~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

9.すれ違う心(4)

「──涙など流すな! アンドラスに気づかれてしまう。
リオンを窮地に陥れる気なら、ここに魔法陣を描き、即刻、お前を魔界へ帰すぞ!」
自分の思いに耐え切れなくなり、今にも眼から涙がこぼれ落ちそうになっているダイアデムの耳に、低いが、ムチのように鋭い声が飛び込んで来た。

「え、あ……な、泣いてなんかいねーよ、ほら。リオンの邪魔なんか、してねーだろ……」
慌てて眼をこする、紅毛の少年に向けられた王子の眼差しは、冷たいどころではなく、氷の刃のようだった。
「まだ居座るつもりか、さっさと魔界に帰れ!」
言い捨てて杖を取り出し、サマエルは足元に魔法陣を描き始める。

ダイアデムは驚愕し、彼に駆け寄って必死の思いで訴えた。
「──待てよ、待ってくれ!
ま、まだ終わってねーぞ! せめて結果くらい教えてくれ、そしたら速攻で帰るから……!
それくらいならいいだろ、オレやシンハはともかく、フェレスは、ほんのちょっとでも、お前の役に立ったんだからさ、な?
お願いだよ、サマエル! いや、お願いします……!」

「しつこいな、お前はもう、関わりがないと言っているだろう!
それとも、私が信用できないのか?
子孫と、好意を抱いている女性を困らせるような真似を、私がするとでも思うのか?
ジルを忘れたわけではないが、彼女はもういないのだし、ライラもまた、素晴らしい女性だ。
もし、リオンがいなかったら、私は……」

「……え、えっ!?
サマエル、お前、やっぱりまだ、ライラのこと……?
ヤバイだろ、そりゃ。彼女はもう、リオンのもんなんだぜ、早く忘れちまわねーと……」
ダイアデムは眼を白黒させ、つい、いつもの調子で口を挟んでしまった。
刹那、瞳に再び暗く激しい闇の炎が燃え上がり、サマエルは拳を振り上げた。

「この私に指図するつもりか! 私が誰を愛そうと、態度に出さなければいいだけのことだ!
大体、彼女は、お前と違って物ではないのだぞ、その言い草は何だ!」
「ひいぃっ……ご免よぉ……!」
王子の剣幕に怯えた華奢な少年は小さく悲鳴を上げ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。

「タナトスは、お前に礼儀を仕込まなかったのか、この無礼者!
一度、痛い目に遭わなければ分からないようだな!
──さあ、立って歯を食いしばるがいい、“焔の眸”!」
低く抑えたサマエルの無慈悲な声が、ダイアデムの鼓膜に響き渡る。

自分よりも遙かに強大な力を持つ、魔界の王子の怒りの前では、まったくなす術などないことを、彼以上によく知っている者はいなかっただろう。
破壊される恐れだけはないものの、いや、だからこそ、壊すことが出来ない欲求不満の分だけ、拳で与えられる打撃はすさまじいものになるだろうと、ダイアデムには予測がついた。

それでも、仕方がなかった。
覚悟を決めた宝石の化身は、力が入らない足を励まし、やっとの思いで立ち上がった。
「サ、サマエル……オレのこと、憎いんだろ? 好きなだけ、ぶてばいい……。
体中の骨、バラバラにされたって文句言わねーさ……。
けど──だけど、オレはまだ、このままじゃ帰れねーんだ……!」

すると、一途(いちず)な思いが冷え切った心にも届いたのだろうか、サマエルは、すぐに彼を殴ろうとはせず、腕を振り上げた格好のまま、尋ねた。
「……なぜ、それほど、残ることにこだわるのだ?」
「決まってるじゃんか、イナンナとの約束を守るためだよ。
オレはもう、誰との約束も破りたくねーんだ。
たとえ、お前が守る気なくたって、オレはちゃんと守るよ、だから……」

