~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

9.すれ違う心(3)

「わわっ、サ、サマエルっ……!」
すぐ隣に移動して来た第二王子の姿に、思わずダイアデムは、たじろいだ。
彼は、まだ痛みの残る頬を押さえ、出来るだけ目立たないようにと、離れて壁に張りつく。
(……ま、また何か、きついこと言われちまうのかな。
サマエル、お前に嫌われんのは、しょうがねーさ……今までが、今までだもんな。
けど……どうして、今頃になって? なぜなんだよぉ、いきなし……)

周囲は、一条の光さえも届かず、人間には何も見えない真っ暗闇、しかし、魔族である二人の眼には、一瞬前までいた真昼の砂漠同様、何もかもが鮮明に映っている。
彼らが隠れ場所に選んだのは、リオンの小屋から少し離れた地下、かつて水脈が通っていた、長く連なる空洞だった。
ここに水は久しく流れていなかったが、庭の泉はさらに深いところから湧き出ており、そのため、百年以上も枯れることはなかったのだ。

「……静かに。我々の存在を気取られぬように、と言っておいたはずだぞ。
お前の眼は、眩し過ぎて考え事の邪魔になる、閉じているがいい」
サマエルの押し潜められた声には、これまでの優しさの欠片さえ感じられず、ダイアデムは、淋しくそれを聞いた。
しかし、再び反論されるのではないかと怯えつつも、中途半端なままで終わるのが嫌だった彼は、勇気を振り絞って抗議した。

「け、けど、眼なんかつぶってちゃ、リオンが戦ってるトコも見れねーじゃんか。
せっかく、今まで手伝って来たってのに、そりゃねーぜ。
オレも一応、タナトスにも報告しなきゃなんねーんだし、なあ、ちゃんと最後まで見せてくれよお……!」
途端に、サマエルは不快そうに眉をしかめ、酷薄な視線を彼に送った。
ダイアデムの体は反射的に、びくりとした。

「──黙るがいい、お前が見る必要のあるものなど、ここには存在しない。
どんな結末だろうと、お前には関わりないことだ。
本来ならば、私の許へ彼らを連れて来た時点で、お前はお払い箱、後は私に任せて魔界へ帰るべきだったのだから」
「えっ、そ、そりゃあそーかもしんねーけど……だ、だったらなんで、そんときすぐに帰れって言わなかったんだよぉ……。
い、今さら、ンなコト言われたって……」

「理由は簡単、前にも言った通りだ。
ライラに私を諦めさせるのに、お前がいた方が好都合だったからだ、リオンの封印を早く解くためにもな。
それでも、たしかに色々と楽しませてもらったことは事実だ、一応、礼は言っておこう。
“焔の眸”よ、お前は、魔法使用時だけではなく、ありとあらゆる用途において、“道具としては”最高の部類に入るだろう。
だが、もう、お遊びは終わりだ。お前と私は、今後は一切、何の関係もない」
すげなくサマエルは言い切り、ダイアデムの顔色は、ますます悪くなってゆく。

それでも、彼は、第二王子の豹変(ひょうへん)ぶりがまだ信じられず、フードの奥に隠された表情を見ようと、必死の思いで眼をこらした。
「関係ないだなんて……なあ、サマエル、一体、どうしちまったんだ?
だ、だったら、あの約束も、やっぱし守る気なんかなかったってんのか?」
「約束? ……ああ、あれか。
そうだ、お前を都合よく操るために言った空約束だ。守るつもりなど、さらさらない」

無情にもサマエルは宣言し、ダイアデムは、のけぞらんばかりに驚いた。
「ええっ! そ、そんなぁ……魔界の王子が、嘘なんかついていいのかよぉ!
オレ、いや、フェレスは、あの約束だけを心の支えに……すっごく嫌だったけど、我慢してお前の相手してたのに……」

