11.末期 の刻(2)
リオンもサマエルも、ライラにかける言葉が見つからず、弟を目の前で亡くした王女の涙だけが、吹き渡る暑い風に運ばれて、刻の砂漠を悲しみで満たした。
怒りが収まると共に、リオンは元の姿……十五、六の少年に戻っていく。
『相済まぬ、ライラ王女……。
さりながら、“血の契約”を解く術は、未だ見出されてはおらぬゆえ、許されよ……』
やがて、シンハが、つぶやくように声をかけた。
彼は王女の
ライラは、そのとき初めて、魔界の獅子がそばにいることに気づいたように、彼を見た。
「ほ──本当に、これしか方法がなかったの、シンハ!?
弟を、アンドラスを返して! 返してよっ……!」
悲しみのあまり、感情を抑えられらなくなった彼女は、泣きながらシンハの黄金の背中を、華奢な拳でたたき始めた。
「よしなよ、ライラ。彼は……」
やめさせようとするリオンに、ライオンは首を振ってみせる。
『止めずともよい、朱の貴公子。王女よ、それで気が済むものなら、いくらでも我をたたくがよい』
だが、涙にかすむ王女の眼に映ったシンハは、妖しく燃え上がるたてがみと、禍々しく光る紅い瞳を持ち、顔を弟の血で真っ赤に染めたおぞましい魔物だった。
ライオンが、その顔を近づけた瞬間、ぞっとして、ライラは思わず叫んでいた。
「近寄らないで! この──人殺しのバケモノ!」
魔界の獅子は、びくりと体を震わせて顔を
リオンが、彼女をたしなめようとした時だった。
サマエルが、つかつかと近づいて来て、いきなり王女の頬を平手で打った。
「頭を冷やしなさい! ライラ、彼に謝るのだ。
それ以上言うと、いくらキミでも許さないよ!」
「あ、あ……わ、わたし……。
わあああっ……ご、ご免なさい!」
ごく軽くたたかれただけだったが、ライラは両手で顔を覆い、激しく泣き出した。
「サマエル、もうぶたないで!
弟が死んで、ショックでちょっと変になっちゃってるだけなんだから、許してあげて!
ぼくからも謝るよ。ご免、シンハ、彼女を許して」
『
ルキフェルよ、婦女子に手を上げるのは、何事によらず感心出来かねるぞ』
「──いいや、他の時ならいざ知らず、この場合は話が別だ!
お前は、二人のために、わざわざ憎まれ役を買って出たのに!」
シンハに答えたサマエルの声には、珍しく、激しい感情がそのまま現れていた。
「憎まれ役?」
リオンは首をかしげた。
「そうとも!」
第二王子は、普段の彼からは考えもつかないほど、荒っぽいうなずき方をした。
「リオン、私は心配していたのだ。
もし、お前がアンドラスを殺したら、たとえ、ライラの怒りがお前に向けられなくても、負い目を感じてしまい、彼女ともうまくいかなくなるのではないかと。
そこで、魔物のとどめは私が刺そうと考え、魔物と融合した人間は殺すしかないということを、お前には知らせずにいたのだよ」
「えっ、“掟”があるから、手助けは出来ないって言ってたのに?」
リオンが驚くと、サマエルは、ふっと息を吐いて緊張を解き、微笑を浮かべた。
透き通るような、不思議な笑みだった。
「私は、もう十分生きた。
お前達……恋人同士が幸せになれるなら、それでいいと思った……」
『ルキフェルの心持ちに気づいたゆえ、我がベルフェゴールを葬ったのだ。
さすれば、王子が
静かな口調で、獅子は言葉を挟み、
彼と眼を合わせた第二王子の瞳に、ようやくいつもの穏やかさが戻った。
「“焔の眸”よ。色々すまないことをしたね。今日言ったことは全部嘘だから、忘れておくれ」
『当初は、何ゆえ汝が我に辛く当たるか図りかね、困惑致した。
されど汝が、ゆえなくして、冷酷なる振る舞いは致さぬことは熟知しておったゆえ、我が
「お前なら、私の企みを見破って、阻止する行動に出るだろうと分かっていた。
だから、お前を怒らせ、魔界に帰そうと仕向けたのだが、なかなか思う通りにならなくて苛立ってしまい、つい言動が荒々しくなってしまった、許して欲しい」
サマエルは言い、そしてフードの奥で、ほんの少し眼を伏せた。
「……本当は、お前を殴って気を失わせてでも、魔界に戻すつもりだった……。
だが、お前の態度を見ていたら、どうしても殴ることが出来なくなってしまってね。
タナトスがうらやましくなったよ。お前は、あんな状況でも決して逃げようとはしなかった。
そんな
さっきはぶったりして、本当にすまなかった。
さぞかし腹が立ったろう?
リオンに
……まだ痛むかい?」
頬にそっと手を当てようとする王子から、シンハはまたも身を退いた。
『我に気遣いなど無用。
間もなく、天界から使者が参ろう。
そっけなく言い、ライオンの体は輝き始めた。
今度の変身はごく短時間で終わり、一瞬で紅毛の少年に戻った“焔の眸”の化身は、サマエルの顔を覗き込み、彼だけに聞こえるようにささやいた。
「オレの……“焔の眸”の予言は、もうすぐ
だから、あの約束を忘れないでくれよ。
さっきのアレが、全ー部、嘘だったんなら、オレらの最後の望み、叶えてくれるよな?」
サマエルは眼を伏せ、ダイアデムの問いに答えぬまま、魔界の兄に念を送った。
“タナトス、タナトス、聞こえるか、私だ”
“むっ、サマエルか!? 何の用だ!”
