~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

16.死を創り出すもの(1)

「タナトス様、あれは何なのですか? リオンは……」
焦って尋ねるライラへの、魔界王の答えは素っ気なかった。
「心配無用だ、ヴェイパーは瘴気(しょうき)、すなわち、魔力で毒性を増強させた魔界の大気なのだ。
ああ見えて、リオンも魔界の貴族の端くれ、少々()き込む程度だろうさ」
王女は眼を見張った。
「え、魔界の……大気なのですか?」

「ああ。通常の大気は、短時間なら人族でも呼吸出来るほどだが、ヴェイパーともなると、魔族でない者にとっては致命的だ。一瞬で、白骨化してしまうのだからな。
それゆえ、シェミハザ、貴様もついでに運んでやった。 
どの道、俺達が離れている方が、リオンも心置きなく戦えるだろう。
あいつは、諦めるつもりはないようだしな」

「まあ、白骨……?」
ライラは青ざめた。
「かたじけなく存じます、魔界王様」
熾天使はおじぎをしたものの、いつもほど心がこもってはいなかった。
サマエルとリオンの一騎打ちから、眼を離すことが出来ずにいたのだ。
それは、ライラとて同じだった。

封印が解けてから、聴力も増したリオンは、遠く離れたタナトスの説明もちゃんと聞こえていて、驚くと同時に悲しくなった。
「サマエル、こんな、毒ガスみたいなものを吐くなんて……世界を滅ぼすと決めたから、もう、ライラのことも、どうでもよくなってしまったの?
優しかったあなたは、どこに行ったんだ……あれは、全部嘘、演技だった……?
──答えてよ! サマエル!」

彼の問いに答える代わりに、紅い龍の真っ黒な角が青白く光り始め、リオンの結界めがけて光線が発射された。
サマエルの青白い魔力と、リオンの朱色の魔力がぶつかり合い、すさまじい火花が飛ぶ。

「くっ……! これが、あなたの、答えか……!」
リオンは、歯を食いしばって結界を維持する。
だが、紅龍の魔力は、容赦なく威力を増していき、彼はがくりと膝をついた。
「リオン!」
「なんてすごい力だ……! でも、ま、負けるもんか……!」
王女の声を耳にしながら、彼は踏ん張り続ける。

砂漠の太陽さえ、色()せて感じられるほどの輝きがあふれ、それは、遙か彼方にある王都アロンの物見の塔からでも、見ることが出来た。
押し返せはしなかったものの、ミカエルを上回るほどの強力な魔力のお陰で、どうにか持ちこたえていた。
それでも、青白い光線は、少年の結界をゆっくりと削いでいき、確実に龍の力は彼の体に迫っていく。

数十分の攻防の後、ついに結界は破られた。
「うわあっ!」
倒れた少年に向けて、畳みかけるように、龍の容赦ない攻撃が続く。
「危ない、リオン!
──よけて──っ!」
ライラの声は、悲鳴のようだった。

光線が当たった地面が黒く焦げ、煙が上がる。
リオンは、必死に転げ回ってよける。
「うわっ……!」
しかし、ついに、彼は肩を射貫かれた。
「きゃあ、リオン──!」
ライラは手で顔を覆った。

「くっ……」
リオンは肩に手を当て、荒い息を吐く。
獲物の動きが鈍くなったと見ると、龍は巨大な後ろ足を持ち上げた。
「うわあああああ──!!」
逃げる間もなく、踏みつけられたリオンは絶叫し、死をもたらすその重みから逃れようともがくが、紅龍は容赦なく、さらにのしかかって来る。

(い、痛、苦し……! だ、駄目、だ……気が、遠く……)
体が潰されてゆく激烈な苦痛に、彼の意識は薄らぎ始めた。
「リオン! 今行くわ!」
「待て、ライラ。キミが行っても、どうにもならんぞ」
飛び出そうとする王女を、タナトスは冷静に押し止めた。
「お放し下さい、タナトス様!
たとえ、無駄と分かっていても、わたしは、彼を助けに参ります!」

