15.闇の胎動(2)
一方、天界、壮大な創世神話が描かれたステンドグラスを背後に従えた、玉座の間にて。
部屋の中央、黄金の台座に
黄金の髪に縁取られた柔和な顔が蒼白になり、青い眼は動揺し、唇からも血の気が引いている。
「主よ、こうしてはおられませぬ!
これは天下の一大事、ミカエル様救出のため、援軍派遣のご
しかし、
「ガブリエルよ。そちの気持ちは分からぬでもない、なれど、援軍は出さぬ。
今、少規模の軍を率いて魔物どもに戦を仕掛けたところで、返り討ちにあうは
敵は魔物の長、さらに長年恐れられてきた“紅龍”までもがいるのじゃぞ」
「ですが!」
「ガブリエル、御前ぞ」
隣にいたウリエルがたしなめた。
四大天使は、全員金髪であり、ミカエルを除いて青い眼を持っている。
それでも、顔や体格はそれぞれに違っており、ウリエルの体格はガブリエルよりもたくましく、身長も頭一つ分、高かった。
「では、人界の周りで結界を張っている天使達を、救出に向かわせてはいかがでしょう」
もう一人の大天使、ラファエルが取り成すように言った。
四大天使のうち、彼の背はミカエルに次いで高く、
すると、ウリエルは否定の身振りをした。
「いや、それはまずかろう。
ヤツの力を、曲がりなりにも抑えている結界を解けば、あの蛇めが天界を襲いに来る可能性もある」
「それでは、ミカエル様を見殺しにすると仰いますのか、ウリエル殿!」
ガブリエルは、苛立たしげに背中の羽をばたつかせて浮かび上がり、同僚を睨みつけた。
「もうよい、やめよ!」
広い玉座の間に、天帝ゼデキアの声が響き渡る。
「は、申しわけございません」
「ご無礼をお許し下さい、主よ」
即座に大天使達は言い合いをやめ、片膝をついた。
「元々、おのが力を過信し
その上、“紅龍”を目覚めさせるなど、寝た子を起こすかのごとき愚行までもを仕出かすとは、恥の上塗りではないか!
何ゆえ、我が祖先が、あの毒蛇を恐れたかのを、もはや忘れ果てたと見ゆる。
左様な無分別なる振る舞い、いかに天使の長と申せど、
「されど、主よ!
天使長様は、天界にはなくてはならぬお方、このまま見殺しにしては、天界軍の士気にも関わります!」
「ならば、あやつは、何ゆえ独断専行しおったのであろうな。
おのれの命は当人のみのものに
必死の
「それは……」
返す言葉もなくうなだれたガブリエルは、不意に顔を上げた。
「そ、そうだ、シェミハザ! 彼は何をしているのでしょう!」
そのまま水晶球に駆け寄り、熾天使に呼びかける。
「シェミハザ! 何をしているのです! ぼやぼやせずに、天使長をお助けなさい!」
“……そのお声は、ガブリエル様ですね。
お言葉ですが、紅龍が目覚めた今、世界は終わるのですよ、この期に及んでたった一人を助けたところで、どうなると仰るのでございますか?”
シェミハザは、気乗りしないことを隠そうともせず、念話を返した。
「お前の気持ちも分かりますが、過去をほじくり返している暇はないのですよ、人命に関わることです!