「何を生意気な!」
「ひ……っ……!」
拳を固めた王子が近づいて来ると、ダイアデムの顔は恐怖で引きつり、思わず後に退がった。
いつもは豪華に燃え上がっている瞳の炎も、針のように細く尖ってしまっている。
これから、どんな目に遭うかは、経験のある彼には簡単に想像できたのだ。
予知能力など働かせなくても、その痛みと苦しみを、鮮明に感じさえしていた。

今度は、一発では済まないだろう、抑えに抑えていた怒りが爆発するのだから。
そう彼は思った。
十発か、いや百発、ひどいときには、リオンが戦っている間中、殴られ通しと言うこともあり得る。
(ブチギレたヤローってぇのは、手加減しないからな。
仕方ない、仕方ないけど……ああ……痛いのはイヤだ……思い出しちまう、あの……恐怖を……)

どうしようもなく恐れ(おのの)き、後退(あとずさ)りしながら、宝石の化身はすでに、今後のことに思いを巡らせていた。
アンドラスとリオンとの決着がついて魔界に帰ったら……魔界王には、サマエルとのことは何も報告しないでおこうと。

なぜなら、自分が、弟王子に散々な目に遭わされたなどと知ったら、単純なタナトスは即座に逆上し、今度こそサマエルを捕えようとするに決まっていたからだ。
そうなると、魔界と人界をも巻き込んだ、派手な兄弟ゲンカが始まってしまうだろう。
しかし、今は大事な時期だった。
一万二千年かけて、魔界はようやくトリニティーとの戦いで受けた痛手から回復しかけており、さらに“朱の龍”も見つかったのだ。
そんなときに仲間割れなどしていたら、勝てる戦いも勝てなくなる。

死の間際、サマエル達の母アイシスは、女神アナテの予言をこう伝えていた。
驪龍(りりょう)と紅の兄弟龍、朱と(みどり)の龍を従えて立ちし暁に、宿敵との戦に勝利する』と。
つまり、あとは残る一頭、“碧の龍”を見つけさえすれば、今度こそ魔界は、天界との全面戦争に勝つことが出来るのだ。
そのためには、自分が今、ここでどんなことをされようと、黙って耐えていればいい……。

ダイアデムが、そう心を決める間にも、サマエルは一歩一歩、音も立てずに近づいてきていた。
漆黒のローブをまとって地下の闇に溶け込み、眼を紅く燃え上がらせて。
無表情に淡々と歩を進める第二王子の背後からは、強力な魔力が陽炎(かげろう)めいて立ち昇り、それはまるで、獲物に襲いかかろうと翼を広げた巨大な龍のようにも見える。

“童子よ。やはり、あの折、我は『消滅』を選択すれば良かったのだな……。
さすれば、生き恥をさらすことも、ルキフェルに不要な苦悩を与えることもせずに済んだものを……。
『生』に執着したがゆえに、かような羽目に陥るとは……。
我の死に涙する者などおらぬというに、何ゆえ我は命乞いなど、致してしもうたことやら……”
心の中で、シンハの嘆きの声が聞こえる。

“しょーがねーよ。あんな目に遭ったらオレだって、殺さないでくれって、泣き入れちまったさ……。
けど、たしかに、オレ達『焔の眸』がなくなったって、誰も泣いたりしねーよな。
タナトスだって、儀式んときシンハがいねーと(はく)がつかねー、って文句言う程度だろーしよ……”
ダイアデムが悄然(しょうぜん)と答えた時、壁に背中がつき、もうこれ以上、後退出来なくなった。

そして、目の前に、すさまじい怒りを秘めた魔界の王子が立ちふさがる。
「あ…っ……」
現実に引き戻されたダイアデムは、自己破壊ができたらどんなにいいかと思わずにはいられなかった。
遙かな昔から呪縛され、“焔の眸”には、自決する自由さえも与えられてはいなかったのだ。