「──リジェナレイト!」
「────!!」
そのとき、またも、鼓膜を振動させる叫びが上がった。

もみ合っていたタナトスとライラは、はっと動きを止める。
金の髪をなびかせた熾天使シェミハザが、白い翼を力強く羽ばたかせ、紅い龍に攻撃を加えていた。
龍は怒りに燃えて、目茶苦茶に尾を振り回す。
「シェミハザ……? あやつ、いつの間に、俺の結界を抜けたのだ……!?」
タナトスはつぶやいた。

その間にも、熾天使は、サマエルの気を引こうと必死だった。
「──パラセリーニ!
リオン様! お早く! 今のうちに!」
「……あ、ありがとう……」
天使が、めくらましの幻術を見せている間に、リオンはどうにか、龍の足から逃げ出すことに成功した。

しかし、皆がほっと息をついたのも束の間、今度はシェミハザが、龍の尾に捉えられ、弾き飛ばされてしまった。
「うわっ!」
タナトス達がいるそばまで飛ばされ、熾天使は地面にたたき付けられた。

「天使さん!」
「シェミハザ! 無事か!?」
二人は、急いで彼に駆け寄る。
「は、はい、なんと、か……」
天使は、よろけながらも自力で立ち上がる。
白いローブは、ムチのような龍の尾によってざっくりと切り裂かれ、真紅に染まっていた。

「無茶をするヤツだな、しかし、いつ結界を抜けたか、まったく分からなかったぞ」
タナトスは、いくらか感心したように言う。
「結界に細工をするのは、得意分野でございますから……。
たとえ、無謀と分かっておりましても、あんな幼子が戦っているのに、何もせずに見ているというのも……。
長年、天使をやって染みついた(さが)でございましょうか、黙って見ていられなくなってしまいまして……」

「ありがとうございます、リオンを助けて頂いて。でも、ひどい血……!」
王女は、痛ましそうな顔をする。
「いえ、大したことはございません、自力で回復できます。
ですが、このままでは、リオン様が危ない……」
「えっ……ああ、リオン!」

セラフィの言葉通り、リオンは、逃げ回ることしかできなくなっていた。
いくら魔力が強くとも、たった数ヶ月習っただけの付け焼き刃の魔法しか使えないのでは、サマエルが紅龍に変化していなかったとしても、歯が立つわけがない。

それでも、必死に闘い続ける少年を見ながら、熾天使は考えを巡らせた。
(……やはり、彼一人では、勝てる見込みはなさそうだ。
世界の滅亡を目の当りにするのも一興と思ったが、孤立無援(こりつむえん)でも懸命に闘う姿を見ていると、つい、助けたくなってしまうな。
だが、自分一人の力を貸したところで、到底敵う相手ではない。
こうなったら、やはり……)

心を決めた天使は、急いで治癒魔法を使い、傷を癒やすと、魔界王に向き直った。
「タナトス様、折り入って、お願いしたい儀があるのでございますが」
「何だ? 改まって。俺にリオンを助けろとでも言うのか? 無駄だぞ。
たとえ、二人がかりで加勢したところで、勝ち目はない」
せっかちなタナトスは、一人でさっさと結論を出し、にべもなく言った。

「普通に戦えば、その通りでございましょう。
ですが、あの魔法……“禁じられし古代魔法”をお使い頂けば……」
「何ぃ!? 貴様がなぜ……ああ、そう言えば、ジルが異次元界にさらわれ、“あれ”を使ったとき、文句を言いに来たのは貴様だったな!
しかしだ、“デス・クリエイト”を人界で使ってみろ、猫の子どころか、アリの子一匹残らんぞ!
それでもいいのか?」
そこまで言ったタナトスは、不意に熾天使の顔を凝視し、叫んだ。

「そうか、分かったぞ!
さっきも……妙だと思ったのだ、ミカエルとは犬猿の仲と言いながら、助命を願うなど!
貴様、やはり、天界の回し者だったのだな!!」
セラフィは、突然のタナトスの言葉に驚愕した。
「ま、まさか、滅相(めっそう)もない!
それは違います、わたくしは、決してそのような者では!」

