「え……あ!」
四人を手早く結界で覆い、上空で待機させると、サマエルは呪文を唱えた。
“──偉大なる『カオスの力』よ。
『カオスの貴公子』サマエルの名に於て、破壊されし砂の地を元の風姿に戻せ!
──エクス ポウスト ファクトゥ!”

途端に、すさまじい砂嵐が吹き荒れ始め、みるみる岩盤を覆っていく。
ほんの数分で、砂漠は元の姿を取り戻し、リオンの家も復活していた。
リオンを始め、セラフィも、タナトスでさえも眼を見張った。
「す、すごい。ぼくの家まで、元通りだ」
「なるほど、これでは、天界に眼を付けられるはずですね。
サマエル様が、お味方でよかったと、心底思ってしまいますよ」

「……ふん、この力を自在に操れるものなら、何の苦労もないのだがな。
くそ忌々しいミカエルごと、天界を楽に吹き飛ばせるものを。
真に怒らねば、真の龍にはなれんが、その時には、理性は失われてしまっているのだしな……」
タナトスがつぶやく。
「でも、今はちゃんとやってるじゃない。
もう少し、そのままでいたら、慣れるんじゃないの、サマエル」
リオンの言葉に、紅龍はゆっくりと首を振り、空を指さした。

“いや、紅龍は、次元のバランスを崩してしまうようだ。
……闇は消えたが、ご覧、空に一部分、変色したところがあるだろう?
あれは次元の歪みなのだ。今ならすぐ元に戻るが、もし、あれが別の世界とつながってしまったら、色々と面倒なことが起こるだろう。
それに、この姿のままでいると、再びカオスに飲み込まれ、『私』としての意識が消えてしまう恐れもある。
そうなれば、今度はもう、戻っては来られまい……”

「そっか。じゃあ、駄目だね、やっぱり」
“ともかく、これ以上、こんな醜い姿でいたくない……元の体の方が、まだましというものだ”
サマエルはつぶやき、紅龍の巨体は縮み始めた。
小さくなるに伴い、徐々にその形状は人間に近いものへと変化してゆく。
やがて、彼は元の通り、ローブ姿の魔族となり、がくりと膝をついた。

「リオン、私を殺してくれ。私が生きていたら、また同じことが起こる……。
愚かな私は、ささいな私怨(しえん)のために、この世界を滅ぼそうとしてしまうだろう……。
今の……紅龍でない状態の私ならば、首を切り落としてから魔法で焼き、その灰を海にでもまけば……完全に死ぬはずだ。一思いに殺してくれ……」
サマエルは、手で顔を覆い、うめくように言った。

「嫌だよ、サマエル。ぼくは、そんなことはしたくない!」
リオンは、きっぱりと答えた。
サマエルは指の間から彼を見、くぐもった声で尋ねた。
「……なぜ? 私は、お前を殺そうとした。
それだけではない、世界を破壊しようとし、お前の恋人……一番大切な人をも、危うく手に掛けるところだったのだぞ……」

リオンは、嘆く先祖の眼を覗き込んだ。
「でも、ぼくも彼女も、ちゃんと生きてるよ。
この世界だって大丈夫だったし、あなたは正気に戻って、ライラを助けてくれた。
だから、ぼくはあなたを許せる、きっと、彼女もそうだよ。
それに、死んじゃったら、ダイアデムが悲しむんじゃない?
命がけであなたを守ったんだから。彼のためにも生きて欲しいな」

「ダイアデムは……“焔の眸”は、もういない。私がこの手で、破壊したのだから。
これ以上、愛する者のいない世界に生きていて、何になろう。
お前がやらないのなら──タナトス、お前はいつも私を殺したがっていたな、今、やるがいい。
私はもう、生きることに未練は少しも残っていない。一思いにやってくれ……」
サマエルの声は、老人のようにしわがれて、心底疲れきっているように響いた。

しかし、そんな弟を見据える魔界王の緋色の眼は、いつもより冷たく光っていた。
「何だと!? 甘ったれるな、サマエル!
俺は貴様のそう言う軟弱なところが、虫酸(むしず)が走るほど嫌いだといつも言っているだろう!!」
「……タナトス……」

「殺して欲しいだと……!?
ふん、生きているのが辛いから死を望むというのか、貴様は!
だが、生憎だったな、それが貴様の真の望みならば、俺は決して叶えてやることはせん!
千と二百年前、俺はたった一度、何者にも代えがたいほど大切に想っていた人を、譲ってやったことがあったな。
その時、俺は誓ったのだ! もう二度と、貴様が真に欲するものをくれてやることはせんとな!
大体、死にたがっている者を殺しても詰まらん、生きるがいい、サマエル。
生きて悲しみに溺れ、苦しみもがきながら後悔し続けるがいいのだ!
それが、柔弱な貴様に最もふさわしかろう!」
最後の口調は、吐き捨てるようだった。

「そんな言い方はよした方がいいよ、タナトス。
素直に、死んじゃ駄目だ、って言えばいいのにさ」
リオンがたしなめると、魔界の王は腕組みをし、ぷいと顔を背けた。
「ふん! 何ゆえ俺が、こんなヤツに同情せねばならんのだ!」

ダイアデムが消滅した直後には、弟にも少しは優しく接することが出来たタナトスだったが、うじうじしたサマエルを見ているとやはり、苛々してくるのだった。
あの時は、他人が身内を責めているとかばいたくなる、という心理も働いていたのかも知れない。
また、自覚はなかったが、弟をいじめていいのは兄の自分だけだという子供っぽい思い込みが、今もまだ、彼の中にはあるのだろう。

サマエルは、そんなタナトスの精神状態を、子供の頃よりはよく理解出来るようになっていたものの、実の兄に、ひどい言葉を投げつけられるのはやはり辛かった。