~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

8.忍び寄る影(2)

そこで、魔物は愛想笑いを浮かべ、恩着せがましく言った。
「わたくしを信じられぬと仰せならば、契約を破棄してもよろしいのですぞ。
なれど、あなた様の魔力を高めて差し上げたのは、このわたくしめ。
そのわたくしが手を引けば、前にも増して、陛下の魔力はお弱くなられましょう、それがお分かりになった上で、申されておいでなのでしょうな?」

「……そ、それは」
一瞬口ごもったアンドラスは、すぐに気を取り直し、まくし立て始めた。
「だが、魔物よ、お前は、まだ何も出来ずにおるではないか! 
せいぜい、昔からの重臣達を追放し、処刑したことくらいだ。
しかも、我らの行動は、近隣諸国にも漏れ出しているようではあるし、事は急を要するというのに、何をもたもた致しておるのだ!
……ううむ……前々から、どうもおかしいと思っていたが、まさかお前……良からぬことを企んでいるのではあるまいな……!」

(ちっ!)
悪意そのもののといった表情が、ナイフの刃がぎらりと光るように、魔物の顔を横切ったのは、その時だった。
思わずアンドラスは、ぎくりと身を退く。
「魔物め、お前は、やはり……」

「口を慎め、若造! 誰に向かって左様な口を利いておる、我が下手に出ておれば!
まったく、ピーピーうるさい小スズメめが!」
魔物はついに本性を現して、少年王に、無礼な言葉を浴びせかけた。
これ以上なだめても無駄と悟り、先ほどまでの恭順(きょうじゅん)な態度をついにかなぐり捨てたのだ。

「柔順に我が言葉に従っておれば、今少しの間は、いい思いをさせてやろうかと思うておったが、感づかれたとあっては致し方あるまい。
永久(とわ)に沈黙しておれ、哀れなネズミよ!
──ヴォクティム!」
「うっ……!?」
魔物の眼が怪しい光を帯びると同時に、アンドラスの動きが停止した。

「ゴ主人様。前祝イト致シテ、コノ者ノ血ト肉ヲ、勝利ノ女神ニ捧ゲマショウ。
男ハ好ミデハアリマセヌガ……コノ者ハマダ若ク、肉モ柔ラカイデショウシ、美味ソウデスナ。 
ワタクシ、人間ノ肉ヲ食スルノハ、久方ブリデゴザイマス……!」
コウノトリは、勢いよくくちばしを開けた。
その中には普通の鳥にはあり得ない、(わに)(さめ)のような鋭い歯が、ずらりと並んでいる。

(……ううっ、か、体が……!)
必死にアンドラスはもがくものの、身体は完全に硬直し、手足を動かすことはもちろん、声すらも出ない。
焦る王を尻目に、魔物は余裕のあるところを見せ、ゆったりと手を振った。

「まあ待つがよい、シャックス。
息の根を止めることなど、何時でも出来ようぞ。
それより、天界や魔界の目を(くら)ますためにも、こやつはまだ必要だ。
手間が掛かるが、人間同士のもめ事に見せかけねばならぬゆえな。
これなる愚王に人界を征服させた上で、この我が実権を握る──それが我が真の目的。
それがため、まずは大臣どもを追い払うたのよ、古くから仕える忠臣の眼というものは、凡愚(ぼんぐ)な王などよりよほど鋭いゆえな」
「御意。サスガハ、ゴ主人様」
コウノトリは、翼を胸に当て、うやうやしく礼をする。

それから魔物は、アンドラスの顔を覗き込んだ。
「哀れなネズミの王よ、もっと人を見る眼を、養っておけばよかったのぉ。 
おお、そうは申しても、我は人間ではなかったわ。くっくっくっくっ」
魔物は、笑いながら王の唇に指を当てた。
「──それ、何か申したくば、聞いてやろう。
末期の願い、一つだけならば叶えてやってもよいぞ」

