7.封印解呪(3)
ライラは、言われた通りに眼をつぶる。
すると、心に、リオンと最初に会ったときの情景が浮かんだ。
あのとき、彼は、渇いて死にそうな自分に、水筒を差し出してくれたのだった。優しい笑みを浮かべて。
そして、その後も、熱にうなされた自分を、嫌な顔一つせず、看病してくれた……。
(わたし……わたしが……好きなのは……)
彼女は眼を開けた。
先ほどまでは同じ位の高さだったのに、今は、もう見上げなければならないところに、リオンの顔があった。
その朱色の眼は、少し悲しそうな色を
「あなたの本当の年が百五十歳と知って、少し驚いてしまったけれど、どんなに外見が変わっても、リオンはリオンよ……前に、そう言わなかった?
でも、本当に、あなたはサマエル様に似ているのね……なぜ、もっと早く気づかなかったのかしら……!」
王女は、彼の胸に飛び込んでいった。
「ラ、ライラさん……!?」
リオンは、信じられないといった表情で、彼女を受け止める。
『さて、我ら老体は退散致すとするか、ルキフェルよ。
これにて、ようよう、我も
抱き合う二人を見て、心底安堵したように、シンハが言った。
「そうだね。引き揚げようか」
サマエルも同意し、二人はその場を去ろうとする。
リオンは、ライラを抱きしめたまま、彼らに向かって声をかけた。
「そんなこと言わずに、ずっと女性でいてあげたらどう? シンハ。
フェレスに抱きつかれるたびに、サマエルは、すごくうれしそうな顔してたよ。
分身なのに、気づいてなかったの?」
その一瞬、サマエルの動きが停止したのを目の端で捉えながら、ライオンは顔をしかめた。
『何と申した? 冗談も大概にするがいい、朱の貴公子』
「やーい、引っかかった! ウソだよ、いつもぼくをからかってたお返しだ!」
リオンが叫ぶと、獅子はぶるんと頭を振った。
『たしかに、汝の精神は未だ童子……。
王女よ、そこな幼子をよろしゅう頼むぞ、手数をかけるが、
「大人をからかうのはよすんだね、リオン。魔法の練習は明日からにしよう。
では、我々は先に行くよ。
──ムーヴ!」
まったく動揺を見せずに、いつもの物静かな声でサマエルは言い、彼らの姿は一緒に消えた。
「チェッ、せっかく封印が解けたのに、皆して、ぼくを子供扱いするんだから……」
頬をぷっくり膨らませ、リオンは不服そうな声を出す。
ライラはくすっと笑った。
「やっぱり、あなたは全然変わっていないのね」
「どうせそうだよ、あなたにとって、ぼくは弟みたいなもんなんでしょ?」
「………」
いじけた物言いに、ライラの美しい顔がさっと曇る。
リオンは、慌てて手を振った。
「あ、いや、違うんだ、あなたを責めているんじゃないんだ、ご免……!
でも、あの……ただ、ぼくは……まだ、ゆ、夢を見てるみたいで、ホントのことだとは、とても思えないでいるんだよ……」
彼は自分の頬をつねってみた。
「痛てっ! ああ、やっぱり夢じゃないんだ!」
「そうよ。謝るのはわたしの方だわ、ごめんなさい」
「……どうして、キミが謝るの?」
不思議そうに尋ねたものの、リオンは返事を待たずに、ずっと心に秘めていた思いの
「ぼくは、砂漠に倒れてたキミを初めて見たときから、キミに魅せられていた。
このままずっと、眠り姫のように眠っていてくれればずっと、ぼく一人のものに出来るのにとさえ思ってたんだ。
……変なヤツだと思うだろ?」
「いいえ……」
否定の身振りをする王女には構わず、リオンは続けた。
「だって、今までは、ぼくが年を取らないと分かったら、化け物扱いされて、友達になってくれる子なんてなかったんだ……。
それに、友達になれたとしても、皆、ぼくを置いて、先に大人になってしまうから、ぼくはいつまでも子供のまま、取り残されていくのさ……。
これでも、少しずつは、成長してるんだけどね。
母さんが死ぬ前に言ってたよ、気づかれないようになさい、ひどい目に遭うからって……。
だから、眠ってる子なら、ぼくを嫌ったりせずに、ずっとそばにいてくれると思ったんだ。
……おかしいよね、眠ったままじゃ、話も出来ないのにさ。
余計、淋しくなってしまうのに……」
「リオン……」
彼の淋しさ、長い間孤独をかみしめて来たその心が伝わって来て、ライラは何も言えずに彼を見つめた。
「キミは王女様、雲の上の人。その上ぼくは、弟のように見られてて……。
キミが好きなのは、魔界の王子、サマエル……ぼくなんかが告白したところで、手の届かない人……。
振り向いてもらえる見込みもないし、諦めるしかないって、思ってたんだ……。
だから、アンドラスのことが片づいたら、ぼくは魔界へ行くつもりだった。
そしたら、キミが彼と仲良くしてるところを見ないですむし、キミのことも忘れられる、そう思って。
……だから、その……つまり──ホントにぼくでいいのか、ライラ?
サマエルの方が大人だし、カッコいいし、その……」
リオンは、自信なげに口ごもる。
ライラは、彼の眼を正面から見つめ、きっぱりと答えた。
「わたしが好きなのは、あなたよ。他の誰でもないわ。
それに気づくのが遅れて、悲しませてしまってご免なさい……。
わたしは、あなたを化け物だなんて思ったりしないわ、絶対に。
たとえ、どんな姿になろうと」
「ライラ……!」
リオンは、王女を固く抱きしめた。
「やっと見つけた、やっと手に入れた──!
