~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

14.紅き夢の龍(3)

どれぐらいそれが続いたのだろうか、やがて(とどろ)く雷鳴が終息し、雲が切れ再び陽が差し込んで来たとき、そこにいたのは、サマエルとは似ても似つかない怪物だった。

巨大な体は、ぬめぬめと光る紅いウロコで覆われ、かっと開けた口には、ずらりと鋭い牙が並び、真珠色に輝いていた角は、(つや)のない漆黒となって、爪も同様に黒くなり尖っていた。
たてがみだけは、以前のまま銀色をしていたものの、かつては優しい光を宿していた緋色の両眼は暗黒に飲み込まれ、洞窟に広がる暗がりも同然に(うつ)ろになってしまっていた。

サマエルは、巨大な一頭の龍と化していたのだ。
魔界王タナトスは、血も凍る思いで、初めて眼にする弟の真実の姿に見入っていた。
「話には聞いていたが……何と禍々しい、周囲の空間が(ゆが)むほど強力な暗黒の妖気……。
これが、“紅龍”、サマエルの第三形態か……」

かくして、“悪夢の龍”とも称される“紅龍”は覚醒し、その姿を眼にした者は必ず命を落とすと言われる禍々しい姿を、人々の前に具現化させたのだった。

「──────!! 」
紅い怪物は、声なき叫びを上げた。
普通の者には聞こえない、低い周波数の叫びは、それでも鼓膜を振動させ、人々に耳鳴りを起こさせた。

「くそ! こうなってしまっては、手の施しようがない!
まったく、大たわけのくそ天使め!
神の使者などとほざきおって、おのが破滅を招き寄せるとは!
紅龍が呼び出されたのは今までに二度、出現するごとに、その力は強大さを増し、ついに三度目……これで世界は終わる……」
魔界の君主は、大きなため息をつき、天を仰いだ。

「サマエル……一体どうして……何で龍なんかに……!?」
敬愛する先祖の想像を超えた姿に、リオンは驚愕し、立ち尽くしていた。
「リオン、何をそんなに驚く。
こいつが、何ゆえ“カオスの貴公子”と呼ばれているかぐらい、貴様も知っているのだろう」
タナトスに声をかけられ、リオンは我に返った。
「えっ、知らないよ、そんなの。
ねぇ、どうして、サマエルは龍になっちゃったの?
魔界だと、違う姿をしてるんだろうな、っては思ってたんだけど……」

今の緊迫した状況にまったくそぐわない、無邪気とも言える相手の台詞に、タナトスは舌打ちした。
「ちっ! そんなことも教えていなかったのか、あやつらは!」
少年は口を尖らせた。
「だって、時間がなかったんだよ。
魔界のことも色々知りたかったけど、魔物をやっつけるための魔法を覚えるのが先、って言われてて」

「ふん……」
魔界の王は、またも眉をしかめた。
それでも、弟は、まずは目の前の問題を片付けてから、その後、ゆっくりと詳しい話を聞かせようと思っていたのだろう、ということは推測がついた。
「……分かった、代わりに教えてやる。
兄の俺が魔界王となったが、真に恐ろしいのは、実はサマエルの方なのだぞ。
そう認めるのは、まったく忌々しい限りなのだがな!
シンハが、ヤツを封じてしまおうとしたのも、あながち、的外れではなかったかも知れん」

「それは違うよ! 彼は……」
「黙って聞け」
ムキになる少年を、タナトスは苛々とさえぎる。
「“死”を意味する名を持つ俺だが、命と引き換えにしても、せいぜい一つの世界を破壊し尽くすくらいが関の山だ。
他の世界にまで被害を及ぼすことなど、出来るわけもない。
しかしだ、サマエルのヤツは違う、
“カオスの力”を解放しさえすれば、この人界だけでなく、魔界や天界をも無に帰し、原初の混沌状態に戻すことが出来る。
それゆえ、神族どもはヤツを目の敵にし、封じようと様々画策してきおったのだ」

