10.闇黒 の君主(3)
「……なぁんだ、心配して損しちゃった。
あんなに物々しいんだもの、もう少し手応えがあると思ったのになぁ……。
ねぇ、念のため聞くけど、これがホントに、お前の最強魔法なわけ?」
リオンは、拍子抜けしたように言った。
「……古代呪法が効かぬと申すか、魔族の侯爵であるシャックスも従うほどの威力なのだぞ、これは……」
魔物は、目の前で起きた出来事が信じられない様子で、呆然としていた。
その時だった。
どこからともなく魔法の攻撃が出現し、すさまじい勢いで魔物に襲いかかっていったのは。
「──こ、これはしたり!」
魔物は慌てふためいた。
「あれ……さっき消したのとそっくりだ?」
リオンはあっけにとられた。
それは、たしかに、先ほど彼が無効化したはずの、敵が放った魔法だったのだ。
「くそっ!」
魔物は、死に物狂いで横転し、危ういところで難を逃れた。
攻撃魔法は、無人の砂上に激突して深い穴をうがち、紅い砂が、爆風と共に広く飛び散る。
「──カウンター・ベイル!」
リオンは、さっと結界を張り、王女をかばった。
「ライラ、後ろに下がっていて。危ないから」
「分かったわ、頑張ってね」
「うん」
ライラが後退すると、彼は魔物に向き直った。
「防がれると術者に跳ね返るんだね、その魔法。
今度は僕の番だ。弱い者イジメはしたくないんだけど、何がいいかな。
──リパルス!」
「ぐわぁ──っ!」
弱めの魔法のつもりで唱えたのだが、魔物は、衝撃でかなり遠くまで吹き飛んでいった。
「……あれれ、まだ強過ぎたかな?」
彼は首をかしげた。ダイアデムと闘ったときと同様、手加減しなければならないようだった。
魔物は防戦一方だった。
必死で逃げ回って直撃を避け、かろうじて防御する。
自分の知り得る限り、最も強い攻撃呪文をいとも簡単に防がれてしまったのだから、これ以上何を試みても無駄と言うものだったのだが、魔物はそれでも諦めなかった。
今となっては異常なまでの粘り強さだけが、この魔物の取り柄と言ってもよかった。
それでも、やっとの思いで時折繰り出す魔法もよけられてしまうか、先ほどのように完璧に防がれてしまい、効果はまったくない。
リオンの方は、当然ながら、かすり傷一つ負っていなかった。
「さっきの勢いはどうしたの? 一ひねりでどうとかって言ってたと思ったけど。
まだ、やるつもり? オジサンの力じゃ無理だと思うけどなぁ」
「オ、オジサン!? 無理だとっ……? おのれ、
──アトローシャス!」
「しょうがないなぁ。そんなに痛い目に遭いたいの?
──ペルソナ・ノン・グラータ!」
渋々リオンが唱えた魔法は、圧倒的な力で相手の術をねじ伏せ、敵本体に襲いかかってゆく。
「ウワ──ッ!」
魔物は、すさまじい勢いで砂漠にたたきつけられ、それを眼にした彼は、顔をしかめた。
「だから言ったのに。ぼく、弱い相手にあんまり強い魔法、使いたくないんだよ。
可哀想だし、何だか、僕まで、あちこち痛くなっちゃうし……」
「くっ、何の、まだまだ!
──ダイフォスジン!」
魔物は跳ね起きると多量の黒い煙を吐き出し、それはあっという間に辺りを覆い尽くしたが、リオンは軽く肩をすくめ、まったく動じなかった。
魔族として生まれ変わった彼の眼には、敵がこの煙幕に乗じて逃亡を図ろうとしている
「……はぁ、頑張るねぇ、オジサンも。
それじゃあね、どうしようかな……そうだ、動けなくなったら、考えも変わるかな?
