10.闇黒 の君主(2)
「? え……? 頭に、何かあるの?」
ライラは、きょとんとした。
アンドラスの頭についている物体は、通常、人間には決して見えないものだったのだ。
「──あっははは……! 引っかかったね! ぼくは別に、“頭にある”なんて言ってないよ。
それにさ、二本の尖ったものって、何だと思ったんだい?
牙かもしれないし、棒、いや、剣ってこともあるよな。
あっははははは……!」
リオンは大声で笑い、アンドラスは悔しげに拳を握り締めた。
「くそぉ……」
「? ……リオン、どういうことなの?」
まだ事情がよく飲み込めないでいるライラに、彼は笑いながら教えた。
「ははは……あのね、ライラ、こいつの頭には立派な“角”が生えてるんだよ、魔物のね。
でも、キミには見えていないようだし、こいつも、そのつもりでカッコつけてるから、ちょっとからかってみたんだ、そしたら、ものの見事に引っかかってくれたのさ、あははは……」
「た、
アンドラスが憎々しげにそう言い返すと、リオンは笑いを納めて真顔になった。
「……それはお互い様じゃないのか?
いい加減に正体を
ぼくは、お前を倒すために来たんだ!
──さあ、今ならまだ許してやってもいい、しっぽを巻いて、さっさと魔界へ帰れ!」
しかし、今度はアンドラスが、お返しとばかりにせせら笑った。
「ふふん、しっぽを巻いて帰れだと!?
誰に向かって左様な口を利いておるつもりだ、この貧弱な子ネズミめが!
我の恐ろしさを知らぬ哀れな人間よ、虫けらのごとく、一撃でひねり潰してくれようぞ!」
そう叫んだアンドラスの体が、突如、ぐにゃりと歪んだ。
「キャーッ!」
思わず、ライラは悲鳴を上げる。
自分の眼を信じられずにいる彼女の前で、弟の姿は、溶けるように崩れたかと思うと形を失い、徐々に何か別のもの……見るもおぞましい怪物へとその姿を変え始めたのだ。
まずは、肌がぬめぬめと黒光りし始めたかと思うと、背がぐんと伸びて元の倍以上になり、肩からは腕が次々と突き出してきて、最後には六本にもなった。
口は耳まで裂けていって、鋭い牙がずらりと並び出し、アンドラスとは似ても似つかない、恐ろしげなものと成り果てた顔には、
そして、リオンが言った通り、針ねずみのように尖った髪の間からは、太い角が二本生えている。
アンドラスが、取り憑かれただけではなく“血の契約”を交わし、魔物と融合してしまっていることは、これで明らかとなった。
「どうだ、これが我が姿だ。恐ろしくて声も出まい?
されど、泣いて命乞いをしたとて無駄なこと、一ひねりで
魔物は、鬼火のごとく燃え上がる瞳で、ライラとリオンを見すえ、
「何それ……くすくす」
だが、リオンが恐れるどころか、またもや笑いを漏らしたので、面食らった魔物は、四個もある眼を同時に細めた。
「こやつ、恐怖のあまり狂ったか……いや、その割には落ち着き払っておる……?」
「──お前……」
そのときだった。突然リオンが右手を上げ、すっと魔物を指差したのは。
「な、……」
魔物は息を呑む。
「……てんで弱いね。魔力は、ダイアデムよりは強いようだけど。
お前はライラを苦しめ、悲しませた。許せない……だから、ぼくは、お前が許せない!」
「き、貴様は、一体……?」
「ぼくは……うっ」
変身するつもりは、リオンにはなかった。
だが、彼の怒りに封印の紋章が反応して紅い光を放ち始め、朱色の輝きで、彼の体が覆われていく。
(駄目だ、抑えられない……体が勝手に、変身を始めてしまう……!)
リオンは、体が成長し服が破れると同時に、自分がイメージした服を、魔力が一瞬で創り出すのを感じた。
体に合う闇色の上下、その上に羽織ったフードつきの黒マントは、紅い宝石がついたピンで留められ、左胸には輝く糸で、紅い龍──サマエルの紋章が縫い取られている。
龍の眼にも紅い宝石がはめ込まれて、今にも動き出しそうに見え、そしてマントの裏地は、鮮やかなヴァーミリオン……朱色だった。
一番上に着けた瑠璃色の肩当てと胸当ては、
ここまで来てしまっては、もう、隠していても無駄だった。
彼は、フードをはねのけ、額にある魔族の
「我が名はリオン。魔界の第二王子サマエルの血を引きし者、“
彼の正体を知った魔物は青ざめ、後ずさった。
「な、何っ……な、ん……だと……! サ、サマエルの……?
そう申せば似ておる、若い頃のヤツに……!