「どこが違う! 貴様は俺とサマエルを戦わせて、(つい)消滅させるつもりだろう!
古代魔法のうちでも最強と言われる“デス・クリエイト”。
こいつを最大威力で放てば、たしかに、サマエルを倒せるかも知れん。
だが、たとえ成功したとしても、俺もまた、魔力を使い果たして死ぬことになり、魔界王家の直系の血を継ぐ者は、二人ともいなくなる。
天界にとって、これほど都合のいいことはない!
──そうではないのか、このスパイめ!」
タナトスは、紅い眼を怒らせ、熾天使に指を突きつけた。

「な、何を仰います、リオン様がいらっしゃるではないですか。
彼の潜在能力は、ミカエルでさえ認めるところ、お父上、ベルゼブル様や、官僚の方々が盛り立てていけば、必ずや、魔界を統率していくことがお出来になるでしょう。
それに、人界が滅びれば、天界のみならず、魔界にも影響が及ぶと存じます。
わたくしはここに残り、あなた様の破壊の跡を完全修復致します、無論、全魔力を使って……!
──お願い致します! お力をお貸し下さい、タナトス様!
彼のために……命がけで、彼が守ろうとしているもののために!
わたくしもまた、あなた様と運命を共に致す覚悟でいるのです……!」

シェミハザは必死に訴えたが、魔界王の眼差しは冷ややかだった。
「──ふん、信用出来るか!
俺達が死んだ後、よってたかって、リオンをなぶり殺す気でいるのだろう!
その後に、ゆっくりと人界を復興させればよい、とな!」

「そ、そんな……本当なのですか、天、いえ、シェミハザさん……」
疑り深いタナトスの言葉を聞いて、ライラは、すがるような眼を熾天使に向けた。
「ライラ様、タナトス様……この件に関しましては、わたくしを信じて頂くほかございません……。
このままでは、いずれにせよ、世界が終わるのですから……」
「ふん」
悲しげに言う熾天使を、魔界王は睨み付けた。

シェミハザのアクアブルーの澄んだ瞳と、タナトスのルビーレッドのきつい瞳が、かっきりとぶつかり合い、絡み合う。

しばしの沈黙、腹の探り合いの後、さすがに魔界の王だけあって決断が早いタナトスは、歯ぎしりをするような口調で言った。
「……やるしかない、というわけだな……!」
「はい。よろしくお願い致します」
天使は深々と頭を下げた。

「ちっ、こうなっては仕方があるまい。
元々、座して死を待つなど、俺の(しょう)には合わぬことでもあるしな!
戦いの中で死ぬ、か……。
ふむ、汎魔殿の執務室で退屈を持て余し、半ば死んだような気分になっているより、ずっといいかも知れん」
タナトスがそう言うと、シェミハザは眼を伏せた。

「……申し訳ございません、すぐにわたくしも後を追わせて頂きますので、煉獄(れんごく)にてお待ち願いとう存じます、タナトス様……。
このシェミハザ、黄泉路(よみじ)の果てまでもお供致します、このような形でしか、お仕え出来ないのは、残念至極(しごく)でございますが……」

「貴様が謝る必要はない。
これは懇願されたからではなく、また強制されてやるものでもない、俺がそうしたいと思うから、俺自身がやると決めたから、行動に移すことにしただけだ。
それゆえ、たとえこの先、貴様が裏切ったとしても恨み言などは言わん、俺の判断が甘かったのだ。
……それに……そうだな。
フッ、美しい女性のために、魔界の王が命を落とすもまた一興というもの、そういうことにしておこうか」

心が定まったタナトスは、冗談めかしてライラに声をかけた。
「そんな……タナトス様……」
自分のために命を捨てると言う男性の顔を、彼女はまともに見ることが出来なかった。

れんごく【煉獄】
カトリックの教理で、小罪を犯した死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態。天国と地獄の間にあるという。ダンテが「神曲」中で描写。