──アド・レファンダム!」
「ぐわあっ!」
漆黒の煙幕をもろともせず、リオンの攻撃魔法は見事に命中した。
「ぐぬう、く、くそっ……!」
うめき声を上げ、足を押さえて動けずにいる魔物に、彼はつかつかと近づいていく。
「さあ、もう逃げられないよ。
いい加減に、アンドラスを解放したらどうなんだ?」
魔物は、弱々しく首を振った。
「……それは、できぬのだ……」
「まだ、痛めつけられたいのかい? しぶといなぁ……」
リオンが困ったようにつぶやいた時、ライラが叫んだ。
「そいつを殺して、リオン!」
「えっ……? 今、何て……」
「殺してと言ったのよ。お、弟を……アンドラスを救うには、それしかないの!」
「ええっ──!? ど、どういうことだよ、それ!?
そ……そんなこと、誰も言ってなかったじゃないか……!」
彼の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「アンドラスは、融合してしまっているのよ、魔物と。
“血の契約”というものを交わし、魔物に取り込まれてしまった人間は、もう元に戻れないの。
魔物に意識を……心を乗っ取られ、怪物と化してしまうのよ。
だから──だから、殺すしかないの、弟を魔物から解放するためには!
お願い、アンドラスを殺して、楽にしてやって!」
リオンは、初めて知った事実に衝撃を受け、頭の中が真っ白になるような感覚に囚われていた。
「そ、そんなことってある……? こ、殺す……ぼくが……? この手で……?
ああ……何で、もっと早く言ってくれなかったんだ?」
「ご、ご免なさい……ご免なさい!
あなたが苦しむと思うと、どうしても言えなかったの……きっと、まともに戦えなくなってしまうと思って……」
ライラは涙を浮かべ、うつむいた。
「い、いきなり、殺せだなんて言われたって、出来ないよ、出来っこない!
だ、だって、ライラ、この人は……こんなになっちゃっても、キミの弟なんだろう?」
彼女の苦しい胸の内は、分からないでもなかったが、自分が手を下すなど、リオンは考えたくもなかった。
魔物と融合しているといっても、アンドラスは人間……しかも、自分の恋人の血を分けた、たった一人の弟だったのだから。
長い間孤独に暮らして来たリオンには、血のつながりが、とても大切なものに思えていた。
「い、いいのよ、アンドラスもきっと分かってくれる……いえ、魔物になってしまうくらいならと、それを望んでいるに違いないわ……」
「どうして分かるの、そんなこと?
ぼくには出来ない……これだって、やっぱり、人殺しじゃないか……!」
「──違うわ! もう弟は人間の心は持っていないの、人間ではなくなっているのよ!
だからお願い、リオン!」
涙ながらに、王女は訴えた。
「ライラ……」
二人が話に夢中になっていたとき、遙か上空に、黒い染みのような影が現れた。
それはものすごい勢いで近づいて来たかと思うと、急降下し、ライラ目がけて襲いかかった。
「──きゃああああ!」
「ライラ!」
黒い影は、王女の体をわしづかみにし、そのまま再び空中に舞い上がった。
「いやあ! 助けて、リオン……!」
「今助けるよ、ライラ!」
「──動クナ! 動クト、コノ女ノ命ハ、ナイゾ……!」
影の主はしゃがれた聞き取りにくい声でそう言い、鋭い牙がずらりと並ぶ口を大きく開けて、リオンを
ライラをさらったのは、一羽の巨大なコウノトリだった。
「──フィジィック!
ようよう参ったか、シャックス。……
その隙に、魔物は回復魔法を唱え、立ち上がった。
「……申シ訳ナイ、主ヨ」
コウノトリの姿をした魔界の略奪侯爵シャックスは、一応は主人に謝ったものの、密かに鼻を鳴らしていた。
限度一杯まで姿を隠しているよう命じたのは、当の魔物だったからだ。
「くそっ! 卑怯だぞ、お前たち!」
ギリリと歯を噛みしめたリオンを、魔物はせせら笑った。
「ふふん、奥の手は、最後まで取っておくものだ。
それにどの道、軟弱な貴様では、我の命を奪うなど出来ぬであろうが?
加えて、まことに好都合なことに、人間に近き貴様はともかく、サマエルも“焔の眸”も、“掟”に縛られ手出しは出来ぬ。
我が、この人間、アンドラスの体にいる間はな。クックック……。
それに致しても、ライラ、お前は美しい……。しもべなどではもったいない、我が妃となり、共に人界を支配する気はないか?
