14.紅き夢の龍(3)
どれぐらいそれが続いたのだろうか、やがて
巨大な体は、ぬめぬめと光る紅いウロコで覆われ、かっと開けた口には、ずらりと鋭い牙が並び、真珠色に輝いていた角は、
たてがみだけは、以前のまま銀色をしていたものの、かつては優しい光を宿していた緋色の両眼は暗黒に飲み込まれ、洞窟に広がる暗がりも同然に
サマエルは、巨大な一頭の龍と化していたのだ。
魔界王タナトスは、血も凍る思いで、初めて眼にする弟の真実の姿に見入っていた。
「話には聞いていたが……何と禍々しい、周囲の空間が
これが、“紅龍”、サマエルの第三形態か……」
かくして、“悪夢の龍”とも称される“紅龍”は覚醒し、その姿を眼にした者は必ず命を落とすと言われる禍々しい姿を、人々の前に具現化させたのだった。
「──────!! 」
紅い怪物は、声なき叫びを上げた。
普通の者には聞こえない、低い周波数の叫びは、それでも鼓膜を振動させ、人々に耳鳴りを起こさせた。
「くそ! こうなってしまっては、手の施しようがない!
まったく、大たわけのくそ天使め!
神の使者などとほざきおって、おのが破滅を招き寄せるとは!
紅龍が呼び出されたのは今までに二度、出現するごとに、その力は強大さを増し、ついに三度目……これで世界は終わる……」
魔界の君主は、大きなため息をつき、天を仰いだ。
「サマエル……一体どうして……何で龍なんかに……!?」
敬愛する先祖の想像を超えた姿に、リオンは驚愕し、立ち尽くしていた。
「リオン、何をそんなに驚く。
こいつが、何ゆえ“カオスの貴公子”と呼ばれているかぐらい、貴様も知っているのだろう」
タナトスに声をかけられ、リオンは我に返った。
「えっ、知らないよ、そんなの。
ねぇ、どうして、サマエルは龍になっちゃったの?
魔界だと、違う姿をしてるんだろうな、っては思ってたんだけど……」
今の緊迫した状況にまったくそぐわない、無邪気とも言える相手の台詞に、タナトスは舌打ちした。
「ちっ! そんなことも教えていなかったのか、あやつらは!」
少年は口を尖らせた。
「だって、時間がなかったんだよ。
魔界のことも色々知りたかったけど、魔物をやっつけるための魔法を覚えるのが先、って言われてて」
「ふん……」
魔界の王は、またも眉をしかめた。
それでも、弟は、まずは目の前の問題を片付けてから、その後、ゆっくりと詳しい話を聞かせようと思っていたのだろう、ということは推測がついた。
「……分かった、代わりに教えてやる。
兄の俺が魔界王となったが、真に恐ろしいのは、実はサマエルの方なのだぞ。
そう認めるのは、まったく忌々しい限りなのだがな!
シンハが、ヤツを封じてしまおうとしたのも、あながち、的外れではなかったかも知れん」
「それは違うよ! 彼は……」
「黙って聞け」
ムキになる少年を、タナトスは苛々とさえぎる。
「“死”を意味する名を持つ俺だが、命と引き換えにしても、せいぜい一つの世界を破壊し尽くすくらいが関の山だ。
他の世界にまで被害を及ぼすことなど、出来るわけもない。
しかしだ、サマエルのヤツは違う、
“カオスの力”を解放しさえすれば、この人界だけでなく、魔界や天界をも無に帰し、原初の混沌状態に戻すことが出来る。
それゆえ、神族どもはヤツを目の敵にし、封じようと様々画策してきおったのだ」
「三つの世界を、全部破壊? ほ、本当にそんなことが出来るの?」
リオンは眼を丸くした。
「ああ。女神やジルの件など、こじつけに過ぎんと言ってもいい。
恋愛沙汰など、結局は当人同士の問題だからな。
だが、サマエルは、どんな場合も冷静だった。どんな悲しみや苦しみ、孤独にも耐えて来た。
気に食わんヤツだが、それだけは賞賛に値すると言えるな。
それでも、やはり限界はあったわけだ。……無理もないが。
俺だったら、とっくにぶちキレていた。天界のやり方と来ては、陰険そのものだからな!」
「そうだったんだ……」
初めて聞く話に驚いたものの、リオンは気を落ち着かせ、尋ねた。
「それはともかく、サマエルを元に戻すには、どうすればいいの?」
魔界王は険しい顔になり、首を横に振った。
「……もはや不可能だ。
“カオスの力”は、解放されてしまえばそれまで。制御は出来んのだ。
前回は、力の
そう言うと、タナトスは、つい先ほどまで、弟だったものを指差した。
「見ろ、あれはもはやサマエルではない。“
こうなれば、我々はただ、ヤツが世界を消滅させるのを、黙って見ていることしか出来ん。
そして、この力から逃れられる者もおらん。ヤツ自身でさえもだ……」
「そんな……!」
リオンは、巨大化していくサマエルの禍々しい姿を、呆然と見つめていた。
「ついに、やっておしまいになりましたね、ミカエル様!
わたくしは、これを恐れておりましたのですよ!」
セラフィは、とがめるように叫んだ。
彼は、高慢な大天使に、ほとほと愛想をつかしていた。
それでも、ミカエルは、露ほども自分の過ちに気がつかない。
「
かような化け物ごとき、我が一瞬で消滅させてくれるわ、そこを動くな、臆病者めが!」
大天使は鼻息も荒く部下に命じ、敵対する邪悪な悪魔を倒すべく、純白の翼で舞い上がった。
「──地獄より現れ出でし、醜き蛇よ!