「く、くそっ……騙し……たな……!
──デ……プレイト!
……だ、だめだ、動けない……! なぜ、効かないんだっ!?」
口が利けるようになったアンドラスは、歯噛みしながら呪縛を解こうとしたが、それは無理というものだった。
彼の力の根源である、この魔物に対抗出来るわけはなかったのだ。

「ふふん、何を致しておられるのですかな、アンドラス陛下?」
魔物は、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「無駄、無駄。おぬしごときの脆弱(ぜいじゃく)な魔力では、到底、偉大なる我の力には太刀打ちできぬわ!
攻撃魔法を唱えてみてもよいぞ、たとえ命中したとしても、我に傷一つつけることも叶わぬであろうがな!
あーはっはっはっはっは──!」
魔物は顔をのけぞらせ、高笑いを始めた。

魔界の掠奪侯爵シャックスは、笑いこける主に冷ややかな眼差しを注ぎ、心の中で、密かに罵声(ばせい)を浴びせた。
(──ちっ、せっかく、久方ぶりのご馳走にありつけるものと思ったに!
ああ、うるさいわ! いつまで下品に笑っておるのだ、こやつは。
昔の恩義をいつまでも(かさ)に着て、侯爵たる我を牛馬のごとく使役しおって!
いい加減に、その馬鹿笑いを引っ込めるがいい、この人豚めが!)

遙かな昔、シャックスは、命を助けるという条件で、生涯この魔物の使い魔となるという屈辱的な契約を、無理矢理結ばされたのだ。
しもべとなった以上、主人に面と向かっては反抗出来るわけもない。
そんなことをすれば、即、死が待っている。
彼は苛立たしげに首を振り、主人に向かって言った。

「コノ鳥ノ姿デハ、少々不便デゴザイマス。
シバラクハ、人型ヲトッテイテモ、ヨロシイデシヨウカ、ゴ主人様」
「おお、たしかに、その方が都合がよかろうな。
人の姿をしておれば、家臣どもに見られても構うまい」

「デハ、──あぱすたしー!」
シャックスは、反抗心を内に秘めて呪文を唱え、激しく羽ばたき始めた。
大量の羽が舞い上がり、渦巻きながらコウノトリの体を覆い隠す。
やがて、すべての羽が床に舞い降りたとき、漆黒のローブをまとった男が、魔法陣の中に立っていた。

「……如何(いかが)でございましょうか、ご主人様。
この姿になるのも、随分久方振りではございますが」
男は、礼儀正しく片膝をつき、魔物に臣下の礼を取る。
漆黒の長い巻き毛、角や翼は持たず、見た目はごく普通の人間、しかも貴族にふさわしい上質な服を着込み、端正な顔立ちをしている。

にもかかわらず、その姿は、どこか鳥を思わせた。
それは、冷たく無表情な眼のせいかも知れなかった。
唇は歪んだ笑みを浮かべているが、黒い眼は、まったく笑っていないのだ。
主人である角を持つ魔物に負けず劣らず、不気味な男だった。

「……ふむ、変わらず男前であるぞ、魔界侯爵シャックス。
こたびの件が無事成し遂げられた暁には、そなたをしもべの身分より解き放ち、我が右腕と()すと誓約致しておこう」
「過分なるお言葉を(たまわ)り、有難き幸せでございます、ご主人様」

ていねいにシャックスは頭を下げたものの、こんな口約束など、断じて履行(りこう)はされまいと確信していた。
この魔物のよく回る口に騙され、泣き寝入りを余儀なくされた者の、いかに多いことか。
(我も、その一人……と申しても過言ではない)
侯爵は無念さに歯噛みしたが、心の奥の思いなどおくびにも出さず、尋ねた。

「それはさて置きまして、ご主人様、これより如何(いかが)なされますか?」
「おお、左様であったな。まずはこやつを使い、例の“儀式”を行なう」
魔物はニヤリと不気味な笑みを浮かべる。
()びるように、人の姿をした魔界の貴族も笑った。
「クックック……ああ、“あれ”でございますか。
“イン・プロープリア・ペルソナ”。
みずから魔物に身を捧げるなどとは、奇矯(ききょう)なる王もあったものでございますな」