即座に、苛立たしげな応答があった。
“実は、たった今、ベルフェゴールが死んだ。掠奪侯爵シャックスもだ。
連中は、ファイディー国の王と『血の契約』を交わし、国の乗っ取りを図ったのだが、シンハが、二人共始末をつけた”
“──何? ベルフェゴールと、シャックスがつるんでいただと!?
あの死に損ないめ、魔界を逃げ出したと思ったら、今度は、人界でそんな下らんことをやっていたのかっ!”
あきれたような魔界王の思念が返って来る。
“……そういう訳だ。
どうせ、我々の動向は、すでに天界に捉えられているだろう、大至急、人界へ来てくれ。
『焔の眸』の処遇について、天界と協議することになると思う”
“ふむ、話は分かった。
だが、何ゆえ、『焔の眸』が、手を下すこととなったのだ?
貴様の子孫がいたのだろう? そいつに殺らせればよかったではないか。
千年後の子孫など、完全に人間だ。人間同士ならば、天界も口を挟めんだろうが”
“……それは……”
サマエルは返答に窮したが、気短な魔界王はそれ以上追求せず、言った。
“まあいい。そっちへ行ってから、詳しく聞いてやる。
こうなったらには、まともな次元回廊を開かねばならんな、ダイアデムが使った仮の通路では不安定過ぎる。
そこは、人界のどこら辺だ? 周囲には何がある?”
“ここは砂漠だ。周りには、何もないといっていい”
“それは好都合だな、では、そこに、回廊の正式な『門』を開くこととするか”
“ああ、さっそく始めよう”
魔法の杖を取り出したサマエルは、呪文を唱えながら、紅い砂の上に魔法陣を描き始める。
魔界にいるタナトスもまた、自室で同じ作業を開始した。
ダイアデムは、回廊を開くことに没頭している第二王子からゆっくり遠ざかっていった。
(やれやれ、こんぐらいのことで泡食ってたら、世話ねーやな。
魔界きっての策謀家の名が泣くってもんだぜ。
さっきオレにしたみたく、キツイ調子で、ビシビシやりゃあいいだけのことなのによ!
──あ、こんくらいのトコでいいか)
やがて、皆からかなり離れたところに来た彼は、その場に座り込み、念話で王女に話しかけた。
“ライラ、キミの心に直接話しかけてる、声を出さずに聞きな。
キミの返事は、心に思うだけでオレに聞こえる、分かったか?”
王女は、少し驚いたものの、すぐに返答した。
“ええ、分かったわ。さっきはご免なさい……”
すると、返ってきたのは、たたきつけるように激しい、少年の心の声だった。
“今頃遅いぜ! オレはキミのことが憎らしい、憎くてたまらないよ!
そりゃあ、シンハは、キミの弟を殺しちまった。でも、それはしょうがなかったんだ。
それに、オレが平気でいると思ってんのか? アンドラスもイナンナの子孫なんだぜ!
なのに、彼女そっくりの顔で、バケモノってののしるんだもの。
彼女に責められているみたいで、すごく辛かった。
キミはずるいよ、ライラ。魔界の王子、二人に愛されてるくせに!
サマエルは、ホントはキミのことが好きなんだ!
そして──キミだって、やっぱりまだそうなんだろ!
キミってコは、虫も殺さねー顔して、二股かけてんのかよ!”
“焔の眸”の化身は、その姿によって外見だけでなく人格も変わる。
シンハは大して気にも留めなかった彼女の言葉に、紅毛の少年ダイアデムは、ひどく腹を立てていた。
そこでリオンに邪魔されないように、思念でライラだけに文句を言ってやることにしたのだった。
“ええっ、何を言うの、ダイアデム!
シンハが気づかせてくれたのよ、だからわたしは……”
否定するライラの言葉に耳も貸さず、興奮したダイアデムは怒りに任せ、一気にまくしたてた。
“黙って聞けよ! そして、二人の気持ちに気づいていたからこそ、リオンは身を退こうとした。
あいつが、キミに選ばれて眼ぇ丸くしてたのは、そのせいさ!
そんだけじゃない。二人が惹かれ合うのには、ちゃんと理由がある。
リオンが生まれてなきゃ、キミらは結ばれてたんだ!
千二百年前、ジルがサマエルとタナトス、どっちを選ぶか、二通りの未来が視えた。
あんだけはっきりと見えたのは珍しいぜ。そんだけジルの魔力が強くて、未来を切り開ける力が備わってたってこった。
つまり、彼女がタナトスを選んでいたら、もちろん、リオンは生まれてない。
だから、キミとサマエルが出会っても何も障害もなく、結婚することになってたんだ!
──分かったか、ライラ!”
“……そんな。たとえそうだとしても、わたしはリオンを選んだのよ、なのに今さら……”
突然言われたことに戸惑うライラに、宝石の化身は容赦なく言い募った。
“そうだ、今さらだ。オレだって、言うつもりなんかなかったんだ、さっきまでは!
そりゃ、キミの気に食わないこともやったさ、でもそれは全部、キミの幸せを願ってのことだ。
イナンナの言葉は直接聞けなかったから、代わりに『ありがとう』って言ってもらえたらいいなって思って。
たった一言だけで、オレは満足だったのに。
大体、キミが頼んだんだろう、アンドラスを何とかしてくれって。
なのに、これがキミのお礼ってヤツなのか!?
オレを、バケモノ呼ばわりすることが!”
ダイアデムは彼女を非難し続けた。