~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

11.末期(まつご)の刻(1)

『皆の者、静まるがよい! ついに、こやつの正体が判明致した!』
鼻を高々と上げて臭いを嗅ぎ、皆の注視の中、シンハは重々しく言った。
「一体誰なのだ?」
サマエルは、真剣な声で尋ねた。
『気の流れはすべて、ただ一つの名の許へと集っておる!
──グルルル……!』
シンハは、魔物に向けて威嚇(いかく)するように唸り、毛を逆立てた。

それでもまだ、魔物はアンドラスの模倣(もほう)を続け、弱々しく身を震わせた。
「このライオンは、何を言っておるのだ、正体などと。
余はファイディー国王、アンドラスであるぞ……」
しかし、シンハは、すべてを見通す紅い瞳の奥で金の炎を轟々(ごうごう)と燃え上がらせ、高らかに宣言した。
『いかほど白を切ろうとて無益なことよ、汝は、魔界の闇を棲み処(す か)とする者。
汝の企みはもはや、我が炎の(あか)しに照らし出されておる、真なる風姿を現すがよい!
──“バアル・ペオル”!』

途端にアンドラスの顔が歪み、声も上ずった。
「な、何ゆえ我が名を……? い、いや、左様な名は知らぬ、誰のことやら……」
サマエルも、さっと顔色を変えた。
「何と、バアル・ペオル……ベルフェゴール伯父上なのか!?」
「えっ、伯父さん?」
「サマエル様の、伯父上ですって?」
リオンもライラも驚いて、アンドラスの姿をした魔物を見つめた。

魔族の王子は、すぐに冷静さを取り戻した。
「シンハ、お前の言葉を疑うわけではないが、念のため確認してみよう。
皆、少しの間、静かにしていてくれ」
「余、余は……」
『口をつむぐがよい、愚者(ぐしゃ)よ!』
まだ何か言いかける魔物を、獅子は怒鳴りつけ、黙らせた。

サマエルは、眼を閉じたかと思うと、すぐに開けた。
「ふむ。巧妙に隠してはあるが、たしかに、この“気”は伯父のものだ。
リオン、ライラ、この男はベルフェゴールといって、かつて魔界で謀反を企み、それが露見して捕らえられたのだが、脱獄して行方をくらませていたのだよ」

「へえ、こいつ、魔界でそんなことやってたの」
リオンは眼を丸くした。
「そうだ。父王と兄を暗殺し、私を傀儡(かいらい)の王に仕立て、魔界の実権を握ろうとしたのだよ。
もちろん、失敗したのだがね」
そう言うと、サマエルは、人間の姿をした魔物に向き直り、皮肉っぽく話しかけた。

「お久しぶりです、伯父上。
化け方“だけ”はお上手になられて、私も危く騙されるところでしたが、相変わらず、詰めが甘くていらっしゃるようですね?
このような形で、再会するとは……まさか私同様に、人界に隠れていらしたとは露知らず、失礼を致しました」

ベルフェゴールが答える前に、シンハが話に割り込んだ。
『ルキフェルよ、魔界王家の尊き系譜(けいふ)を汚す不逞(ふてい)(やから)に、(うやま)いの言詞(げんし)など不要ぞ。
聞くがよい、“ペオル山の主(バアル・ペオル)”。
千二百年前、魔界より逐電(ちくでん)せし汝には、もはや、還る処などありはせぬ。
前王バアル・ゼブル、並びに現王サタナエルは、汝の処刑を許諾(きょだく)しておる。
申し残すことはありや?』

「ふふん、見破られたとあっては、致し方あるまい」
魔物は鼻を鳴らし、三度目の変化を始めた。
アンドラスの体は、再びぐにゃりと歪んで溶けるように消え、今度は、先ほどのおどろおどろしい怪物とはまた異なる、魔族の貴族としての姿になってゆく。

二本の角は、怪物でいた時よりも細く短くなり、眼は鮮やかな瑠璃色、髪は深い青緑をしている。
背はサマエルより少し低く、でっぷりと太っていて、身につけた貴族的な服は、さほど似合っていない。
よく動く、ずる賢そうな眼と、だらしなさを表わす、締まりがない唇を持ち、伯父と言うだけあって、王子に多少似てはいたものの、どこか魂の卑しさを感じさせる顔つきをしていた。

