~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

17.絶望の果てに(1)

「うん、みんな、見てて。
サマエル……あなたに教えてもらった、一番強い魔法を今、使うよ……!
──ヴィス・モウタイヴァ!」
彼は、たった一つ知っていた上級魔法を唱えた。

朱色の光が、サマエルめがけて襲いかかっていく。
だが、紅龍は避けようともせず、左前足を大きく広げると、受けて立った。
龍が放つ青白い光は、ミカエルと戦ったときよりも一層強烈に輝き、サマエルの底力を嫌というほど感じさせた。

ついに、二つの魔力がぶつかり合い、すさまじい火花を散らす。
その輝きは、遥か遠くまで届き、辺境の山頂からでも見ることができた。
様々な要因が、圧倒的にリオンに不利であったため、間髪入れず決着がつくのではないかと危ぶまれた闘いだったにもかかわらず、朱色の魔力と青白い魔力のせめぎ合いは一進一退で、予想外に二人の力は伯仲していた。

「ふむ、なかなかやるな。
あの魔法は、さほど威力は高くないはずなのだが、堂々と紅龍と渡り合っているではないか」
固い地面に横たわり、回復を待つタナトスはつぶやいた。

天使の思念が、それに答える。
“守る者が出来ると、強くなる、と申します、から……。
それに、致しましても、すばら、しい、お力ですね。
もし、タナトス様の跡継ぎ、になら、れるのでしたら……わた、くしは、リオン様にも、お仕え、出来ましたら、幸せで、ございます、が……”

「シェミハザ、いい加減、念など使うのはやめて、回復に専念するがいい。
苦しげで、聞いてはおられん、ぞ……」
そうたしなめるタナトスの声も、かすれて聞き取りにくかった。
“はい……”

“リオン、また魔力を送るわね、受け取って”
ライラは、リオンの気を散らさないよう、そっと念を送った。
“あり、がと……ラ、イラ……でも、無理、しな、いで”
彼の返事は、精神を極限まで集中させているせいで、途切れがちだった。

恋人同士のやり取りを、横目に見ていたタナトスは、弟の口癖を思い出した。
サマエルはよくこう言っていた、『魔力とは意志の力、精神の強さが魔法の強さを決めるのだ』と。
そんな弟を、彼は鼻先で笑っていたものだったが、皮肉な運命の巡り合わせで、子孫であるリオンが、まさに今それを実践しているのだった。

(む──あれは!)
その時、彼はあることに気づいて顔色を変えた。
大きく開いた紅龍の口の中が青白く発光すると時を同じくして、右掌もまた、緑の光を発し始めたのだ。
見覚えがある禍々(まがまが)しい輝きを、二つ同時に眼にした魔界王の背筋に、悪寒が走る。
それは“マレフィック”と“リプラベイト”、共に上級魔法の、危険な光輝だった。

“アモスバイオス・アオイダ”だと……!?
まずい、あいつは、一気にケリをつける気だ!)
タナトスはとっさに上体を起こし、切羽詰った声で叫んだ。
「リオン、結界を──いや、逃げろ!
あいつは、魔法を二つ同時に使えるのだ、丸焼きにされるぞ!!」
なかなか決着のつかないことに業を煮やしたサマエルは、二重唱を意味する“アモスバイオス・アオイダ”という、魔法戦において最も高等な術を使おうとしているのだ。

「ええっ!? だ、駄目だよ、逃げられない!
この魔法を解いたら……!」
一気に青ざめるリオンは、素早く退避できる状態ではない。
「あいつを逃がさねば! くそ!」
助けに向かおうと起き上がったものの、タナトスの体は、まだ回復には程遠く、よろめき進むのがやっとだった。
ほとんど見えない天使も、何か出来ることがあるかも知れないと、彼の声を頼りに後を追う。

(ここまでか、もう、これで終わり……?
ライラを助けられず、ぼくも死ぬのか……。
そ、そんなの嫌だ、何か、何か方法は……)
紅龍の口と掌の輝きはさらに増していき、龍の魔力を受けとめながら必死で考えを巡らすリオンの背を、冷たい汗が流れ落ちる。

