~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

16.死を創り出すもの(3)

三人には永遠にも思えるほど、長い長い時が過ぎた。
やがて、結界の鳴動も収まり、周囲は静まり返った。
「し、静かになった、ね……ライラ」
「ええ、そうね……」
「もう済んだの? 出てもいいのかな?」
リオンは、シェミハザに尋ねてみた。

「はい、光が消えれば、結界を解いても差し支えないはずです。
“デス・クリエイト”は、威力もさることながら、“死の光”の方がより恐ろしいのです。
あれを浴びた者は、すべて石化してしまいますので」
「そう。本当にいいんだね?」
リオンは念を押し、熾天使がうなずくのを待って、恐る恐る結界を解いた。

「わっ、眩しい……」
暗いところにいたために、弱い光も刺さるように感じられ、彼らは思わずまぶたを閉じる。
やがて、明るさに慣れた三人が見たものは……。
「な、何これ!?」
リオンは声を上げた。

目の前に、巨大な暗黒の球体が浮かんでいたのだ。
暗い表面には、縦横に紫色の稲妻が走り、パリパリと放電が起きている。
「こ、これは……もしや、“デス・クリエイト”……!?」
シェミハザの口から、期せずして声が漏れる。

リオンは、振り返って彼を見た。
「えっ、さっきの魔法を、サマエルが、こんなにしちゃったの?」
「は、はい、おそらく。
しかし、本来ならあり得ません。
あれほど強力な魔法を、拡散させるならともかく、球状に凝縮するなどと……」
熾天使は、自分の眼を信じられずにいた。

だが、直後、彼らはさらに驚かされることとなる。
突如、怪物は大きく口を開け、球体を吸い込み始めたのだ。
「あ、飲んでるよ!?」
「まあ!?」
「──何と!」

こともなげに吸収を続ける間、リオンとの闘いで負った傷も()え、龍の体の巨大化は留まることを知らず、天空を覆う闇もまた、濃さを増していく。
そして、ついに、タナトスが命を賭けて放った最強魔法の莫大なエネルギーは、すべて紅龍の体内に取り込まれてしまった。

「ああ、まさか、こんなことが……。
“死の光”でさえ意のままに扱い、おのれのものとするとは……。
何という……これが“カオスの力”なのか!?」
熾天使は、いつものていねいな言葉遣いも忘れ、呆然と紅い龍の姿を凝視していた。

「く、くそ、駄目か……! 俺の力では、ヤツに吸収されてしまう……。
情け、ない……これ、が……魔界、王、たる俺の、最期……」
歯噛みするタナトスだったが、意に反し、魔力を使い果たした体は、足先から石へと急速に変化していく。
見る間に彼は、一個の立像と化した。

「いけない、タナトス様!
──ムーヴ!
──ディスエンチャント!」
我に返った天使は、急ぎ魔界王のそばに移動し、石化解除の呪文を唱える。
そして、王の額に手を当て、自分の魔力の大半を注ぎ込んだ。

石と化した肉体が白く発光し、時を巻き戻すように元に戻っていく。
やがて、全身の石化が解け、タナトスは息を吹き返した。
「……う、う、っ……」
「ご無事ですか、タナトス様! しっかりなさって下さいませ!」
熾天使は、倒れかかる魔界王を支えた。

「──くっ……! ああ、シェミ、ハザ、貴様、か……。
ふ、俺、は、死に損なった、な……」
「……な、何とか、間に合いました。
完全に石化が及ぶ前に、お助け出来て、何よりでございました……」
シェミハザは、安堵のため息をつき、力尽きて、彼ごとその場にへたり込んだ。

心からほっとした様子、そして命を助けられたことで、さすがの疑い深いタナトスにも、この天使が本気で天界を裏切り、魔界に味方するつもりなのだということが信じられた。
「俺としたことが、無様にもサマエルを倒せなかった上に、貴様がおらねば命さえ危うかったとはな。
礼を言うぞ、シェミハザ。そして、疑ったことを詫びねばならん」