変身を終えたベルフェゴールは、ゆっくりと立ち上がり、もったいぶった仕草で砂を払って、服を直した。
「久しいな、シンハよ。
この我の変化(へんげ)を識別致すとは、さすがに、魔界王家の守護精霊と呼ばれるだけのことはあるわい」
肥満体の魔界大公に話し掛けられても、ライオンは不快な顔で他方を向き、答えようとはしない。

無視されたベルフェゴールは、仕方なく、今度は甥に向き直った。
「サマエル、おぬしの子孫とやらは、なかなかに優秀であるな。
今ここには、我とおぬしと……リオンとか申したな、力ある者が三名も揃い、王権の象徴たる“王の杖”までもがある。
現魔界王より力あるおぬしなら、“焔の眸”も、たやすく手なずけられよう、我らで人界を支配しようではないか。
サマエルよ、タナトスを倒して魔界と人界、二つの世界の王にならぬか?
おう、我は無論、参謀でも官僚でも構わぬゆえ」

『──慮外(りょがい)者! 血迷うたか、バアル・ペオル!』
シンハは、またも毛を逆立てて、今にも魔界大公に飛びかかりそうな様子を見せた。
「落ち着くのだ、シンハ。まだ話は終わってはいない」
彼をなだめようと、サマエルはたてがみに触れた。
『心配無用、心得ておるわ!』
ライオンは(うな)るように答えて激しく頭を一振りし、その手から逃れた。

サマエルは、獅子に触れるのは諦め、大公に話しかけた。
「伯父上、それでは天界が黙っていないでしょうし、私はつまらない野望など、持ちたくもありませんよ。
私は権力などいらない。心安らかに、静かな日々を過ごせれば、それでいい……」
目先のことしか考えていない愚かな大公の、権力欲にぎらつく卑しい顔に対し、サマエルの整った顔は、高貴な悲哀を漂わせ、声も悲しげだった。

「──ふん、まだ若いと申すに、まるで隠者のようではないか。
人間の女にそこまで骨抜きにされたか、情けない!
魔界王家の第二王子、“カオスの貴公子”ともあろうものが!」
ベルフェゴールは、失望したと言った感じで鼻を鳴らす。

その時、ライラが口をはさんだ。
「ア……アンドラスは、どうなったのです!? あの子を返して!」
魔物は、どうでもよさそうに肩をすくめた。
「ああ、あの哀れな小童(こわっぱ)なら、もはやおらぬわ」
ライラの美しい顔がこわばる。
「……どういうこと?」

「あの小僧は、甘言(かんげん)に釣られて我と“血の契約”を交わした。
あのように貧弱な魔力で、魔界の貴族たる我を操れるとうぬぼれてな。
されど、魔界の者は、力なき者になぞ従わぬ。
あやつは、口ばかり達者な、柔弱(じゅうじゃく)な青二才であった。
そこで、我は、あやつの魔力を奪い尽くし、その上で完全に融合を果たした。
つまり、あやつのすべてが我がものとなったのだ。
ゆえに、アンドラスなどと申す者は、もはや存在せぬ。
──ふん、かような愚王に支配されずに済んだことを感謝するのだな、王女。
我が手を下さずとも、あの小せがれめは、いずれ、国を破滅に導いたであろうよ!」
ベルフェゴールは無慈悲に言ってのけた。

「ひどい、ひどいわ!
馬鹿よ、アンドラス。こんな魔物に釣られて……!
たとえ世界を支配したところで、すべてを把握出来るわけもないでしょうに……!
私達のこの美しい国が平和だったら、それでよかったのじゃない……!」
やり切れなさに、ライラの緑の瞳に涙が浮かんだ。

(……今だ。やはり私が……)
伯父が王女に気を取られている隙に、自分がとどめを刺そうと思い立ったサマエルは、こっそりと、強力な呪文を唱え始めた。
だが、唱え終えることは、ついに出来なかった。
シンハが、いきなり突進して来て、彼に強烈な頭突きを食らわしたのだ。
「──!?」
腹を押さえ、王子がうずくまった次の瞬間、黄金のライオンは、魔界大公に(おど)りかかった。

「──ぎゃあっ! や、やめろ……! た、助けてくれ、サマエル!」
魔界の貴族は、情けなくも悲鳴を上げ、甥に助けを求めた。
「シンハ! 駄目だ!」
(いな)! 混沌の王子よ、これなるは我が役目。これこそが運命の刻。
我は、もはや逃げたりはせぬ──!』
サマエルの制止も聞かず、シンハはベルフェゴールの喉笛に、鋭い牙を突き立てていた。

