~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

5.黒き予知夢(3)

しばらくの間、サマエルは、ダイアデムをそっとしておくつもりだった。
だが、泣くことすら出来ず、あまりに苦しげな少年を前にするうち、自分の心までが痛んで来ていた。
それに、ここで優しく接してやれば、(なつ)いてくれるのではないかとも考えた。

子供時代、魔界の獅子、シンハとして自分を見守ってくれた“焔の眸”の態度は、大概そっけなく、物足りない思いを味わうこともしばしばだったのだ。

そこで、サマエルは、ゆっくりとそばに行き、隣にひざまずいて、少年の肩を優しく抱き寄せた。
しかし、宝石の化身は、体に激痛が走ったかのように飛び上がった。
「──さ、触るなっ!! イヤだって言ったろ! ま、まだ何かするつもりなのかよ!?」
少年は大声を上げ、力の入らない腕で、王子を押し退けようとする。

「恐がらなくていい、何もしないから。ただ、お前を慰めたいだけだ。
こういう時は、泣いた方が楽になるのだよ、我慢しないで……」
サマエルが優しくそう言ってみても、ダイアデムはただ首を横に振るばかりだった。
第二王子は、封じられていた幼い頃の記憶が、心からあふれ出すがままに、話し続けた。

「シンハにしがみついて泣くことが、どれだけ私の慰めになったことか。
彼の金の毛皮が涙を吸い取り、心臓の鼓動を聞きながら、私はいつも眠りについた……。
私の悲しみの原因を作ったのが、お前達だと分かった今となっても、やはり私は忘れられない。
あの温もりを……心からの安らぎを……。
ごく幼い子供時代の数十年間、シンハはそばにいてくれた。
母はすでに亡く、理由はどうあれ父は私を(かえり)みず……イシュタル叔母はかばってくれたけれど、それでも孤独だった私を救ってくれたのは、やはりお前達だ。
だから、教えておくれ、ダイアデム。
私のそばにシンハがいたのは、罪滅ぼしのため、だけだったのか?
それとも、少しは……ほんの少しでいい、私自身を好いていてくれたのだろうか?
大人になった今、心から、それを知りたいと思うのだよ……」
サマエルは、昔、シンハの毛並みをなでた時のように、少年の紅い髪にそっと触れた。

ダイアデムは顔を歪めた。
「サマエル、やっぱお前、全部思い出しちまったんだな、シンハとのこと。
忘れててくれてた方が、お互いのためだってのに……!
オレにとっちゃ、過去なんざ、サイテーにヤなことばっかだ。
昔の記憶なんて、全部きれいさっぱり消しちまった方がすっきりするかもしんねーくらいにな!
それに、楽しかったはずのことだって、時間が経っちまえば、苦い思い出に変わっちまうんだから!」
「それはどういう……?」

「──えい、くそったれ、放せ、髪に触んなってば、うっとーしい!
大体よ、ンなコト聞いてどうすんだ? オレは言えねー、いーや言いたくもねー、それ知りゃ、お前は……。
──ああ、もうたくさんだっ!
ンな責められるくらいなら、いっそ、破壊されちまった方が楽なくらいだ、さっさとオレをぶっ壊せよ、こんちくしょう!」
ダイアデムは、王子を振りほどくことができずに苛立ち、それでも殴ったりは出来ず、拳を床にたたきつける。
溜まっていた涙は、今にもこぼれ落ちそうになっていたが、少年はまだ、歯を食いしばってこらえていた。

「責めてはいないだろう? シンハが私をどう思っていたのか、聞いただけだよ。
だが……おそらく、彼にとって、私はただのお荷物、封印が解けては困るから見張っていただけの泣き虫の子供、だったのだろうな……」
悲しげにサマエルは言い、ダイアデムの背中に顔を押し当てた。
かつて、二万年以上も前、幼かった頃に、金色に輝くライオンの背にしがみついていたときそっくりの仕草で。

魔界の王子は泣いてはいなかった、いや、彼はもはや、涙を流すという行為そのものが出来ないのだ。
それでも、こうして密着していることで、自分の感情……悲しみが、否応なくダイアデムの心にも流れ込んでいっていることを彼は知っていた。

だが宝石の化身は、(かたく)なにそれを認めようとはしなかった。
「うるせーや!
お前なんか泣いてばっかいる弱虫で、シンハはずーっと、うんざりしてたんだぞ!
こんなにビービー泣いてばっかじゃ、王になんか絶っっ対なれっこねーって、思ってたんだよ!
──分かったか、シンハはお前なんか大っ嫌いだった!
オレだってそうだ、これ以上べたべたくっつくと、今度こそ噛み殺しちまうぞ、
もう、あっち行けよっ!」