ぼくの……ぼくだけの……」
激しい感情の高ぶりに、彼は魔力を維持できなくなり、すべての灯りが不意に消え、二人の姿は一瞬で闇に沈む。
一方、地上に戻った魔界の王子とシンハは、一息ついていた。
「この上なくうまくいったね。ありがとう、“焔の眸”。お前達のお陰だよ」
『まったくやれやれだ。
今度こそ、
紅い輝きが、ライオンの体を覆う。
「し、しまったぁ!」
その光が消えたとき、澄んだ叫び声がサマエルの耳に届いた。
「どうした……おや?」
「あーあ、やっちまった。ダイアデムに戻るはずだったのに、つい、フェレスになっちまった……。
もう、魔力なんて残ってないぜ……くそっ、リオンの馬鹿力のせいだ!」
わざとなのか、本当に間違えたのか、そこには、赤紫の髪をした美女が立っていた。
「リオンの言葉を真に受けたのか? フェレス」
サマエルはくすくす笑った。
「うるさい! ホントーに間違えたんだっ!」
きっぱり否定したものの、彼女の頬には紅が差していた。
「ふふ、どちらでも構わないよ、私は。いや、むしろ歓迎したいな。
リオンの封印が解けたお祝いに、今日は盛大に狩りをしても構わないとケルベロスに言っておこう。
そうすれば、明日には、間違いなく変化できるさ。
それまでは、お前の美しさを
「ふん、約束通り、フェレスになるのも今日限りだ!
それに女言葉なんか、絶っ対、使ってやんねーぞ!」
美しい“焔の眸”の化身は冷ややかに言い捨て、そっぽを向いた。
「冷たいね……。
私は、あと二千年しか生きられないし、お前とも、もうすぐ別れなければならないというのに」
魔族の王子は悲しげだった。
「ふん、ンなコト、前から分かってたことだろーがよ」
フェレスはしかめっ面をした。
「ああ、そうだ、私は、儀式の前に一つだけ叶えてもらえる“願い”を、変えようと思っているのだよ、フェレス。
前に言ったが、『お休みのキスを下さい、父上』と願うつもりでいた。
それまでは、陛下を、“父上”とは決して呼ぶまいと、心に決めていたのだ……。
けれど、最近は、そんなものに何の意味があるのだろう、と思うようになって来てね。
むしろ、お前と一緒に最後の晩を過ごした方が、幸せな気分で死んでいけそうな気がする。
タナトスは怒るだろうか……私が体を差し出せば、許してくれるかも知れないね」
「な、なに言ってんだよ!?」
フェレスは眼を剥いた。
「あいつはねぇ、私を……手ひどく扱えば扱うほど、その後で、ものすごく優しくなるのだよ。
だったら、最初から優しくしてくれればいいものを、それは出来ないのだな……」
サマエルは微笑み、さらさらした白銀の髪を
「ドSだもん、あいつ。暴力が、あいつの愛情表現なんじゃねーの?
……っつか、こんな……綺麗なもんとか見ると、こねくり回したくなるのかもな、ガキみてーに」
宝石の化身は、思わず王子の髪を手に取り、なでてみた。
銀細工のような髪からは、ほのかにいい香りがする。
「そうかも知れないね。私も、もう慣れてしまった……。
父親に抱かれるというのは、きっとこんな感じなのだろうと思って……陛下は私に……まったく触れては下さらないから……」
「ベ、ベルゼブルだって、お前を紅龍にしたこと後悔してんだよ、だから気が引けて……」
懸命に彼女が言っても、王子は否定の身振りをする。
「慰めてくれるつもりなら、最後くらい、共に過ごしてくれてもいいだろう?
お前といられるなら、他には何もいらないよ。
どうせ、私は、皆の前で紅龍に
虫の息の胸を切り裂いて、兄は、まだ脈打つ心臓を喰らい、残りの肉も儀式に参加した者達が喰らい尽くし、骨は粉々に砕かれて、魔界中にばら
それが、二千年後の儀式……アナテ神殿の司祭、“カオスの貴公子”の役目……墓さえ作ってはもらえない。
元々は、アナテとモトの最期の時を再現し、神族への怒りと憎しみを新たにするための
罪状は、お前も知っての通り、女神……憎むべき敵の女性……と恋に落ちた罰……」
何の感情も込めずに、サマエルは淡々と言ってのける。
「駄目だ、そんなの」
宝石の化身は歯を食いしばった。
「? 何が駄目なのだね?」
サマエルは、うつむいてしまった彼女の顔を覗き込んだ。
「だって、そんな……そんなのって」
「こんな男と一緒にいるのは真っ平だと、そう言いたいのかい?
なら、仕方がない、タナトスに頼むのはやめに……」
「──そんなんじゃねーよ、馬鹿、分かってんだろっ!」
涙声でフェレスがさえぎると、サマエルは透き通るような笑みを浮かべた。
「そう、私達には過去も未来もなく、現在しかない……。
最期の朝、お前の記憶をまた封じてしまおう。叔母上のもね。
七日七晩続く祝宴で、私のために泣く者が、一人もいないように……」
フェレスは青ざめた。
「ど、どうしてンなコトすんだよ、思い出さえ、持ってちゃいけねーのか!?」
「私は、食肉用の家畜……食われるためだけに飼われ、現在は放牧中といったところだ……。
こんな男、記憶に残したところで仕方なかろう? お前の苦痛を増やしたくないのだよ」
「嫌だ、オレは覚えててやる! 死んだって、忘れてなんかやらないから!」
彼の胸にすがりつき、フェレスは涙をこぼした。
王子は、彼女を抱きしめるものの、遠い眼をしていた。