14.紅き夢の龍(4)
「うわっ……!」
「きゃあ……!」
吹き飛ぶ砂、耳をつんざく爆発音、立っていられないほどのすさまじい振動が、彼らを襲う。
それが収まり、恐る恐るリオン達が顔を上げてみると、そこは、すでに砂漠ではなかった。
砂だけではなく、下にあった固い岩盤もまた深くえぐられて、巨大な爆弾が落ちたかのように、広大な
「あれっ、砂漠が……消えちゃった!?」
「何てこと……」
「す、すごい威力ですね……」
リオンやライラ、シェミハザの顔からは、血の気が引いていた。
惨状を眼にしたタナトスは、どことなく誇らしげだった。
「我が弟ながら、すさまじいの一言に尽きるな。
しかも、幼少の頃などとは比べものにならんほど、力はさらに強力になっている。
たった指一本分の力だけで、この砂漠を全部吹き飛ばすとは、さすがだ」
そのとき、周囲を見回していたライラが、突如声を上げた。
「大変よ、リオン! あなたのお家も消えてしまったわ! あ、アンドラスも……」
ベルフェゴールから解放されたファイディー国王の遺体は、リオンの家に安置されていたのだ。
「……ほんとだ。
家はしょうがないけど、彼を、お墓に入れてあげられなくなっちゃったね……」
ここからようやく見えるくらい遠く、砂漠の真ん中に、ぽつんと一軒だけ立っていた彼の家は、今はもう、影も形もなかった。
それでも、彼自身は、さほど衝撃を受けてはいなかった。
(……何という力だ……ゆ、指、一本で……!?)
さすが天界の実力者、ミカエルは、とっさに結界を張り、どうにか痛手を最小限に抑えていたが、額から滴る汗の多さは暑さのためばかりではなかった。
「ミカエル、降参しろ! 今、貴様を八つ裂きにすれば、サマエルも気が済んで、正気に戻るかも知れん、大人しく、紅龍に食われてしまえ!」
顔面蒼白のまま、呆然としていた天使長は、魔界の王にヤジを飛ばされて我に返った。
「な、何を馬鹿なことを! 何ゆえ、我が、魔物に食われねばならぬのだ!」
タナトスは、大天使を怒鳴りつけた。
「紅龍の封印をサマエルが解いたのは、貴様のせいだろうが!
貴様がしゃしゃり出て来なければ、俺達で何とか、ヤツの機嫌を取ることが出来たというのに、何もかもぶち壊しおって、この大たわけめが!」
「……ひ、人聞きの悪いことを申すな、掟を先に破ったのは、その方らなのだぞ……。
それを、こちらのせいにするとは、
言い返すミカエルの声に、先ほどまでの力強さはない。
「ふん、おのれの
大体、貴様らは平素、人間を救うために存在しているなどと常日頃ほざいておるではないか、まして、今は、人界のみならず世界が滅ぶかも知れん瀬戸際、貴様一匹の
魔界の王は、荒々しく言い放った。
「くっ、何を……訳の分からぬことを……。
むむっ、サマエルはどこだ? あの紅い魔物は! まさか、逃げたか……!?」
大天使は、
タナトスとの話に気を取られているうち、あれほどの
そのとき。
どこからともなく現れた紅い怪物が、大天使の体を前足で捕えた。
「──うわっ!? は、放せ、この化け物! その不浄の体で我に触れるな!」
「よし、いいぞ! サマエル! 骨を粉々に砕き、ついでに頭を引きちぎって食ってしまえ!
貴様なら、消化不良を起こすこともあるまい!」
世界の存亡の危機だというのに、タナトスは、実に楽しそうだった。
その言葉を理解しているのかどうか、もがく大天使を逃がすまいと、紅い龍はさらに握る力を強めていく。
ミカエルのいかつい顔が、苦痛に歪んだ。
「くっ、苦しい、放せっ……!」
「ちょっと可哀想……かな?」
リオンが言い、ライラも遠慮がちに続けた。
「そうね。あの……仲違いしてはいても、一応上司なのでしょう?
お助けしなくてよろしいのですか、天使さん?」
すると、熾天使は肩をすくめ、ミカエルに聞こえないように小声で返事をした。
「わたくしはもう、堕天使なのでございますよ、お二方。
それに、たとえ裏切っていないと致しましても、ここで見ていろと命令されましたからには、ミカエルが死ぬ一歩手前くらいまで、ここで笑って見ていてやることが出来るのでございますよ。
あやつは、わたくしに助けられるくらいなら、死んだ方がましだと思っていますから。
死にそうになったら、仕方がないので、助けに行かねばならないのでしょうけれど」
「え……そんなにミカエル嫌いなの? いくら仲悪いって言っても、それって冷た過ぎない?」
リオンが尋ね、天使は肩をすくめた。
「冷たいのは、あやつの方でございますよ。
以前、ミカエルが危機に陥ったとき、待機命令を守らずに助けてやったのですが、礼を言うどころか、逆にわたくしを裁判にかけたのです……不服従の罪で。
危うく死罪になるところでございましたが、ガブリエルや他の大天使が取り成してくれたので、どうにか無罪放免されました。
ですが、いくら禁じられても、味方が危なくなったなら、助けるのが当然だとお思になりませんか?」
「まあ、不服従の罪で訴えたですって?
