~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

16.死を創り出すもの(2)

「はは、軽いジョークだ、そんな顔をするな、ライラ。
無論、キミのためではあるが、それだけではないのだからな。
魔界を……リオンを頼む。
王妃となり、支えてやってくれ。あいつ一人では、心(もと)なさ過ぎる。
もう親父は年だし、いざというときには、ピーチク文句ばかり言いおる大臣どもよりも、キミがそばにいる方が、遙かにリオンの支えになるはずだ」
タナトスは、冗談めかして言った。

「分かりました、ご心配はいりませんわ。
わたし、出来る限り、彼を助けていきたいと思います」
「それはありがたい。成功しても失敗しても、俺の命運はここで尽きるが、それでも、最後にキミに会えてよかった。
冥土のイナンナにも、顔向けできるというものだ。
心置きなく戦いに臨める……うまくヤツを倒すことが出来るよう、祈っていてくれ」
魔界の王は、優しい笑みを浮かべた。

そういう表情をするときの彼は、弟のサマエルにとてもよく似ていた。
しかし、誰かが、うっかりそんなことを口に出したりすれば、タナトスはたちまち不機嫌になり、言った相手を殴ってしまいかねなかったが。

(まあ。これから死地に(おもむ)くというのに、この方は、まったく取り乱してらっしゃらない……(いさぎよ)いのね、イナンナが愛したわけも分かるわ……さすがは、魔界のすべてを統べるお方……)
ライラは、相手の気高さに感動し、深く、ていねいに頭を下げた。

「陛下、お礼を申し上げなければならないのは、わたしの方です。
ありがとうございます、ご恩は一生忘れません。
タナトス様のご武運を、心よりお祈り致しておりますわ」
美しい女性に感謝されて、タナトスは珍しく少々はにかみ、ぶっきらぼうに手を振った。
「礼は、サマエルを倒した時に言ってくれ、取りすがる美女の声に送られて死んでいくのは、いい気分だろうからな。
──では、シェミハザ、彼女を連れて、もっと下がっていろ。後始末は任せたぞ」
「はい、心得ております」

「よし、始めるとするか!
──はああああああああああ……っ!」
二人が下がると、タナトスは精神を統一し、“気”を溜め込み始めた。
例の魔法を使うためには、自身の“気”を最大限に引き出す必要があるのだ。
先ほどまでの諦めの気分は完全に消えて、今は、闘うことへの浮き浮きした高揚感だけが、彼の心を支配していた。
以前、ダイアデムが看破した通り、タナトスは、戦っているときに時に最も“生きている”と感じるタイプの魔物なのだった。

(いにしえ)より、魔界王家にのみ伝えられて来た闇の秘法、“デス・クリエイト”。
いくつあるかさえ定かではなく、魔界の貴族でも知る者は少ない、散逸してしまった古代魔法のうち、最強と(うた)われる呪文である。
禁断魔法が封印された“禁呪の書”、その奥義を極めた者にしか扱えないとされており、当然、威力も、ベルフェゴールが使ったものとは桁違いだった。

かつて、ベルフェゴールは、ある魔界の貴族を騙し、魔界王家の書庫に封印されていた“禁呪の書”のうち二冊を手に入れ、隠し持っていた。
そして、サマエルを操るのに一つを使い、捕らえられた後は、もう一冊を使って逃亡にも成功した。
だが、自分こそが魔界王にふさわしいとうぬぼれていたものの、実際には、王兄の力はさほどでもなく、そのため、自分より遥かにレベルの高いリオンにはまったく歯が立たずに、あっさりと破れてしまったのだった。

一方、タナトスが、この魔法を覚えたのは、まだ幼い頃だった。
書庫に忍び込み、秘中の秘とされていた古文書を盗み見たのだ。
サマエルだけには、自慢気に見たことを話していたが、さすがに使うわけにはいかなかった。
実際に使う機会が訪れたのは、千二百年前、サマエルの弟子だったジルが、邪悪な魔法使いに異次元界へとさらわれてしまったときだった。
最も危険な呪文と言われるだけあり、魔力をすべて使うまでもなく、異次元界の半分が石化し、崩壊してしまった。

デス・クリエイトが使われた地は、草一本生えなくなり、生命の絶えた場所になってしまうという。
あの時は、セラフィが現れ、聖魔法で緑の野を創り出したため、そうはならなかったものの、それは、いかにも、神に背いた悪魔にふさわしい邪悪な魔法だったのだ。

シェミハザは、心話でリオンに話しかけた。
“リオン様、今少しの辛抱です。
そのまま、サマエル様の注意を、引きつけ続けていて下さいませ。
タナトス様が、お力を溜め終えるまで”
“え? どうするつもりなんだ?”
“心配ご無用ですよ、すぐ終わります”

“すぐ終わるだって? ぼくじゃ頼りないから、タナトスがやるってこと?”
“いえ、そういうわけでは……。
しかし、サマエル様と戦うのは、リオン様にとってもお辛いでしょうし、あなたの覚えていらっしゃる魔法では、あの方を倒すまでには至らないのも事実ではあります……”
天使の心の声は暗かった。

