~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

14.紅き夢の龍(2)

「──よせ、サマエル! たわけた真似はやめろっ!
敵味方の区別など、“紅龍”には出来んのだぞ!
こんな愚天使のことなど放っておけ、理性をなくすな、正気を保てっ!」
魔界の王は、弟の意識を正常範囲に留めようと試みる。
だが、そんなタナトスの努力を(かえり)みることなく、サマエルは、生きている者が誰一人耳にしたことがない、古代の呪文を唱え始めた。

「──目覚めよ、(いにしえ)より魔界王家に受け継がれ、我が体内に封印されし“カオスの力”よ。
我が闇の名はアバドン。深き淵より現れ出で、苦痛と狂気、悲しみと絶望、死と恐怖をもたらす、“滅ぼす者”。
今こそ“カオスの貴公子”マサク・マヴディルの名の下に、世界を“原初の混沌”へと(かえ)すのだ……!」

どす黒い怨念(おんねん)めいた“気”が、怒涛(どとう)のごとく押し寄せて来るのを感じたタナトスは、思わず後ずさりそうになり、必死に踏み止まって叫んだ。
「そ、それが解呪の呪文か!? よせ、サマエル、紅龍を呼び出すな!」
魔界の王さえもが戦慄(せんりつ)を禁じ得ない、名状しがたい不吉さを発散させている、耳慣れぬ文言(もんごん)
これこそが、かつて魔界の至宝“黯黒の眸”が、『必要なときには、心におのずと浮かぶであろう』と言ってサマエルに授けた、“紅龍の封印”を解く呪文だった。

たしかに、今サマエルが変化(へんげ)すれば、ミカエルを筆頭とした天使達、天界を占拠している神族すべてを、一頭だけで殲滅(せんめつ)することも不可能ではなかった。
だが、“破壊者”とも別称される“紅龍”の破壊衝動は、まったく抑えが利かないのだ。
目覚めたら最後、生きとし生けるものを殺戮(さつりく)し尽くし、あげく天界、魔界、人界、三つの世界をも、跡形もなく壊してしまうとされていた。

「──ちいっ、道理で“黯黒の眸”はあの時、にたにたと嫌な笑い方をしていたわけだ、忌々しい!」
そんな紅龍の恐ろしさを、誰よりも熟知していた魔界王は、激しく舌打ちすると弟に駆け寄り、変化を阻止しようとした。
「ともかく、やめろ、サマエル!
封印を解いてはならん、全世界が滅ぶのだぞっ!」

しかし、あと少しでサマエルの腕に手が届くというとき、
「──私に触れるなっ!」
「ぐわっ!?」
タナトスの体は、激しい拒絶に会い、吹き飛ばされて砂に叩きつけられた。

「もう遅いのだ、タナトス!
私は、もはや、正気を保てない……だ、だが、う、ううう……!」
サマエルは激しい葛藤(かっとう)に頭を抱え、身をよじった。
このまま変化してしまえば、せっかく会えた子孫を自分の手で死に至らしめ、その上、世界までも滅ぼしてしまうのだ。
無論、彼とて、そんなことはしたくなかった。

リオンは、遠い祖先である魔界の王子が煩悶(はんもん)する様子を、戸惑いの眼差しで見ていた。
「な、何だかよく分かんないけど、サマエル、やめた方がいいよ。
あんな天使の言うことなんか気にしないで、落ち着いて……」
「サマエル様、一体どうなされたのですか? 何だか、とても恐ろしい感じがする呪文……」
ライラもまた、困惑の表情を隠し切れない。

「ああ、リオン……ライラ……私……私は」
狂気を(はら)おうと必死に首を振り、サマエルがあがいていたとき、嫌みったらしい笑みを浮かべてミカエルが言い放った。
「どうした? 悪鬼ども。
“カオスの力”を見せるとか何とか申しておったのは、我の空耳だったのかな?」

「おやめ下さい、ミカエル様! これ以上、魔物を刺激するのは危険です!」
慌ててシェミハザは、上司を制止しようとした。
「うるさいぞ、セラフィ、黙っておれ。これは命令だ!」
「………!」
自分より身分の高い大天使に、明確に禁止されてしまうと、熾天使は立場上、逆らうことができない。
どんなに不服でも、引き下がるしかなかった。

部下を黙らせておいて、大天使は魔族に向き直り、さらに挑発を続けた。
「ふん、薄汚い魔物ごときが大口を叩きおって!
だが、我は聖なる神に仕える身。
心が広いゆえ、正直に、出来ぬと地べたに手をつき平伏すれば、許してやらぬでもないぞ、血に飢えた汚らわしき蛇どもが!」

「──黙れ、愚か者! 誰がそんな真似をするか、たわけ!」
倒れていたタナトスは、大天使の侮辱に跳ね起き、負けじと叫び返す。
同時に、サマエルの瞳の怒りの炎も、油を注がれたように燃え上がり、彼は、ミカエルに勢いよく指を突きつけた。

「何が、聖なる神に仕える身か、白い悪魔どもに仕える使い魔め、永久に呪われるがいい!
汚らわしいなどとお前が言えた義理か、忘れたなどとは言わせないぞ!
我ら魔界人が、こんな醜い姿になったのも、天界人が、我らの先祖を魔界に封じ込めたせいではないか!」

