~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

10.闇黒(あんこく)の君主(1)

「……とうとう来たのね、アンドラス」
ライラは、ほどなくやってきた弟王を、リオンの家の外で迎えていた。
「これは姉上、お久しゅうございます。
砂漠にて、不思議な光を見たと報告があり、取り急ぎ参上した甲斐がございました。
ご無事なお顔を拝見して、こんなにうれしいことはございません」
アンドラスは丁重(ていちょう)な口調でそう言い、礼儀正しく頭を下げた。

そんな弟を、ライラはじっくりと観察した。
急いでやって来たと言う言葉を裏付けるように、頭には略式の王冠すらなく、父王譲りの褐色の髪は、普段使いの革ベルトで留められているだけで、服装も、王であることをことさら誇示するような華美なものではなかった。

「……しかし、ここは暑いですね……」
姉に疑われていることを知ってか知らずか、顔を上げたアンドラスは、いかにも暑そうに、額に噴き出た汗を袖でぬぐった。
「当たり前でしょう、砂漠を通って来たんですもの」
「そうでした。砂漠というのは、想像していたよりも暑いところなんだな。
こういうところへくると、やはりもっと国土を回って、自分の眼で確かめねばならないと実感しますよ」

だが、ライラがいくら疑惑の眼差しで見ても、弟の様子には異常なところはまったくなく、それどころか、少し見ぬ間に、王としての威厳も多少は備わってきたようにも感じられた。
邪悪なものに取り憑かれたと思ったのは、勘違いだったかも知れない……王女はそう思い、以前のように親しい態度を取りそうになる。
だが、それも一瞬のことだった。
自分は危くこの弟に殺されかけ、命からがら城を脱出したのだ。

「お前が探していたのは“焔の瞳”でしょう? わたしではなく。
でもお生憎(あいにく)様ね、ここにはないわ!
いえ、たとえ今、持っていたとしても、お前には渡さない。
悪魔に魂を売り渡したお前には、この国の──いいえ、どこの国であろうと、王になる資格などないわ!」
怒らせれば尻尾を出すだろうと考えたライラは、わざと手ひどく、弟を非難した。

しかし、意外なことに、アンドラスは怒るどころか、彼女に微笑みかけた。
「……おやおや。これはきついお言葉ですね。まあ、誤解なさるのも無理はありませんが。
ですが、少し落ち着かれて、まずは僕の話を聞いて頂けませんか、姉上」
「な、何を聞けと言うの?」
幾分鼻白み、王女は聞き返した。

「僕はあのとき、姉上に危害を加える気は、毛頭なかったのですよ。
ですが、混乱した城内で命令がうまく伝わらず、兵士達が姉上を、牢に押し込めるなどという蛮行(ばんこう)に及んで<しまい……。
慌てて釈明(しゃくめい)に伺ったのですが、一足遅く、姉上は、城を出てしまわれた後だったのです」

「……そ、それは本当なの?
でも、お前は代々仕えてきた家臣達を、次々に拘置(こうち)していったじゃないの!
どういうつもり!?」
なじられたアンドラスは、暗い顔になった。
「あの者達は、皆、反逆者だったのです。
父上が亡くなられ、僕が王位を継いだのを期に、事を起こそうとしたため、投獄及び処刑しました。
僕は、姉上も危険にさらされていると判断し、保護するために兵士を向かわせたのですが……」

「そうだった……の?
けれど、あれほど多くの家臣達が、全員、そんな悪者だったとは考えられないわ」
「姉上、長年仕えてきた臣下の裏切りを、信じたくないお気持ちは十分お察し致しますが、これは真実のことなのですよ」
アンドラスは、厳粛(げんしゅく)な口調で言った。

「ええっ、彼らがすべて謀反(むほん)人!?
あのアルパードまでがそうだと言うの?
片腕を失っても、忠実にお父様を守り通し、英雄と呼ばれた彼が?
そんなことをして、何の得があると言うの……英雄から一転、裏切り者の刻印を押されることになると言うのに。
他の者達だって、そうだわ……」
アルパードは、隣国の先王が戦を仕掛けてきた際、若かりし頃の父、ペール十二世のかたわらで勇敢に戦い、王をかばって片腕を失ったほどの忠臣だった。

「悪党の胸の内など、僕には(はか)りかねますよ」
アンドラスは肩をすくめた。
それを見たライラは苛立ち、否定の身振りをした。
「いいえ、少なくともアルパードに限っては、そんなことをするはずがないわ」
「お言葉ですが、もし彼が隣国から、……そうですね、たとえば法外な報酬、または、ファイディー国の乗っ取りが成功した暁には、国王にする……などといった条件を出されていたとしたら、いかがです?」

途端に、王女は柳眉(りゅうび)を逆立てた。
「何てことを言うの、お前は。
アルパードの性格は、小さい時から見知っているでしょう、曲がったことが大嫌いなのよ、彼は。
それにわたし、見たのよ、お前の背後から、黒い変な影みたいなものが出て来て、拳を振り上げるのを。
そいつは、『陛下、今こそ禁じられし古代魔法で、世界をひざまずかせるのです!』と叫んでいたわ、言い逃れが出来て? アンドラス」

姉に見られていたことを知っても、しかし、弟王は顔色一つ変えなかった。
「……何ですか、それは? 僕にはまったく身に覚えがありませんね。
姉上の眼の錯覚か、でなければ、何かを聞き違えられたのでしょう。
それではまるで、僕が、悪魔か何かに取り憑かれているようではありませんか」
「錯覚などではないわ!
お前に最初に手打ちにされた侍女、エリンも一緒に見たのだから!
──お前はおぞましい魔物に取り憑かれ、とっくに王の資格を失っているのよ!」
緑の眼を燃え上がらせて、ライラは激しく指を突きつける。