それでも、ダイアデムは、腐っても魔界王家の象徴だった。
彼は、涙にかすんだ眼で第二王子を見上げ、震える声で、しかし、はっきりと言った。
「シンハがやっちまったことは、オレがやったのもおんなじだ、ちゃんと(つぐな)うから、好きなだけぶちのめしゃいい。
お前の言う通りオレはただの“物”、魔力を帯びた“道具”、使い魔以下の存在なんだ、心置きなくやれよ。
……そうだ、オレの次に、シンハやフェレスも引っ張り出してぶん殴って……そんでもまだ気が済まなきゃ、全員殺せばいいさ。スカッとするぜ、きっと。
化身が死んでも“焔の眸”本体にゃ影響ねーし、フェレスのこと、タナトスは知らねーんだし、大体サマエル、あいつはお前が創ったんだ、生かすも殺すもお前の自由だ」

そのとき、シンハが、少年の口を借りて話に割り込んだ。
『我ら化身は、“焔の眸”に刻み込まれし情報の、血肉を具えた投影に過ぎぬ。
いったん消されたとしても、力ある者が呼び出せば、その者の記憶にある風姿として(よみが)る。
ゆえに、ルキフェル、汝の申す通り、我らの肉体をいかなる用途として使うもよし。
おそらく我が予知夢はこれを指しておったのであろう、汝に破壊されるは“焔の眸”本体ではなく、我ら……化身であったのだ……』

「ほら、シンハもこう言ってるぜ。
ともかく、タナトスがオレらを呼べば、ヤツの頭ン中にある通りに姿や性格が再製されるんだ。
厳密に言や、“そっくり同じに見える”別な化身なんだけど、どっちみち、あいつが気づく心配はねーさな。
ま、遠慮なくやれよ」

促されたサマエルの手が、今にも振り下ろされんとするかのようにぴくりと動く。
それを見ても、ダイアデムは眼を閉じることもしなかった。
彼が自分に与えるものは、痛みでも死でもすべて、逃げずに受け止めようと思ったのだ。

「そんな殊勝(しゅしょう)なことを言えば、私が同情するとでも思っているのか、甘いな、“焔の眸”。
──覚悟!」
ついにサマエルの拳が勢いよく突き出され、紅毛の少年は歯を食いしばった。

「──……!」
暗い洞窟の中に、鈍い音が響く。
だが、サマエルが殴ったのはダイアデムではなく、その脇の壁だった。
「えっ、あれ……っ?」
少年は眼を丸くした。
拳を引いたサマエルは、物問いたげな彼の視線を振り払うように横を向き、大きく息を吐く。

「“焔の眸”よ、魔界に帰ったら、礼儀作法を一から習うことだな。
いくら、王権の象徴としてちやほやされて来たと言っても、お前の無作法さにはあきれ返る、もう殴る気も失せたぞ。
それほど残りたければ、眼を閉じているがいい。
……まったく、しつこい上に愚かな石め……」

一瞬、以前の優しい気持ちを取り戻してくれたかと希望を持った宝石の化身も、ここまで冷え切った言葉を聞かされてしまうと、殴り殺された方がましだったような気がしてきた。
(……ぶん殴る価値もねーってか……。
ならもう、すっぱり諦めよう……これが、オレと『こいつ』の運命なんだ……)

「……分かった。眼つぶってりゃいいんだな?
あ、こういうときは、はいって返事するんだって、昔イナンナが教えてくれたっけ……。
はい、分かりました、サマエル、いいって言われるまで、眼つぶってます。 
終わったら教えてくれ……じゃないや、下さい。すぐ、いなくなるからさ。
これで……ここにいて、いいんだよな?」

返事も待たず、ダイアデムはへたり込むようにその場にうずくまる。
そして涙がこぼれないよう上を向き、まぶたを閉じた。
瞳の輝きが消え、辺りは真の闇に閉ざされる。
「……多少の礼儀は身に付いたようだな」
それへ何の興味もなさそうな、乾き切った眼差しを投げかけたサマエルは、沈黙の中、地上のリオン達へと心を向けた。

驪竜(りりょう) 頷下(がんか)の珠(たま) 《「荘子」列禦寇から》黒色の竜のあごの下にある珠。危険を冒さなくては手に入れることのできない貴重なもののたとえ。
殊勝(しゅしょう) 心がけや行動などが感心なさま。けなげであるさま。