無論、人界ばかりではなく、魔界、天界、三つの世界すべてを、やがては我が手に……」
ライラは身震いし、コウノトリから逃れようともがいた。
「汚らわしい! よりによって、弟を怪物にしたお前の妃になど、誰が!
は、放しなさい、この──巨大なニワトリ!」
「何ヲ申ス! 我ハ“こうのとり”ゾ! にわとりナドト一緒ニスルデナイ!
──愚カナ女メ! 今スグ、食ラッテヤッモイイノダゾ!」
くちばしを大きく開き、鋭い歯を不気味に光らせて
「た、食べられるものなら、食べてみるがいいわ!
さっき、わたしも、チキンを食べたばかりよ!」
「クッ……コ、コノ生意気ナ女メ! ソレホド死ニタイカ。
ナラバ、希望通リ、ソノ腹ヲ引キ裂キ、内臓ヲ引キズリ出シテ、食ラッテヤルゾ!」
すると、魔物は、忍び笑いを漏らした。
「クッククク……まあそう怒るでない、シャックス侯。
女の申すことに、いちいち目くじらを立てるなど大人げないぞ。
ふふふ、気の強い女は好みだ、後でゆっくり可愛がってやるとしよう」
「ラ……ライラに手を出すな!」
その声のいやらしい響きにカッとなったリオンは、魔物に駆け寄ろうとした。
「動くな、と申したのが分からぬか!
殺しはせぬが、少々ならば、痛めつけてやることはできるのだぞ。
──シャックス!」
魔物は、すいと手を上げる。
それを見た魔界侯爵は、王女の胸元に突きつけていた鋭いくちばしを、目にも止まらぬ早さで動かした。
「っ……!」
ライラは歯を食いしばり、悲鳴をこらえる。
彼女の滑らかな白い肌に、さっと一筋、傷がつき、鮮やかな紅い血が、ほんの少し、豊かな胸元を流れた。
「どうだな?」
魔物は唇を歪め、リオンを見る。
「や、やめろ、もうやめろっ……ライラを傷つけないでくれっ!」
彼は青ざめ、髪をかきむしってその場にへたり込んだ。
「フッフフフ、これ以上傷つけたりはせぬよ、我が妃となる娘だからな。
それはさておき、おぬしをどうしてやろうか、サマエルの血を引く若者よ?
……左様、何はともあれ、思う存分先ほどの礼をしてから、やはり
生かしておいては
魔物は
「逃げて、リオン! わたしは平気だから!」
必死にもがく彼女の血が、胸元のペンダントに触れた瞬間だった。
目も
「──な、何事っ!?」
魔物は思わず眼をかばう。
「どうしたの、ライラ、大丈夫なのかい!?」
盲目状態になりながらも、リオンは、ひたすら彼女の身を案じていた。
「──ライラーッ!」
そのとき、地下にいたダイアデムが、弾かれたように眼を開けた。
宝石の化身である彼は、王女の血が流され、自分の右眼が宿っていた石に滴ったことを感知したのだ。
一瞬で地上の状況を見て取ると、彼は、怯えも困惑も自責の念も忘れて、立ち上がった。
「なんで助けに行かねーんだ、サマエル! ライラがどうなってもいいのか!?
彼女を見殺しにしたら、リオンに一生恨まれちまうぞ、大体、あいつもやべーじゃんか!
見損なったぜ、そんなに自分が可愛いのかよ、畜生! お前が行かねーんだったら、オレが行ってやる!
シャックスは寄生してねーし、あいつならぶっ殺したって、どっからも文句来ねーだろが!」
「待つのだ、ダイアデム。お前が行くことは許されない」
サマエルの声は、あくまでも冷静だった。
「うるさい! オレを止めるにゃ、もうオレを殺すっきゃねーぞ!」
彼は、持ち前の気の強さを取り戻して、王子を睨みつけた。
美しい輝きを放つ紅い瞳が闇中で光を増し、黄金の炎が、怒りと共に明るく燃え上がる。