父と子と聖霊の
──退け、悪霊──!」
すると、暗黒の空が割れて、一筋の神々しい光が、サマエルに降り注いだ。
だが、それは何の効果も及ぼさず、紅い龍は、闇に覆われた禍々しい眼で天使を
「き、効かぬだと、よもや左様なことが!?
悪魔に、聖なる光と、主の
天使の長は自分の眼を疑った。
「ふん、愚か者は貴様だ、ミカエル。
我らが、悪霊でもなければ、ある意味、悪魔でもないことも忘れたとみえる。
天界の、神と称する者どもと俺達には差などない。ただ、勝者と敗者の違いだけだ。
破れた我らを、貴様らが勝手に、“悪魔”呼ばわりしているに過ぎんのだからな!
今の魔族、ましてや俺達には、聖魔法などろくに効かんわ、たわけ!」
タナトスは、馬鹿にしたように言ってのける。
「ちぃっ!」
ミカエルは天使らしくもなく、忌々しげに舌打ちした。
リオンは首をかしげた。
「えっ? 神と悪魔って、同じものだったの?
さっきも、サマエルが侵略者とか、封じ込められたとかって言ってたけど、どういうこと?」
「ああ、貴様は知らなかったのだな。
今でこそ、魔界に住み、禍々しい者として扱われているが、俺達は元々、悪魔でも何でもないのだ」
魔族の王は答えた。
熾天使が、さらに説明を続ける。
「遙かなる太古、先に天界に住んでいたのは、あなた方のご先祖である古き神々でした。
後に、我らの主である新しき神々が降臨された際、二つの種族間に、大規模な戦が起こったと聞き及びます。
結果、あなた方は敗けて、天界を追放されてしまわれたというわけです。
ちなみに、前魔界王ベルゼブル殿の古の名は、バアル・ゼブル。その意味は“神殿の王”。
ですから、リオン殿、あなたもまた、古の神々の血を受け継ぐお一人なのですよ」
途端に、大天使が部下を叱りつけた。
「ぺらぺらと余計なことを申すな、何ゆえそうおしゃべりなのだ、セラフィ!
敗け犬となり、我らの軍門に下った
神々が聞かれたら、何と思われるであろうな!」
「ふん、“大規模な戦”か。物は言いようだな、くそ天使め!
事実は、侵略──それも、胸くその悪くなる大量虐殺だったではないか!
宣戦布告も何もなく、突如、平和に暮らしていた我らの先祖に襲いかかり、女子供までも容赦なく手に掛け、背走したところを魔界に封じ込めたあげく、悪鬼扱い!
それを、“戦”だ、などと口清く言い替えるのだからな、サマエルがぶちキレるわけも、分かろうというものだ!
だが、もう、こうなったら、魔界もヘチマない!
世界が消滅するより先に、貴様の取り澄ました顔を切り刻み、くそ生意気な口を利けなくしてやる、覚悟しろ、ミカエル!」
「望むところだ!」
タナトスは、恨み重なる
だが、彼らが激突するより早く、紅い龍が大天使に襲いかかった。
「遅いわ! 左様な動きで我を倒せると思うてか、汚れた蛇めが!」
大天使は、ひらりと身をかわす。
鋭い爪は虚しく空を切り、龍は、今度こそとばかり、長い尾を天使めがけて振り下ろしたが、ミカエルは、それも簡単に跳ねのけた。
「ふん、恐怖の伝説として語り伝えられて来た“カオスの力”も、所詮はこの程度か!
我らは、ありもせぬ幻影に踊らされて来たのだな。
聖なる言葉が効かずとも、倒すことなど造作ないものを、今の今まで、童子が闇に怯えるがごとく、ただ恐れおののいておったとは、まったく愚かなことよ!」
すると、その言葉に反応したかのように、龍は口から青白い火球を吐いた。
「ふん、こんなひょろひょろ玉など!」
みずからの力を誇示するように、天使長はそれを手で弾き飛ばした。
構わず龍は火の玉を吐き続け、それは徐々に大きく、早くなってゆく。
「くっ! な、何のこれしき!
──プラヴィデンス!」
初めこそ、素手で弾いていた大天使も、次第に激しさを増す火の玉の勢いに、ついに結界を張った。
いけ好かない宿敵を思い切り痛めつけてやりたい、と切望していた魔界王は、状況も忘れ、弟に声援を送る。
「よし、行け! サマエル、こいつは貴様に譲ってやる、やってしまえ!
積年の恨みを、今こそ晴らすのだ!」
その言葉が聞こえているのかどうか、紅い龍の攻撃は、ますます激しさを増していく。
「ふん、多少は出来るようだが、所詮は愚劣な魔物、大天使たる我の敵ではないわ!
──パタナスター!」
無論、ミカエルも負けてはいない。
紅龍の青白い魔力と、天使長の真っ白な魔力がぶつかり合って激しく火花を散らし、眼を開けていられないほど
初め、二つの力は均衡しているように見えたが、闘いが長引くに連れて、龍の方が大天使を
青白い光が輝きを増し、純白の輝きの勢いは衰え、徐々に小さくなっていく。
そして、ついに、サマエルの力が大天使の力を押し退け、直撃した。
「──うわああああっ!」
激しい衝撃と共に、ミカエルは砂の上にたたきつけられた。
ここぞとばかり、龍は倒れた大天使に指を突きつけ、その先が青白く輝き始める。
「むっ、まずい! 結界を張れ、リオン!」
タナトスが叫び、リオンがライラを守って結界を張った時だった。
龍の指から出た青白い光の玉が、辺り一面を覆うほど膨れ上がったかと思うと、すさまじい衝撃波が、砂漠全体を揺るがした。