~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

10.闇黒(あんこく)の君主(4)

「私が助けに行く。お前はここに残れ。私なら一人で、すべてうまくやれる」
命令口調のサマエルに、ダイアデムは逆らった。
「嫌だ、オレも行く! ライラのピンチなんだぞ、黙ってられっかよ!」
「それは許されない。お前はもう、人界のこととは関わってはならないのだ。
やはり、今すぐ、魔界へ帰れ」
王子は冷たく言い放ち、彼の腕を捕える。

「や、やだってば、放せよっ!」
宝石の化身は、それを振りほどこうと暴れた。
「大人しくしなさい、ダイアデム! また痛い思いをしたくなかったら、魔界に帰るのだ!」
「嫌だっ、帰らねーったら!」

もみ合ううち、サマエルは、またも腕を振り上げた。
「ぶつぞ!」
「ひっ」
とっさに頭をかばったものの、王女の一大事、怯えたり、ひるんだりしている暇はない。
ダイアデムはそう思い、捨て身の覚悟で言い返した。
「ぶ、ぶてるもんなら、ぶってみろよ!
たとえ、ボコボコにされたって、オレは助っ人に行くからな!」

すると、突如、第二王子は深く息をついた。
腕を下ろし、先ほどまでの無慈悲な物言いが、まるで嘘のように穏やかな口調になる。
「……分かったよ、ダイアデム。一緒に助けに行こう。
ただ、くれぐれも、アンドラスには手を出さないこと。リオンに任せるのだよ、いいね。
私が、シャックスを取り押さえるから、お前がライラを……」

「そりゃ逆だろ。オレが後ろからニワトリに噛みついてやらぁ、ライラは任せたぞ!
……って、あれ?」
反射的にいつもの調子で会話をしたものの、相手の口調の違い、そして何より自分を見る眼差しまでが、先刻までとは打って変わって優しいことに気づき、ダイアデムは面食らって、サマエルの顔を覗き込んだ。

刹那、王子の黒いローブの奥で光るものの存在を感じ取り、宝石の化身は眼を見張る。
それは、ライラを騙すため、揃いのペンダントにしたフェレスの涙、クレネ・ダグリュオンの輝きだった。

「……おい、さっきは、パニクってたから分かんなかったけど、何で、そいつをまだ、大事そうに持ってんだよ。
お前さ、オレとはもうカンケーねーとかなんとか、散々言ってて……」
そこまで言ったとき、ダイアデムは、ある考えに到達して、叫んだ。
「──あ、あー、そっか! お前、またまた芝居してやがったなぁ!?」

「……お前を……二度も殴るなんて、どうしても出来なかった……。
気絶させてでも、魔界に帰す気でいたというのにな……」
サマエルはうなだれた。
「ええっ!? お前……!?」
宝石の化身は絶句した。
ここに至ってようやく、この王子が、自分に冷たく接していた本当の理由に思い当たったのだ。

彼は、大きなため息をついた。
(……よかった。サマエルは、オレのこと、憎んでたんじゃなかったんだ。
自分からにしろ、力尽くにしろ、とにかく、オレさえ魔界に戻っちまえば、『第二王子が“焔の眸”を壊す』っていうシンハの予知は外れる、って思っちまったんだな……。
バカだなぁ……。ンなコトしたって、何にもならねーのに。
今起きなくたって、いつかは必ず予言通りになるってのによ……)

「……なあ、サマエル。どうあがこうと、未来は、運命は、変えられねーんだぜ。
予言ってのは、巻き込まれるヤツの感情や思惑なんて全然お構いなしに、起こっちまうもんなんだ。
それを、いくら変えようって必死こいたって、苦しいだけなんだぞ」
ダイアデムは、低い声で、(さと)すように言った。

「いや、しかし、私はお前を……」
「あ、やば、早くライラを助けなきゃ! 先行くぜ、サマエル!
──ムーヴ!」
王子に最後まで言わせず、ダイアデムは、地上に躍り出ると同時にシンハを呼び出す。
そして、変化(へんげ)が終わる間ももどかしく、シャックスの首に、思い切り牙を突き立てていた。