「落ち着け、サマエル! だからといって、すべてを滅ぼす必要はない!」
タナトスは、何とか弟を静めようと努めるものの、サマエルの怒りは弱まるどころか、さらに募っていくようだった。
いつもと、形勢が逆転していた。
普段なら、すぐ熱くなる兄王子を、弟王子がなだめるというのが常だったのだが。

「魔界の有毒な大気と水、酷暑、極寒、そして……何よりもひどい飢餓が先祖を苦しめ、ほんの一握りになった魔族にできたことは、天界人を憎み、運命を呪うことだけだった。
そうして世代を重ねるごとに、魔界の劣悪な環境に順応するために先祖の心身は歪み、生まれもつかぬ化け物へと変貌(へんぼう)を遂げていった……!
──そうだ、お前達、白い悪魔こそが、我らフェレスを、禍々しい“魔の者”に作り変えた元凶なのだ!」
言い募るサマエルの紅い瞳には、すでに暗黒の狂気が宿り始めていた。

「貴様の気持ちはよく分かる! だがサマエル、やるなら、この馬鹿天使だけをやれ!」
タナトスもまた、ミカエルを指差す。
しかし、第二王子は激しく首を振った。 
「いいや、私はもはや、真の怒りを抑え切れない……!
目覚めし“混沌の龍”の力によって、すべては無に帰すのだ……!
もうこんな世界など、終わってしまえばいい──!」

「駄目だ、サマエル! やめろというのに!」
「──“底なしの淵の鍵”を持つ星よ、()く天から舞い降り、マサク・マヴディルの扉を開けよ!
今、我はアバドンの名の許に、“紅龍の封印”を解く!
──アナセマ・マラナータ!!」
「くそっ……ああ、これで世界は破滅だっ!
ミカエル──神族ども! 貴様らのせいだぞ、この大たわけめらがっ!」
タナトスは、拳を天に向かって突き上げた。

不吉な呪文に呼応し、サマエルの胸にある“紅龍の紋章”が紅く輝き、体全体から青白い炎が湧き出て、回転しながら彼を包み込み始める。
ローブと銀の髪が、その凄まじさにあおられ、勢いよくはためいた。

「サマエル! ──くそっ! 近寄ることもできん!」
魔界王は、それでも弟を止めようとしたが、青白い炎は結界の役目をし、誰も近づけない。
サマエルの瞳は、ついに闇に支配され、激しい怒りで、嵐の海のように猛り狂っていた。

「サ、サマエル、どうしちゃったの?」
「サマエル様……」
怯えた声で、リオンとライラが言うのを、サマエルは、遠のく意識の中で聞いた。
(これでいい……。もう終わらせてしまおう、何もかも、もはや虚しい……。
これでようやく、私も楽になれる……)
第二王子はつぶやき、やがて、彼の精神は、完全に闇に飲み込まれてしまった。
と、輝きを増すサマエルの紋章の光に誘発されて、リオンの右手にある痣もまた、紅い輝きを発し始めた。

「──うっ、あ、熱い……!」
思わず手を押さえたリオンに、タナトスの声が飛ぶ。
「リオン、しっかりしろ! 引きずられるな!」
「うわ、だ、駄目だ、押さえ切れないよ……!」
「耐えろ、リオン! 恋人の前で、化け物に変わりたくはあるまい!」
「えっ、ば、化け物……? そんな……」

タナトスの言葉に、リオンだけでなく、ライラも顔色を変えたが、彼女は何も言わずに、熱くなった彼の手をぎゅっと握った。
「ライラ、ありがとう──ううっ! ああっ……!」
「リオン!」
「くそっ、駄目か!」
必死に耐えていたリオンだったが、変身は自分の意志とは関係なく起こってしまう。

だが。
「変わったところは、ないわね……」
ライラが、ほっとしたように言った通り、リオンの方は、以前と変わらず朱色の眼をし、白い角と翼を生やした、大人の魔界人の姿に変わっただけだった。
「うん……前と変わらないみたいだよねぇ……?」
リオンは自分の手や体を見、ライラの瞳に映る自分の姿を確認すると、きょとんとした顔をした。

「……ちいっ、脅かしおって……!
そうか、貴様はまだ、真に大人になってはおらぬのだな。
一瞬、お前までもが真の姿に変化などした日には、目も当てられんと思ってしまったではないか……!」
タナトスも気の抜けたような声で言った。

「うわっ、地震だ!」
彼らが、胸をなでおろしたのも束の間、大地のどこか深いところから地鳴りが聞こえ始め、すぐに激しい揺れに取って代わった。
同時に、先ほどまで晴れ渡っていた空が、真っ黒な雲に覆われ、みるみる夜のように暗くなっていく。
遠く雷鳴が聞こえ、徐々に近づきつつあった。

そして、突然、巨大な稲光が暗い空を引き裂き、大音響とともに激しい落雷が、サマエルの体を直撃した。
「キャッ……!」
「──サマエル!」
リオンは、悲鳴を上げるライラを引き寄せてかばい、声をかけたが、返事はない。
それを皮切りに、立て続けに、何本もの稲妻が彼目掛けて襲いかかっていった。
眼もくらむ閃光の中で、先祖の姿が徐々に変わってゆくのが、リオンにはかろうじて見て取れた。
雷に打たれるたび、サマエルの体は変化する速度を増し、どんどんと巨大化していくのだ。