8.忍び寄る影(4)
「さて、ここら辺でいいだろう」
リオン達に声が届かない木陰まで来ると、サマエルはライラを下ろした。
「あの……何でしょうか、お話って?」
「今から告げることを、心して聞いて欲しい、ライラ。
……その……キミの……弟のことなのだが……」
ためらうように切り出す彼の口調に、不吉なものを感じて、王女の心臓は激しく鳴り出した。
「アンドラスが、どうかしたのでしょうか……?」
「落ち着いて聞いてくれ、ライラ。キミの弟はやはり、魔物に
それはたしかなのだが、詳細は不明だ。城を偵察させていた使い魔が、消されてしまってね。
今のダイアデムとなら、互角に戦えるくらい、強い者を行かせたのだが。
やはり敵は、かなり高位の魔物のようだ……」
「……そうですか……」
先ほどサマエルとリオンの話を小耳に挟んでいたライラは、眼を伏せたものの、さほど驚きはしなかった。
「……しかも、使い魔の死に際の報告では、さらに困ったことになっているようなのだ」
「え?」
王女は顔を上げた。
「アンドラスは、その魔物と、“イン・プロープリア・ペルソナ”と呼ばれる契約を、交わしているかも知れない。
これは、キミの弟が、自分の意志で魔物を受け入れていることを意味する。
だとしたら、事態は一層深刻だ。魔物は
サマエルは言いかけて
ライラは小首をかしげた。
「……融合している? その……契約とは、どのようなものなのでしょう」
彼女も幼い頃から様々な魔法を習ってはいたが、その名に心当たりはなく、弟がどういう状況に陥っているのか、その説明だけではよく理解できなかった。
王子は
「“イン・プロープリア・ペルソナ”とは別名、“血の契約”と言ってね。
その名の通り、力を欲する人間が、魔界より召喚した魔物におのれの血を与え、主従関係を結ぶというものだ。
しかし……これは、俗に“悪魔に魂を売り渡す
「ち、血を与えて、悪魔に魂を売り渡す……!?」
彼女の顔から、みるみる血の気が引いていく。
「そうだ。
この契約の恐ろしさは、初めこそ大人しく言うことを聞いている魔物が、血を飲む毎に力を増して、徐々に立場を逆転させていき、最終的には人間を支配し、取り込んでしまう、というところにある。
元々、人間には、魔物を思うがままに使役することなど、不可能に近いのだがね……」
そこまで言うと、サマエルは、一層沈痛な面持ちになった。
「……だから……ああ、この際だ、はっきり言ってしまおう。
もしそうなら、魔物を倒すためにも、アンドラスを殺すしかない……つまり、リオンがキミの弟を手にかけることとなってしまうのだよ……!」
「ええっ、リオンが、アンドラスを……!?」
衝撃的な話の内容に、ライラは頭の中が真っ白になり、全身の力が抜けてふらっと倒れかかった。
「──危ない!」
サマエルは、とっさに彼女を支え、樹木に寄りかかるように座らせた。
蒼白な顔で、ライラは聞き返す。
「そ、それは……ほ、本当のこと……なのですか……?」
「本当のことだ。
キミがリオンと弟との間で板挟みにならないよう、憑依か融合か、判断がついてから話そうと思っていたのだが、もう時間がない。
キミには見せない方がいいと、ダイアデムが言ったのは、こういう理由からなのだよ。
しかし、アンドラスが、必ずしも“血の契約”を交わしているとは限らない。
ただ憑依されているだけというなら、魔物を
そう答えるサマエルの顔にも、血の気はなかった。
王女は、必死に気を落ち着かせ、尋ねた。
「ア、アンドラスが魔物と契約をして……そ、そして……魔物に取り込まれてしまっていたら、本当に……殺すしか、方法は……ないのですか……?」
サマエルは辛そうな顔をしたが、すぐに気を取り直し、きっぱりと答えた。
「残念ながら、ない。
取り憑いた魔物が、もう少し弱い者なら、何とか出来たかも知れないが……。
もし、キミが魔物や魔法使いに血をくれと言われたら、何があっても拒否することだ。
もちろん、他の場合でも憑依されることはあるが、一番厄介で、決して破ることが出来ないのは、“血の契約”なのだよ……」
「……ああ……」
ライラは手で顔を覆い、その白い指の間から、涙があふれて滴り落ちる。
痛ましそうな表情のサマエルは、慰めの言葉の代わりに、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
少し経ってから、ライラはまた、はっとしたように顔を上げた。
「そういえば、わたし、ダイアデムを呼び出すとき、魔法陣に血を垂らすように言われましたわ。
それもひょっとして……?」
即座に、王子は否定の身振りをした。
「彼は、キミを騙すようなことはしないよ。
それに、彼が契約を交わした……と言うより、約束をしたのは、キミとではなく、先祖のイナンナとだからね。
血を欲したのは、魔力が少なく、自力で魔界との通路を開けなかったためだから、心配しなくていい」
「そうですか」
王女は胸をなで下ろした。
「魔物にも様々な者がいるのだ、人間にも色々いるようにね。
一万二千年前の……あんなこともあるし、簡単には信じてもらえないかも知れないが、我々は、人間に危害を加えるつもりはないのだよ。
リオンが頑張っているのは、キミへの愛からだし、私が手助けをしているのは……キミが、私の子孫の愛した人だからだ……」
沈んだ調子でサマエルが言うと、ライラは首を振った。
「いいえ、わたしも、人を見る眼はあるつもりでいますわ、サマエル様を信じます。
もちろん、リオンも、よく考えたらダイアデムだって、わたしに危害を加えようと思ってなんていないことは、分かっていたはずでしたのに」
「ありがとう。私の子孫は、良い女性を選んだね……」
サマエルは、心からの笑みを彼女に向けた。
ライラは思わず頬を染める。
その時だった、悲鳴にも似たダイアデムの心の声が、空間を越えて伝わって来たのは。
“──何やってんだよぉ、サマエル!