そんな彼目がけて、二つの強力な魔法が襲いかかろうとする、まさにその瞬間、
「サマエル様、やめてっ! リオンを殺さないで!
──ムーヴ!」
ライラが、タナトスの呪縛を切り、リオンの目前に移動した。
愛する者を救いたいと念ずる心が、彼女に力を与えたのだ。

「ライラ、駄目だ!」
「──きゃああああ!」
どうすることも出来ないリオンの目の前で、ライラの体は、青と緑の光に貫かれる。
そして、渦巻く二色の炎に飲み込まれようとする寸前、服のポケットから、深紅と透明の石がこぼれ出、眼も(くら)む輝きを放った。

二つの“ダイアデムの涙(ダクリュオン)”は、サマエルが龍となっても、ゆえ知らず前足に握り締めていたペンダントの石とも呼応し、一瞬で彼女の周りに三角形の結界を張り、炎の威力を弱めた。
実に危うい瀬戸際だった。それがなければ、ライラは一瞬で灰と化していたかも知れない。
だが、その結界は、絶対的な“カオスの力”の前では、あまりに微々たるものだった。
王女の体は、衝撃で、遥か遠くまで吹き飛ばされた。

「────!!」
直後、紅龍は、自分が傷を受けたかのように苦しげに暴れ、声のない絶叫を(とどろ)かせて尾を振り回し始めた。
「ライラ……うわあっ!」
よけられずに、リオンは跳ね飛ばされる。
それでも、彼は根性で立ち上がり、足を引きずりながらも、何とか彼女の元にたどり着いた。

「ライラ、ライラ、しっかりして、死なないで!」
必死の思いで揺さぶると、王女は眼を開け、弱々しく微笑んだ。
「リ、オン……? 無事、だった、のね……よかっ、た……」
だが、すぐにまぶたは閉ざされ、首も、がくりとうなだれる。
「眼を開けて、ライラ、死んじゃ嫌だ──!!
──わあああっ!」
リオンは、もう、どうしていいか分からなくなり、彼女にすがって幼い子供のように泣き出してしまった。

そのとき、ようやくタナトスが、泣きじゃくる彼のところに来た。
「たわけ者! 泣くより先に、やることがあろうが!
そこをどけ! 俺が回復させてやる!」
「い、いけ、ません、タナ、トス、様……!
そんな、状態で、魔法を、お使いに、なったら、今度こそ……」
ようやく追いついた、眼の見えない天使は、治癒魔法を使おうとする王を手探りで止めた。

「黙れ! 貴様の下知など受けんわ!
──イストール!
くそっ、効かんか! 魔力がまだ戻らんか、この肝心なときに……!
何をしている! シェミハザ、早く治癒魔法を使え!」
タナトスは、天使を怒鳴りつけた。

「は、はい──ディオ、グラーティアス!
ああ、わた、くしも、やはり、駄目、でございます。魔力、が、回復しておりま、せん……」
急ぎ唱えたシェミハザの呪文も、効力はなかった。
「じゃあ、ぼくが……!
──フィックス!
……ああ、駄目だ、ぼくの魔力もない……」
再びリオンが唱えても、やはり、王女はぴくりとも動かない。
見る間に、顔色が悪くなっていき、徐々に彼女の肉体から命が抜けてゆくのを、全員が感じ取っていた。

「ど、どうすればいいの、タナトス、シェミハザ!
何とかして! ライラを助けて! お願いだよ!」
リオンは、栗色の眼を涙で一杯にし、彼らに詰め寄った。
魔界の王は、珍しく、困り果てた顔をした。
「何とかしてやりたいのは山々だが、俺とて、魔力がなければ……」

すると、シェミハザが口を開いた。
「リ、オン様、彼女、の体内を、透視しても、よろしいで、しょうか……?
けがの、ひどい箇所に……魔力を、集中、すれば……あるいは……」
「う、うん、どうなってるのか、早く視て」
「はい」
リオンに導かれた熾天使は、王女の体に手をかざし、透視を試みる。

だが、ややあって口を開いた時、彼の顔色は冴えなかった。
「ひどい、状況です……。全身の、火傷、だけでは、なく……背骨が、折れて……それに……内臓までも、いくつか、破裂、しています……。
大変、申し上げ、にくいのですが……これ、では……無理、です……。
まだ、息がおありに、なるのが、不思議な、くらいで……」

