~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

15.闇の胎動(4)

(い、息が、でき、ない……苦、しい……!)
リオンは、喉をかきむしった。
彼を囲んでいるのは、サマエル一人の感情だけではなかった。
罪もなく殺されていった、おびただしい魔族の怨みや苦しみや悲しみ……。
それに加え、膨大な数の死んだ人間や動物の感情……古いものから新しいものまで、『痛い、苦しい、憎い、殺してやりたい、恨めしい、呪ってやる』等、声なき叫びを上げて彼に迫って来ていたのだ。
“カオスの力”とは、このように、真っ暗な念が凝り固まったものなのかも知れなかった。

(……ああ、頭が、ズキズキして、何も考え、られない、よ……。
ぼくは、何を、しなければ、いけない、んだっけ……?
そ、そうだ、サマエルだ、彼は、どこに、いるんだろう?
この闇の中で、迷子に、なってる、のかな……彼を、見つけられれば、きっと……)
リオンは、頭をはっきりさせようと首を振り、闇に向かって呼びかけた。
“サマエル、どこ? どこにいるの! 返事をしてよ!”

しばらくは何の反応もなく、やはり駄目かと彼が落胆しかけた、次の瞬間。
(あ、これは……!)
特徴的な哀しい色の怒りと憎しみを、リオンの鋭い感覚は捉え、彼は龍を見上げた。
暗黒で覆われた瞳に、かすかに光るサマエルの意識、それに向けて、彼は心の声を最大にし、放つ。
“──サマエル、気がついて! 正気に戻って、ぼくを見て!
このままじゃ、世界が滅んじゃうよ!”

すると、緋色の眼を覆っていた闇の炎が少し退き、リオンは、ようやくサマエルの意識を完全に捉えることが出来た。
それでも、先祖の精神はひどく弱々しく、ゆらゆらと揺らいで、彼はその接触を途切れさせないよう、全力を尽くさなければならなかった。

“リ、オ……私、ただ……愛す、者、心静か、に……平和、暮らし……かった、のに……なぜ……許され……い、のだ、ろう……”
“サマエル、きっと、今に誰か、また愛する人が出来るよ!
だから、世界を壊さないで! 元に戻って! お願いだよ!”
だが、必死に訴えるリオンの心に流れ込んで来る王子のちらつく映像は、悲しげに首を横に振った。

“いいや……そんな日、は……永遠、やって来、ない……。
私、ずっと……いつ、か……必ず、この闇、晴れる……晴らして、くれる者、現れると……わ、ずかな希望……すがって、耐えて……た……もう、望み、ない……もっと、早、く……こう……すべき、だった……そ、すれば……無駄、生き、長らえ……苦し、必要、なか、った……”

“けど! 楽しいことだってあったんでしょう!?
望みを捨てちゃ駄目だよ!”
“ごく、たまに……ある……星の、瞬き、のような、一瞬、の喜び……それ……奪われた後、襲……て来る激しい、心、痛み……そ、して、積み重なる、悲しみ、は……やがて、憎しみに、変わり……すべて……恨んで……私、こうなっ、のだ……醜……だろう……今の、私は……”

“あなたは醜くなんかない、大きくなったから、ちょっと恐いな、って思うだけだよ!
それに、悲しいことだってあるけど、これからだって、楽しいことやうれしいことが、きっと、たくさんあるはずだよ!
諦めないで、ぼくらと一緒に探そう、絶対見つかるから”
リオンは、何とかサマエルに希望を持たせようとしたが、彼の懸命さとは裏腹に、紅い龍の眼には、闇の炎が再び暗い影を落とし始めていた。

“うれしいことなど……喜びなどあるものか……私は、誰にも望まれない子供だった……そして、今も……誰も、私など、必要としてはいない……。
お前だってそうだ……いつ、ライラを奪おうとするか知れない私など、いなくなってしまえばいい……と……心の中では思っているのだろう……?”
不思議なことに、闇が濃くなるに従い、かえって先祖の心の声は力強さを増し、明瞭に聞こえるようになっていく。

リオンは仰天した。
“それは違うよ! どうして、そんなこと思わなきゃなんないの!?
ぼくにとって、あなたは、持ったことがないお父さんみたいだったんだよ!
──あなたは、もう、ぼくの家族なんだ!!”