「ふん、そんなしおらしいことを言っても無駄だ。
第一、我慢していた? フェレスもしっかり楽しんでいたではないか!」
「だ、だって、お前は、あいつの生みの親なんだぜ。
親に望まれてうれしくねーわけはねーんだし、だから、フェレスは一生懸命……」

「……不服なら、さっさと魔界へ帰るがいい。
タナトスに泣きつくのだな、私にもてあそばれたと。
あいつは喜んで慰めてくれるだろうさ、私の悪口を、ありったけ並べ立ててな。
私は元々、お前ごときに興味などはない。
優しい言葉をかけたのも、手なずけるのに手っ取り早いと考えたまでだ。
まったく甘いな、“焔の眸”。お前には、あの性格の悪い男が似合いだ。
何しろ、お前自身が、伴侶として選んだのだからな」

サマエルが発する言葉はそっけなく、取り付く島もないように感じられる。
それでも、宝石の化身はまだ諦め切れず、懸命に話し続けた。
「サマエル、お前……魔力のことだけじゃなく、タナトスを魔界王にしたことまで恨んでたってのか?
け、けど、お前だって、王位(オレ)よか、女神(テキ)を取ったんじゃねーのか!?
だから、オレは、あいつを選ぶしか、なかったんじゃねーかよっ!」

「──白々しい、私を魔界王にする気があったのなら、なぜ、魔力を封じたりしたのだ!
その上、命まで狙ったのだぞ、お前は!
最初から、私を選ぶ気など毛頭なかったのだ! たとえ私が、女神と恋に()ちなくともな!」
「そ、そりゃ違う! 前にも言ったじゃんか……!」
「何が違うと言うのだ!?
お前は、自分を破壊すると予言された私に、王位を継がせぬようにするため、そばにいたのだろう!
私が王でなければ、お前を壊せる機会は、ぐっと減るのだからな!」

「……サ、サマエル……」
軽々しく私の名を呼ぶな、忌々しい石め!
お前は猿芝居と言ったが、本当にこれほど唾棄(だき)すべきと感じられた芝居はなかったぞ!」
“焔の眸”の願いも虚しく、第二王子は、怒りと恨みに満ちた言葉を投げつけて来るばかりだった。
語気鋭く発せられる台詞すべてが、尖ったナイフのように、ダイアデムの胸を刺し貫く。

「……つまり……お前は、オレを許した振りしてただけ……だってのか……?
オレは……操られ、踊らされてた人形だった……?」
呆然としながらも、宝石の化身は、自分が騙されていたのだと認めざるを得なかった。
「その通りだ。やっと分かったか、馬鹿な石め」
冷たく言ってのける王子の顔は、彼が罪を告白したあの時と同じく、無表情な仮面そっくりで、温かい感情は微塵(みじん)も読み取れはしない。

しかし、それも当り前と言えた。
守護すべき魔界王家の王子の魔力を封じ、さらに一度ならず殺害まで試みたというのに、それが許されるなどと思うこと自体、愚かだった。
にこやかな態度の裏側で、サマエルが自分をどれほど恨み、憎んでいたのか……おそらく、殺しても飽き足らないほどの思いで、この王子は、自分を見ていたのだろう。

第二王子はかつて、魔界王家の参謀、影の操り師などとも呼ばれ、魔界一の策謀家として名高く、その手腕で当時の王兄、魔界大公ベルフェゴールの陰謀を阻止したのだ。
そんな彼が、単純な自分を丸め込むことなど、あくびが出るほど簡単だったに違いない……。
宝石の化身は、おのれの愚かさを呪うしかなかった。

考えてみれば、いくら“焔の眸”が王権の象徴と言っても、他の石より多少美しいだけの宝石に過ぎず、王位継承権を捨てたサマエルにとっては、観賞用とする以上の価値はない。
それにまた、誇り高い魔族の王子が、生き物でもない半端者の自分に少しでも好意を持つことなど、あるわけがなかったのだ。
……たとえシンハが、彼に何も危害を加えていなかったとしても。