「そのようなお言葉、もったいなくて頂戴するわけには参りません、タナトス様。
あなた様のお命を危険にさらしながら、失敗致しました。
わたくしの目論見(もくろみ)の甘さです、平に、ご容赦下さいませ……」
熾天使は、地に髪がつくほど深々と頭を下げる。

タナトスは肩をすくめた。
「謝罪などいらんと言ったろう、反逆の熾天使よ。
魔界で最強の魔法ですら歯が立たんとあらば、致し方あるまいさ。
もしかしたらと、可能性に賭けてみただけのことだからな」

「大丈夫ですか? タナトス」
「タナトス様……よかった、ご無事でしたのね」
リオンはライラと一緒に、彼らのそばに駆け寄っていった。
その若い恋人同士に眼をやり、魔界の王は暗い表情でつぶやいた。
「リオン、ライラ……。
気の毒だが、こうなっては望みはもはやない。この世界は終わる……」

「──いいえ、やっぱり、ぼくがやります!
最後の最後まで、ぼくは諦めない。ライラのためにも!」
彼は、別れの(しるし)にライラの手を一瞬強く握って離すと、紅龍に向かって走り出した。
「──リオン!」
「リオン様、お気をつけて!」

「勝ち目がないと分かっていても、退くに退けん戦いか。
ひ弱そうだと思っていたが、なかなかやるではないか、あの少年は……」
熾天使とライラの手を借りて起き上がりながら、魔界王タナトスの緋色の眼には、今度こそ、混じり気ない賞賛の光が浮かんでいた。

リオンは必死だった。
魔界王の最大最強魔法をもってしても、太刀打ち出来ない“カオスの力”を目の当りにして、それでも、この戦いに負けるわけにはいかないのだ。

無我夢中で突撃を繰り返し、反撃を受けて傷つき、それでも彼は、決して諦めずに魔法を繰り出す。
彼は、自分が助かろうなどとはまったく考えてもいなかった。
全魔力を使い切る覚悟──それは無論、彼の死を意味していたが──でいた。

(魔力がなくなったときが、ぼくの最期、そうしたら、すべては終わる。
ライラを守れないかも知れない……けれど、守りたい……。
だから、ぼくは、負けるわけにはいかないんだ……!)
闘いに勝つこと、それだけを心に念じて、ボロボロになりながらも、一歩も退かず、彼は戦っていた。

「リオン、やめて! もうやめて!
このままでは、あなたが死んでしまうわ!」
見兼ねて飛び出そうとするライラを、タナトスは引き止めた。
「──よせ! キミが行っても、足手まといになるだけだ!
辛くとも、離れたところから、見守らねばならんときもあるのだぞ!」
「嫌です、お放し下さい、タナトス様!」

「駄目だ、待っていろと言うのに、──ええい、聞き分けのない女性だな、
──ディサーム!」
タナトスは苛立ち、呪縛の呪文を唱えた。
「う、っ……」
しかし、弱り切った体で無茶なことをしたために、彼はめまいを感じて倒れかかる。
その体を、またもシェミハザが支えた。
「魔界王様、ご無理は禁物でございます」

「ああ、分かっている。だが、もう少しで振り切られてしまうところだったのでな。情けないが。
もう大丈夫だ。放せ」
「はい」
シェミハザは言われた通りにした。

下腹に力を入れてふらつく体を支えると、タナトスは息を整え、停止している王女に話しかけた。
「悪く思わないでくれ、ライラ。リオンは、キミのために戦っているのだから。
キミに何かあったら、リオンが悲しむ。
あやつを──サマエルのように、悲しみのあまり狂わせてしまいたくはなかろう」

「ライラ姫様、タナトス様の仰る通りですよ。
それに、もし、あの方が負ければ、我々も生き延びることは不可能。
死ぬのは一緒ということになりますしね」
優しく熾天使も声をかける。

