~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

15.闇の胎動(3)

勢いで、止めてみせますと宣言したものの、リオンに勝算など、あるわけもなかった。
取りあえず飛び出したはいいが、もちろん、サマエルとは戦いたくはない。
けれど、背中に痛いほど感じるライラの視線……彼女のことを考えると、ダイアデムのように、愛する者のために死ねるのなら、それもいいかと思ってしまうのだった。

「うわっと!」
紅龍の攻撃を、かろうじてリオンは避ける。
ためらう彼とは対照的に、紅い龍となったサマエルは、まったく手加減しなかった。
戦い、相手を倒すこと、それだけしか考えない。世界を原初の混沌に戻すため……。
それこそが、“カオスの貴公子”、“破壊者”アバドンなのだから。

サマエルとジルの子孫とはいえ、少年の外見は頼りなく、紅龍の相手としては力不足のように思える。
対等に闘えるのか危惧(きぐ)したタナトスは、王女に尋ねた。
「ライラ、教えてくれ。
サマエルと手合わせしたことくらいはあるのだろうが、リオンは、一度でも勝ったことがあるのか?」

懸命にリオンを見つめ続けていたライラは、声をかけられて、はっと目線を上げた。
「え? いえ、彼は、サマエル様とは戦ったことはありませんわ、タナトス様。
ダイアデムとは、一回だけ対戦しましたけれど……」
「何っ、一度もないだと!?」
タナトスは心底驚いた。

「ええ。ですが、それが何か……」
「俺はまた、サマエルと直接手合わせくらいはやっているものと思っていたのだが……」
そこまで言うとタナトスは、くわっと眼を見開き、叫んだ。
「ま──まさか、魔法も、初級しか習っていないと言うのではあるまいな!?」

「い、いえ、もちろん、そんなことはありませんわ。
彼は覚えが早くて、中級魔法だけでなく、一つか二つですが上級の呪文も覚えています」
ライラが慌てて答えると、タナトスは、気が重そうに頭に手をやった。
「……やれやれ。その程度では、とてもではないが、歯が立たんぞ!
“紅龍”は魔族の切り札……我らに手を出せばこの力を使うぞと、逆に脅すことによって、今まで、何とか切り抜けて来たのだからな」

「まあ……お言葉を返すようですけれど、彼は前に、あの……ベル何とかと言う魔物は簡単に……」
「いや、ライラ、サマエルを、あの間抜けなベルフェゴールごときと一緒にしては困る。
ヤツの強さは、それこそ、魔界でも一、二を争うのだからな。
そして、普段、他人と争うことは好まんヤツだが、ああなってしまった今は、相手が誰であろうと、容赦なく倒すことしか考えないようになってしまっているのだぞ!」
「そ、そんな……」
魔界王の言葉に、ライラの鼓動が早まっていく。

「それに、一応言っておくが、“焔の眸”は、魔法攻撃力では我らの足下にも及ばん。
シンハに変化すれば、爪と牙が加わって多少マシになるが、あいつが最も力を発揮するのは、予知の力を行使するときと、魔法具“王の杖”となり、魔界王家の者の魔力を増幅するときだ。
つまり、あいつは、単独では俺やサマエルなどとは、抗すべきもないのだ」
「……ええ、たしかに彼も、リオンには全然(かな)わないと認めていましたけれど……」

「ふむ、ダイアデムよりは上、というわけか。
しかし、魔法を習い始めてまだ三月と経っておらず、その上、サマエルと手合わせしたこともない……。
やはり、それでは駄目だ。
いや、たとえヤツと毎日闘って、幾度か勝てるようになっていたとしても、“紅龍”に太刀打ちできるとは、到底思えん。
……これでは、リオンは、俺達より一足先に、冥土へと旅立つ可能性が高いぞ」
タナトスは、半ば諦め口調で言った。

ライラは真っ青になった。
「タ、タナトス様!
リオンは、死んでしまうとおっしゃるのですか!?」
「いいえ、タナトス様。
リオン様も、なかなかどうして頑張っておられます……何とかなるかも知れませんよ、ご覧下さい」
その時、シェミハザが口を挟んだ。

話し込んでいた魔界王と少女は、弾かれたように、闘い続けているリオンに眼を()った。
幸い、紅龍は、少年に気を取られてか、世界すべてをいちどきに滅ぼすという、カオスの力をまだ解放してはいない。

「……そうか? 逃げ回っているようにしか見えんぞ、俺には」
少しの間、リオンの動きを見ていたタナトスは言った。
「攻撃をよけながら、方策をお考えになっているのだと思います。
第一、普通の方でしたら、あの強烈な攻撃を、そう簡単にはよけられないのではないでしょうか」
「ふむ……まあな。
大天使ミカエルでさえ、不意を突かれて捕まり、醜態をさらした。
並みの者ならば、とっくに勝負はついていると言うところか」