だが、彼の必死の思いも、サマエルには届いていないようだった。
いったん紅に戻った瞳は、再び暗い(かげ)りに覆われ、サマエルは、自分一人の思いにのめり込んでいく。

“私が生まれて来たのは、間違いだったのか……。
母が私を生んだせいで死んだから……父がベルゼブルではないから……魔界王になれなかったから……望んでもいない 『カオスの力』 を手に入れたから……?
私は、何なのだろう……人か、魔族か、あるいは……?
何ものにも属することが出来ない、こんな私は存在してはならないのか……それとも、『私』 という存在、そのものが、罪悪だと言うのか……!?
──ああ──だがもう、そんなことはどうでもいい!
いつもいつも、愛する者を奪い去り、悲しみと憎しみと、そして、苦痛だけしか与えない、こんな──こんな世界など、もう、いらない!
すべて壊れて──なくなってしまえばいいのだ──!!」

“ええっ!? 何言うんだ、サマエル! ヤケになっちゃ、駄目だよ!
お願い、元に戻って!”
リオンは夢中で呼びかけるも、それきり心の接触は切れた。
またも、サマエルの意識は、黒ずんだ炎の中に見えなくなり、暗黒の妖気だけが砂漠を覆っていく。

「サマエル様の心は、こんなに……。
暗過ぎる、激し過ぎる……痛いわ、心が、引き裂かれそう……く、苦しい……!」
「こ、これはすごい……!」
ライラもシェミハザも、ひどい精神的苦痛を感じて、顔を歪めていた。

「二人共、結界を張るがいい。
特にシェミハザ、やせ我慢をする必要などないのだぞ。
いくら寝返ったとは言っても、貴様は熾天使、苦痛を感じて当然だ。
“闇の貴公子”の称号を持つこの俺でさえ、どうにか耐えていられるすさまじさなのだからな……」

「はい」
「お言葉のままに、タナトス様」
二人は言われるままに結界を張り、リオンもそれに(なら)って、安堵の息をついた。
そして、少年はようやく、サマエルが自分の身代わりになろうとした理由が分かった気がした。

(サマエルは、世界を滅ぼしてしまうくらいなら、自分が死ねばいいと思ってたんだな……。
気が遠くなるほど長い年月、彼は、感情を押し殺して来た……。
初めに愛した人は、一緒に歩んではくれず、すでに亡くなって……そして今日も、とても大切に思っていた人が消え……彼は、生きる希望を全部なくしてしまった……。
ダイアデム、どうして死んじゃったんだ?
こんなに、サマエルが悲しむってこと、分かんなかったのか?
天界で生きててくれるって思うだけで、彼は、救われたかも知れないのに……。
ぼくやライラじゃ、彼の絶望を癒すことは出来そうにもないよ……。
彼は、世界を道連れに、死ぬつもりなんだから……!)

タナトスもまた、我知らずため息をつき、紅い龍と化した弟を見上げた。
(貴様の心の闇は、これほどまでに深かったのか……。
“焔の眸”に守られ、“黯黒の眸”より“カオスの力”を授かりし混沌の申し子、我が弟ルキフェルよ。
お前は、“光をもたらす者”ではなかったのか……?
──“光”、か)

その言葉で、タナトスは思い出した。
昔、汎魔殿で、『サマエルの実の父親は、ミカエルではないか』という噂が立ったことを。
そうは言っても、魔族と神族、両者はまったく別の種族である。
角の有無や翼の形状、色等は当然異なっており、彼らを親子とするには、かなり無理があった。
また、サマエルが母親似ということを割り引いても、顔や体形、性格等も、似ているところは一切ない。
これでは、ベルフェゴールを父親とする説の方が、まだ、髪や眼の色が同じ分、多少なりとも説得力があるほどだった。
そのため、初めはタナトスも、口さがない家臣達のゴシップの一つとして捉え、さほど気にはしなかった。

