15.闇の胎動(1)
「消える、何もかもが消えていく……!
──やめろ、やめろ……!」
まとわりつく闇を振り払おうとするものの、身動きもできぬまま、ミカエルは、邪悪な闇に飲み込まれていく。
そうして、どれほどの時が経ったのか、気づくと大天使は、鼻をつままれても分からぬ、暗黒に塗りつぶされた世界にいた。
「こ、ここはどこだ!?
くっ、こう暗くては、何がどうなっておるやら見当もつかぬ!
──グリッティ!
……むむ?
──ルーメン! ──リヒト!
な、何ゆえ、呪文が発動せぬのだ!?」
灯りをともす呪文をいくつ唱えてみても、どれもまったく反応がない。
「くそ! ここでは、魔法が効かぬとでもいうのか!?
……むう、いかん、ともかくも落ち着かねば」
おのれが恐慌をきたしかけていることに気づいたミカエルは、どうにか気を静めて、周囲の様子を探ろうとした。
だが、いくら眼を
「そ、そうか、我は、汚らわしい夢魔の世界に取り込まれたのだな?
く、この程度で我が恐れ入るとでも思うのか、甘いぞ、悪魔めが!」
苦しいほどの沈黙に耐え兼ねてそう叫ぶ声さえも、四方の闇に吸い込まれ、耳が痛くなるほどの静けさが、彼の心を
その時、突然、闇が晴れた。
大天使は、星々がちりばめられた暗い空間に一人、浮かんでいた。
(な、何だ、ここは!?)
戸惑うミカエルの体は、すぐそばの紅い星に、猛烈な速度で吸い寄せられていく。
(ぶ、ぶつかる──!)
もがいても、どんどん地表は迫り、彼が衝突の覚悟を決めた瞬間、星が目の前で砕けた。
驚く間もなく、数限りない破片が宇宙空間へと飛散すると同時に、爆発のエネルギーを利用して、白い翼の人々が飛び立っていくのが見えた。
当初、別々だった軌跡が、やがて同じ方角を向き、遙か前方で
それに引かれるように、ミカエルの体も空間を移動していく。
(……むう、これは天界人か? いや、微妙に違うようだ……我らの先祖か?
なれど……何ゆえこの蛇は、かようなものを我に見せるのだ?
──うわっ……!)
首をひねっていた大天使の前に、いきなり、翼を持つ人間が飛び出して来て、彼は泡を食い、身をかわそうとした。
しかし、ぶつかるかと思った相手は、すいと彼の体を通り抜け、碧の星の大気圏へと突入していく。
無数の有翼人が同様に降下していき、地上では、人族とほとんど変わりないこの星の住人達が、降り注ぐ火弾群を不思議そうに見上げている。
(こやつらが、魔族の祖先か)
大天使がつぶやいたとき、地表に到達した有翼人達は、無防備な彼ら……“元”天界人達に、何の前触れもなく魔法攻撃を仕掛けた。
あちこちで上がる悲鳴、炎と黒煙と血しぶき。
黒焦げにされる者、氷漬けにされる者、頭を潰される者、真っ二つに引き裂かれる者、内部から爆発させられ、細かい肉片となって四方に飛び散る者さえもいた。
抵抗する者だけではなく、泣き叫ぶ子供やそれをかばう母親、老人にまでも容赦ない攻撃が加えられ、平和な星は、一瞬にして地獄絵図と化し、みるみる魔族達は数を減らしていった。
「嘘だ、まやかしだ! 我らの祖先が、こんなことをするはずがない!
この星の悪鬼どもは、
初め、ミカエルは激しく反発したものの、あまりに生々しい光景に、本当にあったことなのかも知れないと、思い始めていた。
その間にも、無差別な
そして、破壊神の
後に“カオスの貴公子”と呼ばれるようになるその存在は、眼に入る者すべてを、見境なく食い殺していくのだ。
それでも、どうにか血路が開かれると、魔族の女性がその前に立ちはだかり、涙ながらに
その隙に、生き残った魔族は脱出し、星系の最も外側にある惑星に逃げ込んで、地下で暮らし始めた。
惑星の過酷な環境は彼らを
そうやって、密かに生き延びていた彼らを有翼人達が見つけ出し、星ごと消そうと大規模な侵攻を再開したとき、二度目の召喚が行なわれたのだ。
怒りと血の
「いかん、この毒蛇を退治せねば、世界が壊れてしまうぞ!」
叫んだ刹那、いきなり、周囲の情景は消え失せ、再び、ミカエルは闇の静けさの中に戻っていた。
「……? どうなったのだ、あの……二匹目の紅き悪魔は……?」
悲惨な過去に心を奪われ、のめり込んでいた彼が当惑し、辺りを見回したときだった。
今まで不気味なほど静まり返っていた、四方を取り巻く闇が目覚め、ぞわぞわとうごめき始めたのは。
「う、うわっ!?」
そして、遙かな昔、虚しく殺されていった魔物達が、殺されたままの無惨な姿で彼の前に現れたのだ。
血まみれの者、首がない者、足や手がない者、男女の判別もつかぬほど焼け焦げ、くすぶり続ける者、バラバラに切り刻まれた者……大人も、老人も、子供の亡霊もいた。
それらは徐々に数を増しながら近づいて来て、彼を取り囲み、体にまとわりついた。
「ち、近寄るな! 我に触れるな、汚らわしい!」
実体がないはずなのに、ありありと触れられた感触がある。
寒気を覚えたミカエルは、彼らを振り払おうとしたが、まったく動くことが出来ない。
(悔しい、恨めしい、憎い、なぜ殺した……)
(私の子はまだ、三つだった……)
(夫を返して……!)