で、では、あやつもここに、参ってておると申すか……!?」
「そうだよ、どこか近くにいるはずさ。
だけど、お前が彼を知っていたとしても、もう遅いよ。覚悟はいいかい? さて……」
リオンが呪文を唱えようとすると、魔物は慌てて手を振り回した。
「ま、待つがよい! まことか、貴様が、“カオスの貴公子”……魔力に
「彼が魔界の王様より強いかどうか分かんないけど、ぼくは嘘なんかついてないよ、証拠を見せようか。
ほら、これ、何だか知ってる?」
リオンは手を高く掲げ、甲にある紅い痣を見せた。
「そ、それは、“紅龍の紋章”!
ま、参った、貴様がサマエルの血を引く者ならば、
それゆえ、見逃してくれ、二度と人界で悪さはせぬ……!」
魔物は態度を豹変させ、恥も外聞もなく這いつくばって、頭を砂にすりつけた。
リオンは、卑屈な命乞いをする魔物が、ますます嫌いになった。
「だったら、早く、アンドラスの体から出て行けよ!」
「そ、それは出来ぬ……」
「何だって? それじゃあ、許しようもないじゃないか、この卑怯者!
──パーニシャス!」
理由を知らないリオンは、容赦なく呪文を唱えた。
「ま、待て……うわあっ!」
腕に直撃を受けた魔物は、よろけながらもどうにか踏み止まり、傷を押さえて、大きく息をついた。
「く、くそっ、……もはや、これまでか……!」
「やっと出ていく気になった?」
リオンは安堵したように言ったが、魔物は、彼の想いとはまったく逆の答えを口にした。
「ふん、何ゆえこの我が、左様なことをせねばならぬのだ?
この体は決して手放さぬ、その時がどうせ、我の最期なのだからな……!」
「えっ? まだ
驚く少年を尻目に、魔物は、四つの眼を暗く翳らせて、自分だけの思いに浸り込んでいくようだった。
「かくなる上は──この小僧を倒し、強大な魔力を我が物とすることとしよう。
我とて、魔界では名の通った貴族。いかに魔界の王子の血を引くとは申せ、たかが人間ごとき、偉大なる我が力の前では赤子同然!
その上でサマエルを倒し、ヤツの力をも吸収すれば、人界のみならず、魔界……果ては目障りな天界をも手中に納めることも、たやすかろう!
くくく……その時こそ、この我が、三界の真なる支配者となるのだ……!」
リオンはあきれた顔をした。
「人間に取り憑いたりして、どうするんだろうって思ってたら、そんなこと考えてたわけ?
でも、そううまくいくかな? さっきは敵わないって、自分で言ってたくせに」
すると、魔物は顔を上げ、自信有り気に笑い出した。
「がっはっは……! あれは、貴様の油断を誘うため、口に出してみたまでのことだ。
我が真の力、とくと見るがいい、
“魔界の闇よ来たれ、我に力を与えよ”!
──はあああああ………!」
魔物は、両の拳を握り締め、気合いを溜め始めた。
黒光りする筋肉が盛り上がり、体が膨張するにつれ、周囲に黒い炎が燃え出して、魔物の体にまとわりついてゆく。
立ち込める邪悪な魔力が、太陽の光をさえぎり、辺りは薄暗くなり始めた。
それでも、リオンには、相手が大した魔力の持ち主のようには感じられなかったが、万一ということもある。
彼は、ほんのわずか警戒を強めた。
「こ、怖いわ、リオン……」
彼の緊張を敏感に察したライラが、しがみついてくる。
リオンは、優しく彼女の手を取って、安心させた。
「大丈夫。心配はいらないよ、ライラ、へっちゃらさ」
それから魔物に視線を移す。
「たしかに、さっきよりは魔力が強くなって来たみたいだね。
でも、お前、それでぼくを倒せるかな?」
「ほざけ、小童! されど、まだ遅くはないぞ、這いつくばって命乞いをするならば、助けてやってもよい、お前は、なかなかの美童でもあることだしな。
我がしもべとなるならば、ライラともども、永遠に可愛がってやってもよいぞ?」
「うっへぇ……遠慮したいね、それは。……想像するのもごめんだ」
リオンは、とてつもなく嫌な臭いを嗅いだとでもいうように、鼻にしわを寄せた。
「それは残念。なれど、まあよいわ、遅かれ早かれ、貴様は我のものとなるのだからな!」
魔物は叫び、懐から古びた革表紙の本を取り出す。
年古りて元の色も分からないほど黒ずんだ書物が、魔物の手の中で異様な光を発し始めた。
「──見よ!
この“禁呪の書”には、この三界でも最強と
それを我は、血のにじむような努力の末、解呪したのだ!
さあ、覚悟を決めるがよい、小童!
──次元の狭間に封じられし闇黒の呪法よ、その偉大なる力を以て、我が
今、“ペオル山の主”が、汝の封印を解く!
──マーリス・アフォースォート!」
必殺の気合いを込め、魔物が放った魔法が、リオン目掛けて襲いかかる。
「危ない、リオン!」
ライラは叫んだ。
「──カウンター・ベイル!」
「な、何……っ!?」
しかし、それは、あまりにもあっさりと、リオンの魔法で無効化されてしまったのだった。