今すぐ、ミカエル様をお助けにお行きなさい!」
ガブリエルの声は、命令というより哀願に近かった。
“……分かりました。今回は、ガブリエル様のお顔をお立て致しましょう”
渋々、熾天使は返答した。
シェミハザの答えは、他の者達には聞こえなかったが、ガブリエルの言葉と表情から、会話の内容は容易に想像出来た。
ラファエルは声を低め、同僚に話し掛けた。
(おい、ウリエル。やはりシェミハザは、ミカエルを助けたくなさそうだな)
ウリエルは、心の声で答えた。
“しっ、御前だぞ、念話を使え。
当たり前だ、相手はあの悪名高き“紅龍”だぞ、熾天使程度では荷が勝ち過ぎる。百人束になったところで勝ち目はなかろうさ。
しかも、彼はミカエルのせいで、悲惨な目に遭っているのだし”
肩をすくめ、ラファエルも念話に切り替えた。
“そうだったな。よくぞ命を取り留めたものだ。
もし、彼があのまま死んでいたら、下位天使の暴動が起きた可能性もある。
今回の任務を受けたのも、少しの間だけでも、ヤツの顔を見なくて済むと思ったからだろう……まったく、今も昔もミカエルは、余計なことばかり仕出かしてくれるよ”
“……暴動? いくらシェミハザが、位に関係なく評判がよくても、そこまではいくまいさ”
“だが、特に下級天使の不満は、溜まりに溜まっているという報告もあるぞ”
“それでも、反乱は無理だろう、現状では。
まあ、ミカエルのやり方が、掛け値なしにひどいのはたしかだが。
わたしでさえ、時折、眼を覆いたくなる”
ウリエルは、顔をしかめた。
“まったくだ。
何はともあれ、今の状況でミカエル救助を拝命されるのは、わたしでもご免こうむりたいよ。
シェミハザも貧乏くじを引いてばかりだ。気の毒に……”
ラファエルは、心底同情するように首を横に振った。
“ああ。わたしだって、ミカエルのために紅き蛇を相手にするなど、真っ平だ。
……それに、天使長にもっと人望があったなら、天帝様がお止めになられても、今人界にいる天使達が、自発的に救出に向かっているさ”
ウリエルの言葉に、ラファエルは思わず大きくうなずいた。
“うむ、たしかにそれは言えるな”
一方、人界のシェミハザは、すぐに行動は起こさず、代わりに魔界王へ向けて心の声を放った。
“タナトス様、ぶしつけな質問をお許し下さい。
ミカエルを殺せば、サマエル様のお怒りが解ける……そのような可能性はございませんのでしょうか?”
タナトスは、すぐに返事を寄越した。
“たわけ、そんな単純なことなら苦労などせんわ。
サマエルの正気は、もはや、どんな手段を以てしても戻っては来んだろう。
愚天使が食い殺されるところを眼にできれば、俺を始めすべての魔族の
“左様でございましたか。ならば、お願いしたい儀がございます。
たった今、天界にいるガブリエルから、ミカエルの救助を行うよう、命令が下りました。
もし、万一、我らが生き延びられた場合、大天使の命令を無視したとあっては、わたしの天界での立場が非常に悪くなります。
そこで、気は進まぬながら、サマエル様のお手より、ミカエルを助け出したいのでございますが”
熾天使の要望を聞いた魔界の王は、肩をすくめた。
“ふん、生き延びられるとも思えんが……まあいいぞ、好きにしろ。
ミカエルを倒すことなど、赤子の手をひねるようなものだ。
生かしておいても大した害にはならんということが、つい先ほどの戦いでよく分かったからな”
“我がままをお聞き入れ頂き、ありがたく存じます”
熾天使は礼を述べ、ようやく大天使救出に向かう。
「気をたしかにお持ち下さい、ミカエル様、お助けに参りました!
──イグニス・ファティアス!」
幻の炎が生まれ、龍の頭の回りを巡る。
夢中で、ミカエルの翼に食らいついていた紅龍が、炎に気を取られた隙に、セラフィはその前足から、血に汚れた翼をたたき落とした。
「──くっ、汚らわしい蛇め!」
龍が翼を拾おうと身をかがめた隙に、ミカエルは死に物狂いで暴れ、どうにか自由の身になった。
だが、礼を言うどころか、大天使は逆に、助けた熾天使を大声でののしった。
「遅いではないか、セラフィ!
何をしておったのだ、隠れて震えてでもおったのか?
そなたのような臆病者を、何ゆえ、神々は熾天使などにしておくのか、我は理解に苦しむぞ!」
「……遅れまして、申し訳もございません」
シェミハザは顔をこわばらせたが、それを隠し、ていねいに謝った。
「我としたことが、このような者どもに何たる不覚、この借りは、いつか必ず返してやる!
覚えているがいい、神の名を
天界を包む結界を強化すれば、“カオスの力”など恐るるに足りぬわ!