(俺の妻は、もうすぐ子供が生まれるはずだったのに……)
(お母さんをなぜ殺したの……)
(妻を……)
(姉を、弟を、兄を、妹を……)
(お父さんを……)
(返せ、返せ、返せ、返せ──!!)
(なぜ……我らの命を奪った……故郷を奪ったのはなぜなのだ……私達は何もしていないのに……!
死にたくなかったのに──!!)
「ち、違う! 我はやっていない、我がやったのではない……!
く、苦し、い……!」
後から後から、魔族の
天使は逃れようと苦闘したが、死霊達は、身動きできない彼を、徐々に、だが、確実に覆っていった。
「放せ、放さんか、この化け物どもめ!
く、苦しい……い、息ができぬ! だ、誰か、助け、てくれ……」
常日頃、自他ともに認める
このまま死者達の怨念に飲み込まれ、同化して、光も希望も存在しない暗闇に、永遠に閉じ込められてしまうのではないか……そんなおぞましい想像に怯えた彼の身体を、生まれて初めて感じる絶対的な恐怖が貫き、冷たい汗が全身を濡らしていく。
新鮮な空気を欲し、痛む頭であえぐ大天使は、ついに死を覚悟した。
(何という暗黒、何という恐怖……これが“カオスの力”、“混沌の龍”の力……。
ああ、もはやこれまでか……)
実体を持たないはずの悪霊達の重みに耐えかね、ミカエルはその場に倒れた。
それに勢いを得た死人達は、彼を押しつぶそうと、ますますのしかかって来る。
遠のく意識の中で大天使は、星さえも飲み込み、一瞬で無に帰すという偉大なる深淵が、すさまじい勢いで近づいて来るのを感じ、身震いした。
(あ、あれが“カオス”か?
くそっ、こんなところで、おぞましい悪霊どもと一体化するくらいなら、
いっそ、あの混沌の深淵へと身を投じ、再びこの世へ……光の中へ……!)
大天使、が頭の中で光をイメージした刹那、怨霊達がたじろいだ。
(光、そうだ、光だ! このまま恐怖を認めてしまえばそれで終わり、魔の思う壺だ!
光、聖なる光よ、我に力を……!)
ミカエルのイメージが強くなればなるほど、死人達は弱り、闇の中へと後退していく。
それに力を得て恐怖を克服したミカエルは、心を
「──グローリア・イン・エクセルシス・ディーオウ!」
瞬時に紅龍の呪縛は解け、大天使は、元の世界に戻っていた。
(ま、眩しい……! 光、光だ……や、やっと、息が、できる……!
世界とは……こんなに明るかったのか……主よ、感謝致します……)
ミカエルは、あまりの安堵にぐったりとなった。
深呼吸をしたいところだったが、龍につかまれている身ではそれも出来ず、彼は、浅く早い呼吸を何度も繰り返して、新鮮な空気を肺に送り込んだ。
一方、龍となったサマエルは、宿敵が正気づいたことなど、およそ気にも止めていない様子だった。
紅龍は、残された天使の翼を広げたり閉じたり、引っ張ったりねじったりと、珍しい玩具を見つけた子供のように、もてあそぶのに夢中でいたのだ。
「よ、よせっ、それ以上
あえぐ天使の瞳を、龍は、再び覗き込もうと顔を近づけて来る。
また呪縛されては大変と、慌てて逸らしたミカエルの眼に、一瞬、龍の瞳の奥で、暗い炎がゆらゆらと揺れるさまが映った。
彼には、それが、哀れな生け贄を心行くまでいたぶってから殺すのを楽しみにしている悪魔の、歪んだ笑いのように思えた。
(我は……決して触れてはならない禁忌に、触れてしまったのか……?)
ミカエルの胸に、初めて後悔の念が宿った。
そんな天使の心を知ってから知らずか、今度はこれを噛みちぎるのだと言いたげに、龍は、片方残った翼を広げて臭いをかぎ、長い舌でなめ回す。
「や、やめてくれ……もう、やめ……!」
ミカエルの背筋を再び悪寒が走り、思わず大天使の立場も忘れて哀願したが、サマエルは容赦しなかった。
龍は大きく口を開け、またも天使の純白の翼に噛みついた。
「──ぎゃあああっ──!! だ、誰か助けてくれ!
そ、そうだ、どこにおるのだ、セラフィ!
た、
大天使は、痛みよりもむしろ、恐怖に駆られて悲鳴に近い声を上げ、ついに熾天使に助けを求めた。
「──あっはっは! 見たか、聞いたか、天界の者ども!
あの高慢なミカエルが、情けなくも悲鳴など上げているぞ!
貴様らの軍団長の、無様な最期を見るがいい!」
魔界の王が、顔をのけぞらせて高笑いする様子は、天界へと中継されて、支配者である天帝ゼデキア、それに仕える四大天使達を歯噛みさせた。
「くっくく、天使の長ともあろう者が、醜態をさらした上、貴様らが悪の化身とする龍に食われ、
たとえたった今、世界が
タナトスは、心底胸がすく思いでいた。