(分かっているわ、そんなこと。
でも、どうせ死ぬのなら、せめてリオンのそばにいたい。彼と一緒に死にたい……)
呪縛され、動けない彼女にできたのは、伝説の女神像のように涙を流すことだけだった。

かつて、タナトスを愛したものの、受け入れられることはなかった絶世の美女、イナンナに生き写しである緑の瞳から、真珠のような涙がしたたり落ちる。
遙かな昔、イナンナに辛く当たり、幾度か泣かせてしまったことを思い出して、タナトスは良心がうずいた。

「すまんな。出来れば、こんなことはしたくなかったが。
そうだ、最後になるかも知れんから言っておこうか。
俺は、イナンナのことは、別に嫌いではなかった。
しかし、残念なことに、彼女はまったく魔法が使えなかったのでな、魔界で暮らしていくのは難しかっただろう……。
それにまた、あの気位の高い女性に、側室になれ、と言うのも失礼なことと思えたし……。
たとえ、俺がそう申し出たとしても、彼女は蹴ったに決まっているがな……」

タナトスの方を見ることが出来ないライラは、それでも、彼の声が沈んでいるのを感じ取った。
「はは、今になって少し後悔しているかな、彼女を受け入れていればと……」
照れたような口調で告げる魔界王に、彼女は複雑な思いを抱いていた。
(まあ、今さらね。でも、イナンナは喜んでいるかも……)

心の声で何か伝えようか、イナンナの代わりに……と思い巡らしていた彼女の眼に、リオンが足をとられて倒れ込む情景が飛び込んできた。
(ああっ! 危ない、リオン!)
「まずいぞ! あれでは避けられん!」
「リオン様!
──イルーマナーティ!」

再び、熾天使が助けに飛び立った。
しかし、傷を負った上、魔界王にかなりの魔力を分け与えてしまった彼の攻撃は、先ほどとは比べものにならないほど弱くなってしまっていた。
「く、効かない……!
では、もう一度──パラセ…うわっ!」
それならばと、再び幻覚を見せようとした天使は、紅い龍の鋭い爪にかけられて空中高く放り出され、さらに、刺の生えた尾で地面にたたき付けられて、気が遠くなった。

「シェミハザ! ……くそっ!」
天使に走り寄ろうとしたタナトスは、足がもつれて膝をつき、悔しげに地面をたたいた。
その隙に、どうにか態勢を立て直したリオンに、ライラは心の声で言った。
“リオン、わたし、助けに行けないから、代わりに魔力を送るわ。使って。
──オルゴン!”
暖かな光が、リオンに届く。

「あ、ありがとう、ライラ」
「俺も送ってやるぞ、リオン!」
“いけま、せん、タナトス、様。
今、ご無理をすれば、今度こそ、お命に、かかわり、ます……”
意識を取り戻したシェミハザは、心の声で、王を思い止まらせようとした。

魔界王は、天使を怒鳴りつけた。
「──黙れ、シェミハザ! どうせこのままでは皆死ぬのだ、魔力をくれてやらずともな!
だが、万に一つの可能性でもあるのなら、俺はそれに賭けるぞ!
受け取れ、リオン!
──オルゴン!」

“たしかに。では、微力ながら、わたくしの、魔力も、差し上げます……。
──オル、ゴン!」
さらに二人の魔力が加わって、リオンは、体に力がみなぎるのを感じた。
「すごい、力が湧いて来たよ、ありがとう、皆。
これが本当に最後の力、これで彼を倒せなければ……」
“それでもいいのよ、あなたは頑張ったのだもの……”
「うん、そうだね」
王女の言葉に、リオンはうなずいた。

完全に力尽き、地面に伏したタナトスも言った。
「リオン、たとえ、これで世界が終わることとなっても、貴様のせいではない、気にするな」
“その、通り、です……いえ、それどころか……今、わたくし達、が、生きて、いられるのも……あなた様のお陰……なので、すから……”
弱り果て、視界がかすみ始めた熾天使も、思念でそう伝えた。