アンドラスは眉を寄せ、姉から視線を外した。
「やれやれ……よほど僕を、悪魔憑きにしたいご様子だ。
ならば、仕方ないですね。お言葉を返すようですが、姉上、そう仰るあなたこそ、悪魔に魅入られておいでなのでは?」
「な、何が言いたいの、アンドラス……」

「シンハとも呼ばれるようですが、ダイアデムという魔物をご存じですか?
その者は夢魔。つまり、人の心の闇に巣くって思う通りの夢を見せ、自分の……(とりこ)にしてしまう、恐ろしい悪魔なのですよ」
「ええっ、ダイアデムが夢魔ですって……!? 
そんなの嘘よ! 彼は、イナンナに振られたと言っていたわ、心を操ることが出来るのなら、嫌われたりするわけがないでしょう!」
思わず、彼女は叫んでいた。

「イナンナ? ……ああ、“焔の瞳”を持って嫁いで来たという、ご先祖様のことですね?
でも、そんな大昔のことを、どうやって確かめるんです? 言うだけなら、どんなことだって言えますよ。
口がうまい魔物なんて、星の数ほどいるんですからね。
……そう言えば、あなたは、まだ何もされていないんですか? 姉上。
もっとも、ぐっすり眠らされている間に、何をされようと、気づかないかも知れませんけどね……くっくっく……」
アンドラスは、彼女の顔を見つめていやらしく笑い、ライラは信じたくない思いで弟を見つめた。

「ア、アンドラス! そんなことを言うなんて……やはりお前は、もう……」
「どうしました、姉上? まるで幽霊でも見たような顔色ですよ?
何か、思い当たる節でもおありになるのですか? ふっふふふ……」
唇を歪めながら近づいて来るアンドラスの表情は、弟として見知っていた少年のそれではなく、まるで見も知らぬ他人が、弟の皮をかぶって動かしているかのようだった。 
「こ……来ないで!」
ライラは身震いし、後ずさった。

「──待て!」
そのとき勢いよく扉を開け、リオンが家から飛び出して来た。
「……な、何奴だ!?」
気配をまったく感じ取ることができなかったアンドラスは、驚いて叫ぶ。
「これ以上彼女に近づくな!」
リオンは王をけん制しつつ、王女を後ろにかばい、尋ねた。
「ライラ、大丈夫?」

「え、ええ、平気よ。ちょっと恐かっただけ。
リオン、残念だけど、アンドラスはやはり、魔物に取り憑かれてしまっているわ……」
「そうか、やっぱり……」
一瞬悲しげな顔をしたリオンは、すぐに気を取り直して顔を上げ、キッと王を見据えた。
「それにしても、お前は、随分たくさんの魔物と知り合いみたいだね、そんな言い方をするところを見ると」

どこか(けん)のある表情をした十八歳のアンドラスに対し、十五、六歳くらいにしか見えないリオンは、素直で優しそうだった。
だが、その栗色の眼は、ここ数か月の試練を経て深みを増し、複雑な色合いを取り始めていて、彼は、今まで見せたことのない、皮肉っぽい笑みを浮かべていた。

アンドラスは、あっけにとられたように彼を見ていたが、大した相手ではないと踏んだのだろう、急に見下した態度になった。
「我が王家には、魔物に関する古文書も多くある。余はそれで学んだのだ。
そういうお前は何者だ? 随分みすぼらしい身なりをしているな。
ふん、こんなあばら屋に住んでいる者なら、仕方がないか」

「失礼なことを……!」
「ライラ、ここはぼくに任せて」
憤激する彼女をリオンは制し、ファイディー国王に向き直る。
「お前、住んでいる家や着ている服で、相手を差別するのはよくないね。
それに、ダイアデムは夢魔なんかじゃないよ。予知夢を見る力はあるけれど。
彼は魔界の王位の象徴……王家の守護精霊でもある。
そして、もちろん、彼は嘘つきじゃない、嘘をついているのはお前の方だ!」

彼に指をつけつけられた途端、今まで余裕たっぷりだったアンドラスの顔色が、変わった。
「な、何で、そんなことを知っているのだ!?
そうか、お前……ヤツと一緒にいたのだな?
あやつはどこだ! どこにいる!?」
「さあね。それよりも、お前こそ誰なんだい?」

「──何だと、無礼な!」
アンドラスは一瞬むっとした顔をしたものの、すぐに小馬鹿にしたように言い返した。
「……ふっ、そうか。
このような未開の地に()み着いておる者が、余の顔を知らぬのも無理はないな。
ならば教えてやろう。余は、アンドラス・ルドウィック・メイラ・ファイディーズ・レックス十三世だ。
年若いとは申しても、この国の王なのだぞ!」

リオンは肩をすくめた。
「へえー、じゃあ、お前は、あくまで、人間の王様だって言い張るつもりかい?
だったら聞くけど、そこにある二本の尖ったものは、一体何なんだ?」
「何っ!? 馬鹿な、これが見えるはずはない……!」
王は彼の言葉に釣られ、つい、頭を押さえてしまった。

柳眉(りゅうび)を逆立てる 美人が眉をつり上げて怒る。
険(けん)(「権」「慳」とも書く) 顔つき・目つき・物言いなどに表れるきつい感じ。また、とげとげしさのあるさま。