「三つの世界を、全部破壊? ほ、本当にそんなことが出来るの?」
リオンは眼を丸くした。
「ああ。女神やジルの件など、こじつけに過ぎんと言ってもいい。
恋愛沙汰など、結局は当人同士の問題だからな。
だが、サマエルは、どんな場合も冷静だった。どんな悲しみや苦しみ、孤独にも耐えて来た。
気に食わんヤツだが、それだけは賞賛に値すると言えるな。
それでも、やはり限界はあったわけだ。……無理もないが。
俺だったら、とっくにぶちキレていた。天界のやり方と来ては、陰険そのものだからな!」

「そうだったんだ……」
初めて聞く話に驚いたものの、リオンは気を落ち着かせ、尋ねた。
「それはともかく、サマエルを元に戻すには、どうすればいいの?」
魔界王は険しい顔になり、首を横に振った。
「……もはや不可能だ。
“カオスの力”は、解放されてしまえばそれまで。制御は出来んのだ。
前回は、力の憑代(よりしろ)であった者を殺すことで破滅を免れたのだが、今回……サマエルの場合、元々、変化する前の力自体が俺と同等、倒せる者など誰もおらん」

そう言うと、タナトスは、つい先ほどまで、弟だったものを指差した。
「見ろ、あれはもはやサマエルではない。“混沌(カオス)”そのものとなったのだ。
こうなれば、我々はただ、ヤツが世界を消滅させるのを、黙って見ていることしか出来ん。
そして、この力から逃れられる者もおらん。ヤツ自身でさえもだ……」
「そんな……!」
リオンは、巨大化していくサマエルの禍々しい姿を、呆然と見つめていた。

「ついに、やっておしまいになりましたね、ミカエル様!
わたくしは、これを恐れておりましたのですよ!」
セラフィは、とがめるように叫んだ。
彼は、高慢な大天使に、ほとほと愛想をつかしていた。

それでも、ミカエルは、露ほども自分の過ちに気がつかない。
(おく)したか、セラフィ!
かような化け物ごとき、我が一瞬で消滅させてくれるわ、そこを動くな、臆病者めが!」
大天使は鼻息も荒く部下に命じ、敵対する邪悪な悪魔を倒すべく、純白の翼で舞い上がった。

「──地獄より現れ出でし、醜き蛇よ! ()く、その()()に還るがよい!
父と子と聖霊の御名(みな)において、大天使ミカエルが命ずる!
──退け、悪霊──!」

すると、暗黒の空が割れて、一筋の神々しい光が、サマエルに降り注いだ。
だが、それは何の効果も及ぼさず、紅い龍は、闇に覆われた禍々しい眼で天使を()めつけた。
「き、効かぬだと、よもや左様なことが!?
悪魔に、聖なる光と、主の()言葉が効かぬわけが……」
天使の長は自分の眼を疑った。

「ふん、愚か者は貴様だ、ミカエル。
我らが、悪霊でもなければ、ある意味、悪魔でもないことも忘れたとみえる。
天界の、神と称する者どもと俺達には差などない。ただ、勝者と敗者の違いだけだ。
破れた我らを、貴様らが勝手に、“悪魔”呼ばわりしているに過ぎんのだからな!
今の魔族、ましてや俺達には、聖魔法などろくに効かんわ、たわけ!」
タナトスは、馬鹿にしたように言ってのける。
「ちぃっ!」
ミカエルは天使らしくもなく、忌々しげに舌打ちした。

リオンは首をかしげた。
「えっ? 神と悪魔って、同じものだったの?
さっきも、サマエルが侵略者とか、封じ込められたとかって言ってたけど、どういうこと?」
「ああ、貴様は知らなかったのだな。
今でこそ、魔界に住み、禍々しい者として扱われているが、俺達は元々、悪魔でも何でもないのだ」
魔族の王は答えた。

熾天使が、さらに説明を続ける。
「遙かなる太古、先に天界に住んでいたのは、あなた方のご先祖である古き神々でした。
後に、我らの主である新しき神々が降臨された際、二つの種族間に、大規模な戦が起こったと聞き及びます。
結果、あなた方は敗けて、天界を追放されてしまわれたというわけです。
ちなみに、前魔界王ベルゼブル殿の古の名は、バアル・ゼブル。その意味は“神殿の王”。
ですから、リオン殿、あなたもまた、古の神々の血を受け継ぐお一人なのですよ」