助けられたというのに、どうしてあなたを死罪にしようとしたのですか?」
「ホント、恩知らずなヤツだねぇ、ひど過ぎるよ!」
二人が
「そう思って下さいますか、ライラ様、リオン様。
どうやら、あやつは以前、わたくしが他の大天使の下で、手柄を立てていたのが気に食わなかったらしいのですが。
それでも、ミカエルにもちゃんと仕えて来たのですよ、なのに……。
あのような者が、天使長などと名乗っていることに、わたくしは激しい
その上あやつは、どの部下に対しても、ひどい扱いをすることで有名なのです……」
「ふうん、でもミカエルって、偉い天使なんだよね? なのに、そんなひどいの?」
「はい。
それで、わたくしは、あやつに……そして、ヤツを制することができない天界に、愛想を尽かしたのですよ」
「でも、本当にそれだけの理由で、“敵”に寝返ることを決心なさったのですか?」
王女の問いかけに、シェミハザの表情が曇った。
「……無論、他にもございます。
あなた様のような高貴な女性にはお話できない、あるいは、到底ご理解頂けないであろうことも、多々ございました……」
「そうでしたの」
「大変だったみたいだね、シェミハザ。
でも、タナトスも相当性格悪くいって、ダイアデムが言ってたよ?」
からかうように、リオンが言う。
天使は、にっこりした。
「いえ、先ほどのご様子を見ていると、ミカエルなどより、遥かにいいお方でございますよ」
「そうですわね。あの方は、性格が悪いと言うより、無邪気でいらっしゃるのだと思いますけれど」
ライラが言うと、リオンは首をかしげた。
「そ~かなぁ、ぼくから見れば、無邪気って言うより、子供っぽいって感じ。
それとも、口よりも先に手が出るタイプ……かな?
だけど、ちゃんとダイアデムのことも考えてあげてたみたいだし、たしかに、ミカエルなんかより、ずっとましだよね」
「それに、下位の天使の間でのミカエルの評判は、敵である魔界王様より下かも知れません。
そのため、不満のある天使達を、仲間に引き入れることも可能かも知れないのです」
「それ、いいかも!
あ……でも、そんなのんきな話をしてる場合じゃないんだっけ」
彼らが、密かに会話をしている間にも、龍はますます締め付ける力を強め、ミカエルの顔は、充血して真っ赤になっていった。
時折聞こえる嫌な音は、アバラ骨が折れる音のようだったが、さすがは天使の長、決して弱音を吐こうとはしなかった。
「──痛っ……! う、う……く、くそ……我は、断じて我は負けぬ……!
うう、っ……」
(ふむ、それにしてもよく耐える。根性だけは認めてやるが、そろそろ限界というところか。
気が進まないが、助けに行かねばならない頃合だろう……)
そうシェミハザが思ったとき、ただ苦しめるだけでは飽き足らなくなったのか、紅い龍と化したサマエルは、禍々しい口をくわっと開け、大天使の翼の片方に噛みついた。
「うわあっ! や、やめろ! 放せっ! つ、翼──翼がちぎれる──!」
巨大なあごから逃れようと、死に物狂いで暴れる天使長をもろともせず、龍はますます力を込めてゆく。
「お止め下さい、サマエル様!」
「見ちゃダメだ、ライラ!」
思わずリオンはライラを抱き寄せ、その瞬間を見せまいとした。
「──ぐわあああ──っ!!」
絶叫と共に、ミカエルの翼は、ついに噛みちぎられてしまった。
大天使の口から血しぶきが飛び、白い羽毛が辺りに舞う。
奪われた天使の純白の翼には、ぱっと血が散り、鮮やかな紅い花がいくつも咲いたように見えた。
「うう──あ、悪魔め! よくも──わ、我が翼を……!」
必死に痛みをこらえる大天使を尻目に、龍は、血の滴る翼をさも美味そうに
そして、あっという間に食事を終えたサマエルは、またもミカエルに顔を近づけ、次に食いつく場所を探すように臭いを嗅ぎながら、二股に分かれた舌を小刻みに動かし始めた。
そのたび、魔界の
「……痛っ……!」
身悶える大天使の白い頬を、紅い魔物は毒々しい紫の舌でなめ、反射的に顔を背けるミカエルの首筋、肩と、それは移動していく。
「は、放せというに!」
天使の長は気味悪さに身震いし、懸命にもがくが、おのれを捕縛している力はすさまじく、また出血によって体力が奪われたことも相まって、どうしても敵を振りほどけない。
やがて、龍は、ミカエルの傷口から流れ出る血を直接、長い舌でなめ取り始め、大天使は、傷に触れられる激痛にあえいだ。
「──くっ──! やめ、ろ! う、痛、う、うう……っ!」
殺す前に獲物をもてあそぶ猫にも似た、紅龍の
(ふふん、さすがは根暗なサマエルだ、一口で食い殺してしまったりせず、しっかりと楽しむつもりなのだな。
たわけた天使め、今頃になって、俺に殺されていた方がまだましだったと悟って、震えながら後悔していることだろう。
だが、もう遅い。
紅龍の逆鱗に触れた愚かさを、身を持って知るがいいのだ……!
サマエルの怒りは、遥かなる太古、なぶり殺しにされた何億もの魔界人達の、やり場のない
怒りに満ちた紅龍が与える恐怖は、並大抵のものではない。
それは静かな……だが、魂の底までも冷え切ってしまう純粋な恐さ。
カオスの深淵に飲み込まれゆく者だけが感じる、“究極の”恐怖なのだからな……)
「や、やめろ、ひと思いに殺れ……!」
大天使が弱々しく抗議した刹那、龍は禍々しい眼で彼の眼を覗き込んだ。
忍び寄る、深い闇の気配。
紅い龍に漆黒の瞳で凝視され、金縛り状態になったミカエルの心に、闇が静かに降り積もり、覆い尽くしてゆく。