「やめるのだ! そんなことをしたらお前は……」
王子はなおも止めようとしたが、魔界の獅子は、大公を放そうとはしなかった。
『否。尊属(そんぞく)殺しの大罪を、汝が犯すは不要。我はこの者に恨みがあるゆえ。
覚えておるか、バアル・ペオルよ。二千年前、汝が娘、リリスがイナンナを監禁致せし折。
あわや、彼女は、地下迷宮において永遠に幽囚(ゆうしゅう)の身と成り果てたやも知れぬのだぞ!』

「ううっ……そ、れは、リリスが独断、我に関わりは……」
牙が与える痛みと、のしかかる重みとで失神寸前のベルフェゴールは、それでも必死に、巨大なライオンを押し退けようともがく。
因果応報(いんがおうほう)! リリスを手に掛けし時、我は懇願(こんがん)された。それを果たす刻も今』
シンハは、振りほどかれないよう一層力を込めて魔物を押さえつけたが、まだ話すことがあったので、噛みついた牙には、さほど力を入れない。

『リリスは我に、こう申した。
(すべから)く汝が牙にて、バアル・ペオルに死を”、とな』
ライオンは重々しく言った。
「な……何っ!」
魔界の貴族の顔は歪み、青ざめた。

『かくして、汝の最期の刻は来たれり、もはや申し残すこともあるまい。
煉獄(れんごく)にて汝の死を待ち望み、それを得て安らう娘の魂とは(さか)しまに、奈落の底にておのれの愚かな所業(しょぎょう)を、永久(とわ)に悔やむがよい!
これにて、すべてが落着せり。我も、誓いはすべて果たした……』

「待て、待ってくれ……!
──ぐ、ぐああああっ──!」
悲鳴と同時に、鈍く、嫌な音がした。ベルフェゴールの首の骨が噛み砕かれたのだ。
シンハは牙を外し、口にたまった魔物の血をぺっと吐き出した。

「──いやあっ、アンドラス──!」
「ライラ、落ち着いて……」
「放してリオン、アンドラスのところへ行かせて!」
泣きながら王女が、動きを止めて横たわる体に近寄ろうとした刹那、魔物が輝き始めた。
「きゃ、何!?」

その光が消えたとき、ベルフェゴールは、人間であるアンドラス王の姿へと戻っていた。
「ね、姉……さん……」
「アンドラス!」
ライラは弟王に駆け寄った。
彼は、喉だけでなく、口や鼻からも血を流し、苦しげに息をしていた。

王女は、弟の手を固く握り締めた。
「ぼ、僕も、ファ、ディ……王、たとえ、体……乗っ取ら、て、も……た、魂は、最後まで、抵抗し……から、戻れ、た……」
「口を利かないで、今、……」
「い、らない、よ、姉さん……」
回復魔法を唱えようとする姉を、アンドラスは制した。

「ま、魔物、と僕は、融合し……あいつの、死は……僕の死……さ、最後に、一言、謝り、たくて、戻った、んだ……。
ご免……僕、騙されて……分かった、ときは、も……遅く、て……。
──くっ……ぼ、僕の分まで……生、きて、幸せに……。
さよ、なら……姉さ、ん……」

「アンドラス、死なないで!
あああ……アンドラス──!!」
弟の体から力が抜け、握った手から、生命が抜けていくのをライラは感じた。
アンドラス王の死に顔は、不思議と穏やかだった。

不逞(ふてい) 勝手に振る舞うこと。道義に従わないこと。
言詞(げんし) ことば。言語。言辞。ごんじ。
言辞(げんじ) ことば。ことばづかい。言詞。
逐電(ちくでん) 逃げて姿をかくすこと。
須(すべから)く ぜひとも~しなければならない。必ず。
尊属(そんぞく)  ある人を基準として、親族関係において先の世代にある血族。父母・祖父母などの直系尊属と、おじ・おばなどの傍系尊属とに分ける。
慮外(りょがい)者  ぶしつけな者。無礼者。
幽囚(ゆうしゅう)  捕らえられて牢などにとじこめられること。また、その人。囚人。
因果応報(いんがおうほう)
 仏教用語。善悪の因縁に応じて吉凶禍福の果報を受けること。  善因には富楽などの善果を受け、悪因には貧苦などの悪果を受けること。類:因果報応 出典:「法華経」
煉獄(れんごく)
 カトリックの教理で、小罪を犯した死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態。天国と地獄の間にあるという。ダンテが「神曲」中で描写。
逆(さか) しま 逆さま。さかさ。逆。