お前らが二人っきりで長いこといるもんだから、リオンが焼きもちやいて、オレに八つ当たりするんだぁ。
オレ、もうボロボロだよぉ、助けてくれぇ!”
“分かった、今行くよ”
「わたしも戻りますわ。練習で動揺していたら、どうしようもありませんものね」
“リオン、ライラも戻るそうだ。ダイアデムを、あまり苛めないでやってくれないかな。
誓って、私は、彼女に何もしていないから”
“ぼくは、別に焼きもちなんか焼いてないし、八つ当たりなんてしてませんよ!”
サマエルが送った思念に対して、少しすねたような、子供っぽいリオンの心の声が返って来た。
つい、サマエルは微笑み、それから、すぐに真顔になってライラを振り返った。
「ライラ、リオンを頼む。キミの最初の勘……彼を弟のように感じたのは、正しかったのかも知れない。女性の勘は鋭いからね。
彼は本当にまだ子供……ダイアデムも子供めいたところはあるが、それでも、あれだけ長く生きていれば色々と覚える。
それに引き換え、リオンは……彼の心は、人間として見たときでさえ、まだ成長し切っていない、柔らかなままだ……。
恋人としては、少々物足りないように思えてしまうかも知れないが……」
「お気遣いありがとうございます、サマエル様。
でも、ご心配は無用ですわ。わたし……彼のそんなところが好きなのですから」
そう答える彼女の澄んだ瞳には、温かい笑みがあふれていた。
「先祖として礼を言うよ、ライラ……」
「それに、リオンは、あなた方が考えているほど幼くはありませんわ。
万単位で生きる魔界の方々には、ほんの子供に見えるのは仕方ありませんが。
百年前といえば、リオンは五十歳。人間で言うと、いくつくらいに当たるのですか?」
王女の問いに、サマエルは一呼吸置いて答えた。
「……五十歳。ふむ、人間ならば、五、六歳といったところだろうか」
「初等科の一年生くらいですか。
それではやはり、魔界人と言っても、独り立ちなど出来る年ではありませんわね」
「そうだね……魔族でもなかなか難しいだろう、その年で独りで生きるのは」
「ですが彼は、お母様を亡くし、たった一人、異質なこの世界で生きて来たのです……。
あなたを見つけ、魔法が使えるようになることだけを心の支えに。
それすらも、半ば諦めていたようですわ。
ですから、リオンは、変身などしなくても、ある意味、とても大人びているように、わたしには思えます。
彼自身でさえ、気づいていないようですけれどね……」
そう言うと、ライラはくすっと笑った。
「自分は人とは違うという思いを抱きながら、百年間も独りぼっちで過ごす……。
あなた方にとっては、ごく短い時間かも知れませんが、小さな子供にとってそれが、どんなに大変なことなのか、サマエル様にはお分かりでしょう……。
彼はずっと、そうして来たのです。
わたしとダイアデムに会って、あなたの……魔族の血を引く者だということを知るまで……」
「ああ……分かるよ。私も孤独な時間が長かったのでね……。
子供の頃もそうだったし、ジルを亡くしてからも、かなり長い間一人でいた……」
「ええ、リオンから聞きました。
彼の視線が、ふっと宙をさまよい、遠くを見ているとき、彼はまるで、哲学者のように見えますわ。
……そういうときのリオンは、とてもあなたに似ている……。
そのため、わたしは、サマエル様を素敵なお方と思ってしまったのですわ、それはあなたに対するものではなく、リオンに対する気持ちだったのに。
シンハに指摘されるまで、私には分からなかったのです。
彼を子供だとばかり思っていたので……」
ライラの話を聞きながら、フードの奥で、少々複雑な表情をしていたサマエルも、声にはそれをまったく表さずに答えた。
「短い間に、リオンをとてもよく見ていてくれたのだね、ライラ。
もう一度、礼を言うよ。ありがとう」
ライラは、サマエルの心境など知るよしもなく、再び首を振った。
「いいえ。私も最近やっと気づいたのですから、お礼には及びませんわ。
それから、アンドラスのことですが……薄々とは感じておりました。
すでに手遅れなのではないかと……。
城にある古文書を、少し調べたりもしましたの、憑依のことについては……。
それでも、希望は捨てたくなかったのです……」
「そうか……。だが、わざわざ悲観的に考える必要もないだろう。
ともかく、実際彼に会ってみればすぐに分かることだ。
──おっと、もう行かなくては。ダイアデムを助けにね」
「そうですわね」
二人は、元来た道へ取って返した。