そう気づいたダイアデムは、口も利けなくなってしまい、震え出した体を静めようと、自分の肩を固く抱きしめた。
サマエルを見つめる切ない眼には、再び涙が浮かび始める。
それは瞳の炎の輝きを反射して、さらに美しく(きらめ)かせた。
だが、魔族の第二王子は、彼に眼もくれようとはしなかった。

(もう、サマエルは、オレを見ようともしない。
結果が分かったら、すぐ魔界に帰ろう。そして宝物庫で眠っちまおう。
思い出すたび苦しくて、胸が張り裂けちまいそうになるから……。
……ああ、そっか。これが、オレらがやっちまったことに対する罰なのか、サマエル……!
オレは“忘れる”ってことが出来ない……。
オレ達化身の経験したことは全部、“焔の眸”の結晶面に刻み込まれて、永遠に保存されちまうんだから。
シンハがお前にしちまったこと……それに対するお前の答え……永遠に覚えていて、苦しめ、って?
お前やタナトスが死に、リオンもそしてその子孫も生き物すべてが闇に消え、この星が、生命の存在しない土くれと化した後も、オレは今日のことは忘れない、忘れることができない!
──ああ、これが、オレらを消滅させる代わりの永劫の罰、なのか……?
そんなに、オレらが憎いのか、サマエル……!)

“童子よ”
ダイアデムが身を震わせたとき、シンハが心に接触してきた。
“ああ、おめーか。フェレス……はどうしてる?”
我に返って彼は尋ねた。
“眠らせておる。幼きあの者には、かような試練は未だ耐えられようはずもないゆえ”

“そだな。フェレスは、生まれたばっかの赤ん坊みたいなもんだしな……。
『オレ』にゃ親なんてもんは記憶にもねーけど、親に愛されねーガキってのも辛いもんがあるんだろ、なぁシンハ?”
“致し方あるまい、それが我らが宿運(しゅくうん)であるならば”
シンハの口調は、諦めに近かった。

“うん。……どっちみち、オレ達は、『あいつ』とは上手くいかねー星回りなんだもんな。
忘れなきゃ、これは夢なんだ……って思いながら、この二ヶ月ちょっとは幸せ過ぎて……今度こそ、上手くいくんじゃねーかって、淡い希望を持っちまった……。
ホント、バカだぜ、オレ……。
運命は、絶対変えられねー。ンなコト、山ほど見て来て、分かってたはずなのによ……”
ダイアデムは、うなだれた。

飢えたサマエルは、初めこそ、フェレスを無理矢理押さえ込んだものの、彼女が抵抗しないと知ると、優しく扱ってくれた……。
その後の二ヶ月あまり、彼ら“焔の眸”の化身達は、夢幻劇の中にいるようだった。
短い夜にはベッドの中で睦言(むつごと)を交わし、昼間は、耳元にささやかれる甘い言葉が夢境に誘う。
一応は嫌がる素振りをしながら、フェレスのみならず、ダイアデムもシンハも心が浮き立った。
それらが、すべて嘘、偽りの愛だったとは……。

たとえ、いっときでも、幸福な時間を持てたことを喜ぶべきなのかも知れないが、愛されていないどころか、憎まれていると知った今、王子のそばにいることは、彼らにとって、苦痛以外の何物でもなかった。
昔交わした、イナンナとの約束がなければ、とっくに魔界へ逃げ帰っていたことだろう。

(もうやだ。このまんま、溶けてなくなっちまいたい……。
オレらは、男でも女でも……大体、ナマモノじゃねーってのに、サマエルにゃ、ほんのちょっとでも、好いてもらいたくて、頑張ってその振りし続けてさ……。
その結果がこれかよ……オレ、もう、疲れちまったぜ……)
宝石の化身は、手で顔を覆った。