リオンは真っ青になった。
「ええっ、嘘! ライラが死んじゃうって言うの!?  
目を覚まして、ライラ! お願いだ、死なないで!
キミが死んだら、ぼくは、ぼくは……また独りぼっちだよ……!」

「くそ、“黯黒の眸”、いや、イシュタル叔母上でもいい、魔界から誰か呼ぶことが出来れば、彼女を助けられるものを!」
タナトスは苛立ち、拳を砂にたたき付けた。
「じゃ、じゃあ、魔法陣で……あ」
周囲を見渡したリオンは、愕然とした。
サマエルが砂漠に描いた魔法陣も、リオンの家にあったものも、紅龍の攻撃により、吹き飛ばされてしまっていたのだ。

「……新たに回廊を開くためには、魔力が必要だ。
サマエルの屋敷にも魔法陣はあるが、封じられて久しい。使えたとしても、あそこまで移動する力は……。
いずれにせよ、魔力が戻らねばどうにもならんが、回復するには最低でも半日かかる。
それまで、彼女の体力がもてばいいが、そうでなければ……」
魔界王の声は沈鬱(ちんうつ)だった。

死人(しびと)返し”の呪法も万能ではない。死んだ直後でなければ、蘇生させられないのだ。
かつて、彼が殺したクニークルス族の少女、アルブを生き返らせることが出来なかったように。

「や、やだ! 何と言われたって、ぼくは諦めない! も一度やるよ!
──フィックス! アゾス! ピュアラファイ!
まだ駄目か、じゃあ──フィジック!」
リオンのねばりに後押しされ、タナトスもうなずく。
「そうだな。諦めるのは早いかも知れん、やってみる価値はある。
──ラストディッチ!」
「ええ、わたくしも……。
──キリエイ・アレイアサン!」

三人は、精神を集中させ、魔力をかき集めてそれぞれ呪文を唱えてみたが、やはり、王女に変化は見られない。
強大な力を持つ魔界王も、治癒魔法の専門家、熾天使も、魔力がなければただの人間も同然だった。

「駄目か……」
タナトスは唇を噛んだ。
「ええ……やはり、効いては、いません……。
申し訳、ございません、リオン様……。
本来、治癒魔法は……天使の、専門、分野なの、ですが……わた、くしに、余力は、もう……」
首を振る盲目の天使の表情は、特に暗かった。

実は、天界に伝わる聖魔法の中には、命と引き換えに相手を全回復するものがあるのだが、大天使クラスの魔力がなければ、呪文は効力を発揮しない。
もし、今、彼らにこの魔法を教えたらどうなるか。
性格から言って、まずはタナトスが彼女を救おうとするだろう。
だが、仮に復活出来たとしても、ライラは彼の死を嘆き悲しむに決まっていたし、何より、魔力が少なく、しかも聖魔法の使い手ではないという、術者の状態を考えれば、成功率は極めて低い。
タナトスが失敗したなら、今度はリオンが試みて、結局は三人共、命を落とすということもあり得る。
シェミハザは、心を鬼にして、沈黙を守ろうと決めた。

「ああ、ライラ……」
リオンは、髪をかきむしった。
時は無情にも過ぎていき、彼らが腕をこまぬいている間にも、彼女の顔色はますます悪くなってゆく。
皆の祈るような気持ちとは裏腹に、事態は悪化の一途をたどり、好転する兆しはなかった。

そして、不規則ではあったが、どうにか続いていた呼吸と鼓動がついに止まり、ファイディー国王女ライラは、リオンの腕の中で事切れた。
熾天使は指を組み、祈りを捧げた。
「……たった今、彼女の魂が、天に召されました。
アドナイ・メレク・ナーメン」

「う、嘘っ! ライラっ、死んじゃ嫌だ、嫌だよっ!
──あああ──!」
リオンの栗色の眼から涙がとめどなくあふれて滴り落ち、徐々に冷たくなっていく王女の頬を濡らす。
シェミハザとタナトスは、おのれの無力さに打ちのめされた格好で、もはや言葉もなく、重苦しい無力感だけが、その場を支配していた。