「ギャアアアアア──ッ!」
コウノトリはすさまじい悲鳴を上げ、いきなり現れた敵を振りほどこうと、激しく暴れる。
そのため、足の力が緩み、つかんでいたライラの体がずり落ち始めた。
「──いや……きゃあああ!」
王女が空中に投げ出された瞬間、絶妙のタイミングでサマエルが姿を現し、彼女を見事に受け止めた。

「サ、サマエル様っ!」
ライラは、震えながら彼にしがみついた。
「大丈夫かい? すまなかったね、遅れて」
「いえ、だ、大丈夫です……」
サマエルは、黒い翼を広げてふわりと地面に降り立ち、王女を降ろす。

「ライラっ!」
「リオン!」
恋人達は駆け寄り、きつく抱き合った。
「ありがとう、サマエル」
リオンが礼を言うと、王子はうなずいた。
「間に合ってよかったよ」

「キ、貴様ハ……! クッ、我ヲ放セ……!」
『──グルルルル……!』
その間にも、シンハはシャックスの首にしっかりと牙を食い込ませ、うなりながら、徐々に力を強めていた。
コウノトリは、敵を振り落とそうと必死に羽ばたき、大量の鳥の羽がまき散らされる。

「ク、クソッ! 何ユエ貴様ガ、人界ニオルノダ……?」
魔物に問われたライオンの右眼が、怒りに燃え上がり、金色(こんじき)の光輝を発する。
『冥土の土産に聞かせてやるとしようか、骨と皮ばかりの貧弱な小(すずめ)よ!
ライラ王女が、我を魔界より召喚致したのだ、厄災(やくさい)の源たる汝らを、根絶せしむるためにな!
よくも──王女に血など流させおったな! その罪は万死(ばんし)に値する、噛み殺しただけでは飽き足らぬわ、地獄の業火(ごうか)に焼かれ、(みじ)めに散り果てるがよい!
──アウト・ダフェ!』

魔界の獅子が、“異端者の火刑”という意味を持つ呪文を唱えると、黄金の炎が噴き出して巨大な体を覆い、紅い炎で出来たたてがみも、それに合わせて温度を上げる。
彼らは、かなり上空にいたにもかかわらず、その熱は、地上にいるリオン達にまで感じられるほどだった。
「グワア──ッ!」
翼も胴体も、灼熱(しゃくねつ)の炎に巻かれて燃え上がり、シャックスは絶叫した。

しかし、いくら叫び、もがいても、ライオンの牙は一向に緩まない。
ついに暴れるのを諦めた大鳥は、シンハに噛みつかれたまま、落下し始めた。
弱々しく、主に助けを求める声が、皆の耳に届く。
「アツ、熱イ……! 助ケテクレ、主ヨ……! タスケ……」
焦熱(しょうねつ)地獄へ落ちよ、掠奪侯爵!』
魔界の獅子は、情け容赦なく、一層深々と牙を食い込ませ、体を取り巻く炎火(えんか)もまた、さらに勢いを増す。

肉や羽の焦げる嫌な臭いが辺りに立ち込め、煙が天高く登ってゆく。
シンハが地上に降り立ったとき、魔界の略奪侯シャックスは、すべて黒い灰と成り果てていた。
やがて、砂漠の風に巻き上げられ、灰は、跡形も残さず消え失せた。

熱い息を吐きながら、ライオンは、リオン達に近づいていった。
『王女は? 無事か?』
「うん、大丈夫だよ。シンハ、ありがとう」
(しか)らば、次なるは汝であるぞ!
──覚悟せよ、姑息なる魔物!』
怒りも覚めやらぬまま、魔界の獅子は、この期に及んで逃げようとしていた魔物の目前に立ちはだかった。
『戦って果てるが魔族の(ほま)れ! 逃げるか、この卑劣なる者めが!』
「くそっ!」