戻るぞ、セラフィ!』
大天使は、捨て台詞を吐いて姿を消した。
ミカエルが逃げた途端、紅龍は、食いかけの翼に興味をなくした。
地面に放り出し、後は見向きもしなかった。
「ふん、我らは“悪魔”と呼ばれることに誇りを持っている。
“神”などと呼ばれるのは、こっちから願い下げだ!」
タナトスは、胸を張ってそう言い切った。
「天界の力をすべて合わせても、“カオスの力”に対抗できるわけもないと知っているくせに、虚勢など張って。
敗け犬の遠吠えですね、あれは。
──まったく、愚か者め!」
熾天使は、大天使が消えた辺りを見据え、鋭い口調で言い捨てた。
「そんなこと、大きな声で言って大丈夫?」
リオンが聞くと、セラフィは微笑んだ。
「ミカエルと同時に、結界を張っていた天使達も、全員撤退致しました。
もう、わたくしは自由に、思いを声に出すことができるようになったのですよ、朱の貴公子殿。
ちなみに、古代、朱色は魔界の王太子のみがつけることを許された色だったと聞き及びますが」
「王太子って……ああ、次に王様になる王子のこと?
けど、ぼくが魔界王になれるかどうかなんて、まだ分かんないよ。
あ、でも、そういえばぼく、今度は“神様”の子孫になっちゃったんだっけ。
世の中って、面白いもんだなぁ……ま、魔物とさげすまれようと、神と
ぼくは、ぼくさ! 他の何者でもない!」
「その通りね、リオン」
「うん」
彼は、ライラにうなずいてみせたが、ふと気づいたように言った。
「あれ? シェミハザ、お前は、あいつらについて行かなくていいのかい?」
「なぜ、そんなことをしなければならないのですか?
この世界は、終末を迎えます。
その運命を変えることは出来なくても、天界に還り、怯え、うろたえ騒ぐ天界人の中で、震えながら最後の時を待つよりも、ここに残り、この眼で直接世界の終わりを見届けた方が、よほど有意義だとはお思いになりませんか?」
天使は、にっこり笑った。
「いい覚悟だな、シェミハザ。たしかに貴様は本物らしい。
謀反が成功した暁には、“反逆の大公”という称号でもくれてやろうと思っていたが、それも無理な相談だな……今となっては」
タナトスが言うと、シェミハザは、うやうやしく片膝をついて王に対する礼をした。
「もったいなきお言葉。
出来れば、もっと早くに、お聞きしたかったものでございますが」
彼らが、まるで何事も起きていないかのようにのんびり会話をかわす間にも、激しい地鳴りと地震とは続き、サマエルの体は、ますます巨大化していった。
「サマエル様の、怒りと悲しみ、そして、絶望が伝わって来るわ……。
大地も空も、この世界すべてが、嘆き悲しんでいる……。
わたしたちには、もう、未来はないの? 世界はもう、終わってしまうと言うの?」
ライラは、リオンの腕の中で震えていた。
リオンは、彼女をぎゅっと抱きしめた。
「未来がないなんて、世界が終わりだなんて、そんなことは絶対ない、いや、ぼくがさせない……!
それに、ぼくは、キミだけでも助けたいんだ、だから、ぼくは行くよ!
さよなら、ライラ!」
「えっ? ──待って! リオン、どうするつもりなの!?」
引き留めようとする王女を振り切って、彼はサマエルに駆け寄っていく。
「何をするつもりだ、リオン!」
タナトスが叫んだ。
「ぼくの魔力は、サマエルと同じか、それ以上だと言われてるし、一か八か、彼を止められないかやってみます。ぼくのすべてを賭けて……!」
リオンは叫び返した。
「よせ、と言うのも余計なことか。やってみるのも悪くはあるまい」
「若いですね、彼は。それに、本当にサマエル殿を止められるかも知れませんし……」
「気をつけて、リオン!」
「サマエル、目を覚まして!
あなたが“カオスの力”を解き放てば、皆死んでしまうんでしょう?
やめて下さい!」
三人の視線を背に受けて、リオンは龍に呼びかけた。
しかし、もはやサマエルは、彼のことも分からないようだった。
龍は、気に食わぬヤツが来たというように彼を睨みつけ、巨大な尾を高々と持ち上げると、リオン目掛けて勢いよく振り下ろした。
リオンは、それをかろうじてよけ、叫んだ。
「駄目か、仕方がない、ぼくがどうなろうと構わない。
サマエル、ぼくはあなたを止めてみせます!!」
その声をかき消すように、再び雷鳴が