“……でも……”
“分かっております、あなたのお気持ちは……ですが、世界の命運がかかっていることなのです、我慢して頂けないでしょうか……”
“仕方ない……ことなんだね……”
“申し訳もございません……”
“お前が謝ることなんかないよ、ぼくが力不足だから……”

リオンが話に気をとられていたとき、紅い龍の放つ魔法が彼に襲いかかった。
「──うわっ!」
リオンの体を、黄金の炎が覆い尽くす。
「熱ちちっ……!!
こ、これはダイアデムの得意な“アウト・ダフェ”……!?」

「リオン様!」
「リオン!」
「へ、平気、だよ……!
──アクイファー!」
リオンは、地下を流れる水脈から水を吸い上げて噴水のようにあふれ出させ、金の炎を消した。
紅い龍は、不服そうな眼差しでリオンを睨みつけ、さらに紅い炎を吐き出す。
それを予期していたリオンは、ひらりとよけた。

「今度は“ブリムストーン・ファイア”か。ダイアデムの魔法ばかりだね、サマエル。
あなたの属性は風と雷、そして地震だって聞いたのに……手加減してるの?
それとも……ぼくらすべてのことを忘れた今となっても、彼のことだけは覚えてるの……!?」
リオンの問いかけに、やはり答えはなかった。

(でも、好都合だ、タナトスが何をするつもりなのか知らないけど、時間稼ぎが出来る。
彼が、ぼくに気をとられている間は、“カオスの力”が弱まるみたいだ。
闇が寄せるスピードが遅くなってる……)
リオンがそう思ったとき、タナトスの声が聞こえた。
「よし、いいぞ! どいておれ、リオン!」
「あ、はい!」

「リオン様、こちらへ!
ライラ王女の結界を包むように、あなたの魔力で、もう一段壁を作って下さい。
偏光フィルターをかけ、最強レベルでお願いします」
「うん、分かった」
理由を問い返すこともせずに、彼はその強力な魔力を最大限に使い、結界を張った。

フィルターに光がさえぎられ、結界の中は、一瞬で闇に閉ざされる。
ライラは息をのんだ。
暗黒の中に浮かび上がる、リオンの朱色の眼。
魔力をフルパワーで使っているために、彼の瞳は、暗闇の中で燃え上がっていた。

「あ、真っ暗じゃ、キミは見えないんだったね。
──イグニス・ファティアス!」
彼は、ライラを怯えさせないようにと、鬼火を灯した。
「リオン、けがはどこ? 見せて。治してあげるわ」
「あ、特にひどいとこはないし、もう自然に治りかけてるよ」
「本当? 無理しないでね」
「平気平気、ほら、この通り」
「よかったわ……」

ライラがほっとした時、シェミハザが声をかけた。
「そろそろ、タナトス様がお始めになられます、リオン様、鬼火の魔力を結界にお回し下さいませ。
それから、振動や爆風にお気を取られて、フィルターをお外しになりませんよう」
「分かった。でも、タナトスは何をするつもりなの?」

「それは……」
熾天使が言いにくそうに口ごもったので、ライラが代わって言った。
「リオン、タナトス様は、魔界の最強の魔法を使って、サマエル様と相討ちで、わたし達……いいえ、世界を救おうとなさっているの……」
「わたくしが、ぜひにとお願い致したのです……世界を救うために、と……」
「えっ、最強の魔法で、相討ちだって!?」

リオンが驚いて聞き返したその時、タナトスの声が周囲に響き渡った。
「魔界王家の第二王子にして、“カオスの貴公子”サマエルよ!
兄にして魔界王たる我、タナトスが、貴様に引導を渡してやる!
魔界最大の闇の秘法を、とくと味わうがいい!
「──我は呼ばわる。死の創造主よ、くらき翼をの地に広げ、すべての生命を滅し、汝が皓召しろしめす世界へと変えよ。
──永遠なる魂の破滅よ、呪われし汝が光にて、希望ごとき幻とし、動くものの影一つとて無き空虚な荒野を、絶望とうらみと声無き慟哭どうこくにて永久とわに満たせ。
我が真名しんみょう、”現世の君主サタナイル”の名に於て、汝が封印を今、解く! 
目覚め、く来たりて、為すべきことを為せ!
──エクス・ナイヒロウ・ニーヒルフィト──!!」」

次の瞬間、すさまじい轟音と眩い輝きが空間を支配し、視界が真っ白になる。
すべての物の姿が、その中に消えた。
リオンの最大魔力で創り出された結界が、爆発に共鳴して激しく揺れ、みしみしと不気味にきしむ。
「リ、リオン……怖い、怖いわ、放さないで……」
「キミは僕が守るよ、ライラ……」

永い眠りから目覚めた、闇魔法の恐ろしいほどの威力に、リオンの結界でさえもが、その衝撃のすべては吸収し切れない。
激しく鳴動する結界の中で、リオンとライラはひしっと抱き合い、熾天使は両足を踏み締めて、暗黒の恐怖の時間に耐えていた。