熾天使の言葉通り、リオンは龍の攻撃をよけながら、懸命に考えを巡らしていた。
(体が大きくなった分、スピードは遅くなったみたいだし、攻撃も魔法じゃなく、しっぽとか体を使うだけだな。
これから、どう出て来るかは、分からないけど。
……多分、ぼくが全力を出しても、彼はびくともしなさそうだし。
ダイアデムの時とも、ベルフェゴールの時とも全然違う……一体、どうやって攻撃したらいいんだろう……)

考えあぐねていたとき、リオンの脳裏に、ダイアデムと模擬戦を闘った時のことが鮮やかに(よみがえ)った。
あの時、ダイアデムは、サマエルの属性が雷や地震で、水で攻撃するとかえって力が増し、弱点は金属で、彼を捕らえるため天界が用意している檻は、黄金と光でできている……そう教えてくれたのだった。
(ダイアデム、お前、ぼくにもチャンスをくれたのか? ぼくが、魔界王家の血を引いているから?
それとも、友達だと思ってくれたからか?
……だけど……ああ、やっぱりぼくは、サマエルを倒したくなんかないよ……。
せっかく、お前が命をかけて彼を守ったのに、殺す、なんて……いくら世界を救うためだって……けど)

リオンは、ちらりとライラを見た。
彼女は、祈るように手をぎゅっと組み合わせて、自分を見つめている。
(でも、ライラは守りたい……それには、辛いけど、やっぱり彼を倒すしかない……。
なら、ぼくはもう迷わない、ダイアデム、お前の気持ちはムダにはしないよ、絶対、勝ってみせるからね……!)

「よし、じゃあ、これでいくぞ!
──ディ・プロファウンディス!」
リオンは、迷いを断ち切るように、元気よく呪文を唱えた。

呪文に呼応し、地面が地響きを立てて大きく裂けた。
そして、暗い地底から、黄金の矢が一本、(きらめ)きながら出現したと見るや、少年の手の中に飛び込む。
同時に出て来た黄金の弓にそれをつがえ、彼は、ありったけの力を込めて引き絞り、サマエル目がけて射た。

「──当たれぇ!」
「──────!!」
矢は、狙いあやまたず命中し、紅い龍は、またも声のない叫びを上げる。
その声は、四方八方、遙か彼方まで響き渡り、何も知らない人間達に、耳鳴りを起こさせた。

この場にいた四人には、龍の“叫び”がずしりと重く胸にこたえた。
それは、傷の痛みではなく、心の痛みによるもの──悲しみの叫びだったのだ。
「ヤツは……サマエルは、こんな時でも、泣き声を上げることはできないのだな。
紅龍……“カオスの貴公子”は、涙を流せない、か……」
中でも、タナトスは、押し寄せる悲嘆に胸がつぶれる思いをしていた。

リオンは、先祖の悲しみを思い、歯を食いしばった。
(サマエル、ご免なさい、でも……でも、ぼくはライラを守りたいんだ……!
初めはライバル、それから少しずつ……お父さんみたいに思えてきたあなたを、殺すなんてすごく嫌だし、すごく悲しい……。
けど、ぼくは……ライラを……この世界を守らなくちゃいけないんだ!
滅ぼさせるわけには、いかないんだよっ!)

リオンは、次々に地中から矢を呼び出し、涙でかすむサマエルに射続けた。
矢が刺さるたび、龍は苦しみ悶えて尾を振り回しては、盲滅法に地面にたたきつけ、暴れた。
もうもうと砂煙が立ち、激しく地面が揺れ、鳴動する。
ほんの数十本の矢が刺さったにしては、紅龍の苦しみ方は尋常ではなかった。

(ヤツの弱点を知っているような攻撃をしているな、リオンは。
だが、サマエルの真の力、“カオスの力”はこんなものではないはず……)
タナトスがそう思ったときだった。
龍の紅い体の中で、ただ一つ、胸部で銀色に輝いていたウロコにリオンの放った矢が突き刺さり、それまで一方的に攻撃を受けていた紅い龍が、突如、攻勢に出たのだ。

「─────!!」
龍と化したサマエルは、声なき叫びを上げ、今までとは比べものにならぬ力で、リオン目がけて突進した。
「うわあっ!」
不意を突かれ、少年は、思い切り遠くまで跳ね飛ばされた。
「きゃあ、リオン!」
ライラが叫ぶ。

同時に、龍の体内から、すさまじい負の感情がほとばしり出た。
心に食い込む苦い思い出、それに伴う精神的苦痛、怒り、憎悪、怨み、妬み、呪い、ありとあらゆる負の感情──先ほどミカエルに襲いかかった、魔界人達の怨念──が、再び頭をもたげ、どす黒い妖気となってリオンに襲いかかる。

「サ、サマエル、苦しい……あなたは……あなたの心は闇、そのものだ……」
少年は頭を抱え、それを振り払おうともがいた。
だが、魔界の闇よりもなお暗いその想念は、霧のようにどこまでもまとわり付き、彼を苦しめた。