そのとき、リオンが、前に進み出てきた。
「待って、シンハ。これはぼくの役目だよ。
サマエル。殺せなんて言ったら、ぼくが尻込みすると思って、だから言わなかったんでしょう?」
「その通りだ、リオン。だが……」

「大丈夫、今ならできるよ。
こいつ……! よくも、よくもライラを──!」
そう叫んだ瞬間、リオンの朱色の瞳に、炎がともったように見えた。
体から朱色の輝きがあふれ出し、彼を取り巻いていく。

(怒りが、ぼくを変えてゆく……。
……ああ、ダイアデムと戦ったときとおんなじだ。
ぼくが、ぼくでなくなってしまうような、そんな感じを止められない……でも)

「よくもライラを傷つけたな、よくも!
ぼくから彼女を奪おうとした、お前なんか、こうしてやる!
──アナス・マラバリス!」
「や、やめてくれ……! ぐわあ……っ!」
リオンは、激しい衝動に突き動かされるまま、強力な呪文を唱え、再び魔物を攻撃し始めた。

朱色の眼は、怒りの色をたぎらせ、その表情からいつもの彼の、幼くどこか頼りなげなところが消えてゆく。
最初はぎこちなく、ためらいがちだった動きも、確信を込めたものへと変わり、引き結ばれていた口には、冷酷な笑みが浮かび始めた。

(なぶ)るのを楽しんでいるようなその冷笑は、たしかに彼は、魔族の血を引いているのだ、と見る者に思わせた。
『先に、紅毛の童子(ダイアデム)と戦いし折と同様の変化が起きておる……。
さすがは、魔界王家の第二王子、“カオスの貴公子”の血を引きし者。“朱の貴公子”の力は強大なり』
「素晴らしい力だね、彼が私の子孫だということを、誇りに思うよ」
シンハは眼を細め、サマエルも、頼もしげに彼の変化を見ていた。

しかし、満足げな魔界の貴族達とは対照的に、人界の王女であるライラは、初めて見る恋人の姿に、怯えてさえいるようだった。
「……す、素晴らしいですって……?
リオン、わたし恐いわ……。本当に……これが、あの優しいリオンなの……?」
その様子を、サマエルとシンハは複雑な表情で見、目配せし合った。

リオンの怒りに対抗する術もなく、ただ痛めつけられていた魔物は、限界間近というとき、またも形態を変化させた。
「……た、助けて、ライラ姉上……」
少年王アンドラスの姿に戻り、手を差し伸べて姉に助けを求めたのだ。

「えっ……?」
リオンは驚いて攻撃の手を止め、ライラも身を乗り出した。
「ア……アンドラス、お前なの?」
「騙されるな、リオン、ライラ。あれはもう、アンドラスではないのだ!」
サマエルが叫ぶ。

「ぼ、僕と、魔物なんかと、どっちを信じるの……?
姉さん、助けて……! 僕を、し、信じて……!」
魔物は、同情を誘うように苦悶の表情を浮かべ、かすれた声を出した。
ライラは、サマエルとリオン、そしてアンドラスと視線を移し、迷った。
「……アンドラス……サマエル様……わ、わたし……」

「リオン、早くとどめを刺せ!」
サマエルがまたも声を上げ、我に返ったリオンは魔法を唱えようとしたが、王女がそれを押し止めた。
「待って! リオン、やめて! アンドラスは、正気に戻ったのかも知れないわ!」
「それは有り得ない、ライラ! こいつはアンドラスではなく、彼に化けているだけなのだ!
リオンも騙されるな、ためらわず、とどめを刺せ!」
サマエルは、必死に声を振り絞る。

「でも、サマエル様、もし、本当に正気に戻っていたら、どうなさるのですか!?」
「……あ……ぼ、ぼく……どうしよう……」
ライラとサマエルとの間で板挟みになったリオンは、どう対処すればいいか分からず、ただうろたえていた。
そのとき。
『──ガオオオ──ンッ!』
周辺の物音を圧して響き渡る咆哮(ほうこう)が、その場にいた全員の眼を、輝くライオンの姿に向けさせた。