「ぎ、儀式……魔物に身を捧げるだと……そんなこと……誰が!」
アンドラスは、何とか自由になろうと、渾身(こんしん)の力を振り絞るものの、やはりまったく動くことは出来ない。
「──放せ、余を自由にせよ、この無礼者ども!」
叫んでも、魔物達は聞こえた風もなく、平然と話を続けた。

「その上で、王はご不例(ふれい)と称し、おぬしを、新しい侍医(じい)として召抱(めしかか)えたことに致そう。
いっときならば、王なぞおらぬでも、(まつりごと)(とどこお)りはあるまい。
第一、癇癪(かんしゃく)持ちのアンドラスの顔なぞ見とうないと、家臣の誰もが思うておるゆえ、別段不満も出まいよ。
我の見たところ、隣国も、こちらから仕掛けぬ限り、動く気遣いはなさそうだ。
こちらの意図を、未だ明確には把握しておらぬゆえであろうが」

「なるほど……ならば、王女の件はいかが致しますか」
「ふむ。ライラ王女か。これほど探索致しても、未だ行方不明と申すも、解せぬの……。
何やら、サマエルとも関わりがありそうな雲行きでもあるし……むっ!? 何だ、この面妖(めんよう)な気配は!?
──そこか!
──カーカス! インテューム!」

魔物は突如、何もない空中に魔法を投げつけた。
一発目は外れたが、二発目は見事に命中し、激しい爆発を起こして、目も眩む閃光を放った。
何者かがそこにいたにせよ、完全消滅してしまい、破片一つ残らなかった。

「この臭いは……魔物だな。使い魔か?
なれど、一体、何奴の使い魔が潜入致しておったやら。
ふむ、これは準備を急がねばならぬな!
シャックスよ、()く結界を強化し、儀式用の魔法陣を整えよ!」
「心得ました、ご主人様」

シャックスは、空中から取り出した杖を一振りして、自分の周囲の魔法陣を消し、それから、新たな図形を床に描いていく。
二重の円で囲まれた中に、すらすらと文字や記号が書き込まれていき、やがて出来上がった魔法陣は、青白い光を発し始めた。

「準備が整いましてございます、ご主人様」
「よし、アンドラスを中へ」
「かしこまりました」
「や、……やめろ、放せ……!」
シャックスは、固まったままの少年王の小柄な体を軽々と担ぎ上げ、新しい魔法陣の中に運び入れる。

「くくく……これよりこの我が、おぬしの体を、より有益に使うてやるわ、有難く思うがよい!」
魔物は紅い瞳を禍々しく光らせ、鋭い牙を、誇示するかのように剥き出して、魔法陣に足を踏み入れる。
「これでご主人様も、お若く美しいお姿を手に入れられますな、心よりお祝いを申し上げます」
シャックスが、皮肉交じりに言ってのける。

「うらやましいか? シャックス。
事が済めば、おぬしにも、人族の美しき貴族の体を見繕(みつくろ)うてやろうぞ」
「ありがたき幸せ」
(……別にそんなものは欲しくもないが)
心の奥で、シャックスはつぶやく。

その間にも、魔物は歪んだ笑みを頬に刻み、ずんずんとアンドラスに迫っていき、そしてついに、尖った爪の先が、少年王の頬に触れた。
「……見目立ちは、並より少々上に過ぎぬがの、何より若いのがよいわ……」
「い、嫌だ、やめろ!
──誰か来てくれ、衛兵、衛兵! 誰か! 誰か──っ!」
アンドラスの悲痛な声が、地下に響き渡る。
しかし、ここは、城内の者もその存在を一切知らない秘密の部屋、どこからも助けは来ない。

恭順(きょうじゅん) 命令につつしんで従う態度をとること。
奇矯(ききょう)  言行などが普通の人とひどく変わっている・こと(さま)。
不例(ふれい)  ふだんの状態とは違うこと。特に、貴人の病気についていう。