だが、デマには徐々に尾ひれがついていき、しまいには、『誕生直後の第二王子には真っ白な翼が生えていて、それを見た王妃はショック死し、激怒したベルゼブル王は、翼を魔族のものと付け替え、額に角を植え込んで、憎い敵の子を、生け(にえ)に仕立て上げたのだ』……などといったことを、まことしやかに言い立てる者さえ現れた。

父王は、それらを放置したままで、母を侮辱されているように感じて苛立っていたタナトスはあるとき、得々と、口から出任せを並べ立てている男に行き合い、怒りを爆発させた。
腰が立たなくなるまで男をたたきのめし、周りにいた連中も一蓮托生(いちれんたくしょう)とばかり、問答無用に“魔封じの塔”へ放り込んでやったのだ。
彼らは、すぐに釈放されたものの、それを潮に、興味本位の(うわさ)は一気に下火となった。

無論、これらの流言飛語(りゅうげんひご)は、サマエルの耳にも届いていたことだろう。
それが真実かどうかはさておき、敵であるミカエルが、サマエルに優しい言葉をかけることなど、あり得なかった。
それもあって、今の弟は、周囲すべての者に、自己の存在を否定されていると思い込んでいるのかも知れない。

魔界の王は、天を振り仰いだ。
「見るがいい、星も月もない真の闇が寄せて来る。
ついに、サマエルが、“カオスの力”を解放し始めたのだ。
すべてが闇に覆われ、無に帰すときも近い」
「いよいよですね……。“ディエス・イレー”、“怒りの日”はついに来たれり……」
熾天使は、ため息混じりに答えた。

「それはたしか、“最後の審判の日”とかいう意味だったな?
……ふ、その審判を下すのが魔物、というのもまた、皮肉なことだが」
セラフィとタナトスは、諦めの眼差しを交わしていた。

「ダメだよ、サマエル! 力を使わないで!
あなたの悲しみや絶望は、ぼくにもよく分かる、だけど、あなたにこの世界を壊してしまう権利はない!
人々の希望を、未来を消滅させる権利なんか、ないんだ!」
リオンの叫びが、虚しく響く。

タナトスの言葉通りのことが起きつつあった。
日食が起きているかのように太陽が翳り出すと、砂漠を涼しい風が吹き抜けていく。
普通、日が沈めば星が輝き出すところなのだが、闇に支配されつつある空に、光を発するものは何もない。

そして、ずっと続いていた地震もまた、その性質を変えつつあった。
揺れ方と音、双方が微妙に変化してゆくのを、タナトスは感じ取っていた。
「地表面の振動であるクラスト・クエイクから、中心核で起きるコア・クエイクへと変わったようだな。
星の核が、構造崩壊を始めたのだ。もはや、人界の終焉(しゅうえん)も近い……」

「ええっ!? 人界が壊れてしまう、のですか……?」
ライラの声が震えた。
「そうだ。崩壊はほどなく、天界、魔界へと波及し、すべては終わる……」
答える魔界の王の声も、沈んでいた。

だが、遠からずやって来る最後の時まで、彼らを生き延びさせるつもりは、“カオスの貴公子”にはないようだった。
龍は、禍々しい口を大きく開け、真っ黒な煙を吐いたのだ。
タナトスは叫んだ。
「“ヴェイパー”だ、まずい!
リオン、煙が消えるまで、結界を解くなよ!」
「は、はい!」

「ライラ、シェミハザ、ここは危険だ、離れるぞ!
──エクシアント!」
魔界王は、魔法で二人を連れ、後方へと避難した。
そして、彼らの結界を覆って、自分の強力な結界を張る。