途端に、大天使が部下を叱りつけた。
「ぺらぺらと余計なことを申すな、何ゆえそうおしゃべりなのだ、セラフィ!
敗け犬となり、我らの軍門に下った(やから)に神などと言う名はいらぬ!
神々が聞かれたら、何と思われるであろうな!」

「ふん、“大規模な戦”か。物は言いようだな、くそ天使め!
事実は、侵略──それも、胸くその悪くなる大量虐殺だったではないか!
宣戦布告も何もなく、突如、平和に暮らしていた我らの先祖に襲いかかり、女子供までも容赦なく手に掛け、背走したところを魔界に封じ込めたあげく、悪鬼扱い!
それを、“戦”だ、などと口清く言い替えるのだからな、サマエルがぶちキレるわけも、分かろうというものだ!
だが、もう、こうなったら、魔界もヘチマない!
世界が消滅するより先に、貴様の取り澄ました顔を切り刻み、くそ生意気な口を利けなくしてやる、覚悟しろ、ミカエル!」

「望むところだ!」
タナトスは、恨み重なる不倶戴天(ふぐたいてん)の敵、ミカエルと決着をつけようとした。
だが、彼らが激突するより早く、紅い龍が大天使に襲いかかった。

「遅いわ! 左様な動きで我を倒せると思うてか、汚れた蛇めが!」
大天使は、ひらりと身をかわす。
鋭い爪は虚しく空を切り、龍は、今度こそとばかり、長い尾を天使めがけて振り下ろしたが、ミカエルは、それも簡単に跳ねのけた。

「ふん、恐怖の伝説として語り伝えられて来た“カオスの力”も、所詮はこの程度か!
我らは、ありもせぬ幻影に踊らされて来たのだな。
聖なる言葉が効かずとも、倒すことなど造作ないものを、今の今まで、童子が闇に怯えるがごとく、ただ恐れおののいておったとは、まったく愚かなことよ!」
すると、その言葉に反応したかのように、龍は口から青白い火球を吐いた。

「ふん、こんなひょろひょろ玉など!」
みずからの力を誇示するように、天使長はそれを手で弾き飛ばした。
構わず龍は火の玉を吐き続け、それは徐々に大きく、早くなってゆく。
「くっ! な、何のこれしき!
──プラヴィデンス!」
初めこそ、素手で弾いていた大天使も、次第に激しさを増す火の玉の勢いに、ついに結界を張った。

いけ好かない宿敵を思い切り痛めつけてやりたい、と切望していた魔界王は、状況も忘れ、弟に声援を送る。
「よし、行け! サマエル、こいつは貴様に譲ってやる、やってしまえ!
積年の恨みを、今こそ晴らすのだ!」

その言葉が聞こえているのかどうか、紅い龍の攻撃は、ますます激しさを増していく。

「ふん、多少は出来るようだが、所詮は愚劣な魔物、大天使たる我の敵ではないわ!
──パタナスター!」
無論、ミカエルも負けてはいない。
紅龍の青白い魔力と、天使長の真っ白な魔力がぶつかり合って激しく火花を散らし、眼を開けていられないほど(まばゆ)い光が、周囲にあふれる。

初め、二つの力は均衡しているように見えたが、闘いが長引くに連れて、龍の方が大天使を(しの)いでいることが明確になって来た。
青白い光が輝きを増し、純白の輝きの勢いは衰え、徐々に小さくなっていく。

そして、ついに、サマエルの力が大天使の力を押し退け、直撃した。
「──うわああああっ!」
激しい衝撃と共に、ミカエルは砂の上にたたきつけられた。
ここぞとばかり、龍は倒れた大天使に指を突きつけ、その先が青白く輝き始める。

「むっ、まずい! 結界を張れ、リオン!」
タナトスが叫び、リオンがライラを守って結界を張った時だった。
龍の指から出た青白い光の玉が、辺り一面を覆うほど膨れ上がったかと思うと、すさまじい衝撃波が、砂漠全体を揺るがした。