少年は、激しく首を振り、きつい口調で言い捨てた。
だが、涙は、彼を裏切ってついにあふれて滴り落ち、床で美しい宝玉と化した。
涼しげな音を立て、後から後から涙は流れ落ちて(たぐい)まれな貴石となり、紅い輝きと透明な(きらめ)きとが、彼らの周囲に小山をなしていく。
泣きながらも、宝石の精霊は一言も発しなかった。
長年の習慣から、彼は、声を出して泣くことはしないのだった。

「可愛そうに、ダイアデム……」
サマエルは紅毛の少年をそっと抱きしめ、背中をさすってやり、何を言われても怒る様子はなかった。
彼は、ダイアデムの口の悪さや、嘘が下手だということもよく知っていた。

ようやく涙が止まり、荒い呼吸が徐々に静まり始めると、サマエルは宝石の化身に声をかけた。
「気分はどうかな? 辛いのが涙で流されて、さっぱりしたろう?
周りをご覧、綺麗だね、まるで星の海だ。
……うらやましいよ、お前が創り出すものは、すべてがこんなに美しい……」
二人の周囲は宝石で埋まり、(まばゆ)い輝きで床が見えなくなっていた。

「さ、手を出して、涙を戻すよ」
ダイアデムは、まだ少ししゃくり上げながらも、言われた通りにした。

サマエルは、色とりどりの貴石達を両手ですくう。
星くずのように(きらめ)きながら、少年の(てのひら)に落とし込まれた瞬間、それらはふっと消える。
魔力として、再び彼の体内に吸収されていったのだ。

魔族の王子は、飽きもせず同じ作業を繰り返し、周囲の輝きがすべて消え去る頃、ようやく、宝石の化身は落ち着きを取り戻した。
「初めてだ、こんなに泣いたの……恥ずかしいトコ、見せちまったな……」
ダイアデムは手でごしごし顔をこすると、バツが悪そうにほんの少し、笑顔を見せた。
サマエルは淋しげに首を振った。
「いいや。悲しい時、辛い時には泣くのが一番だよ。私にはもう、出来ないけれどね……」

「…………」
ダイアデムは答える代わりに歯を食いしばった。
彼の後悔にサマエルは気づいたが、あえて何も言わずに立ち上がり、すっと手を差し延べた。
その仕草には、何の躊躇(ためら)いも、てらいもない。

ダイアデムはその手をとりかけてたじろぎ、彼の顔を(うかが)う。
サマエルは笑みを浮かべてうなずき、それを見て、おずおずと熱くほてった手を重ねてくる少年の体を、引き上げてベッドに座らせる。

「あ、あの……ありがとな、サマエル。
オレさ、お前って、優しいのは女に対してだけだと思ってた。
兄弟でもやっぱ、タナトスとはぜーんぜん違う……あいつだったら、許してくれるわきゃない。
きっと、言い訳になんか耳も貸さねーで、一瞬でオレを消してたな。
……あいつ、気紛れでごくたまーに、優しいときもあんだけどさ……」

サマエルは肩をすくめた。
「よしてくれないか、あんな性格の悪い男と一緒にするのは。
しかし、お前の予言も、時には外れることがあるのだね」
ダイアデムは、首を横に振ると重いため息をつき、壁に寄りかかった。
「予知からは逃れられねーと思うぜ。
今が、そん時じゃねーってことに過ぎねーんだよ、多分……」

二人の会話は途切れ、再び静けさが部屋を覆う。
うつむきながら、時折鼻をすするダイアデム。
その乱れていた呼吸が完全に元に戻ったとき、彼の様子を見守っていたサマエルは、静かに話を切り出した。

「それはそうと、私の頼み事を一つ、聞いてもらえないかな。
ああ、お前の弱みにつけ込むつもりはない、嫌なら断ってもいいし、やってくれるならお礼もちゃんとするよ。
魔力とそれから、さっきのお芝居の分とも合わせてね。何か望みはあるかい?」 

「頼み……って何だよ。それに……礼?
……変わってるなあ、お前も……。
オレ、お前にすげーひでーことしたんだぜ、からかってんのか?」
あきれたように問い掛けてくるダイアデムを、サマエルは真面目な表情を崩さず、見返した。
「からかってなどいないよ、昔のことは水に流したと言ったろう?
大体、いつまでも過去にしがみついているなんて、愚か者のすることだと思わないか?」

「そりゃまあ、そうかもしんねーけどさ……。
にしたって……王家の者で、自分からオレに謝礼をくれるなんて言い出したヤツは、お前が初めてだぜ。
中にゃ、礼の一言すらロクに言えねーヤツもいたくらいだしな」
「タナトスのことか?」
ダイアデムは否定の仕草をした。
「いーや。あいつはちゃんと礼言ったぞ。まー、渋々って感じだったけどな。

しかも、オレが勝手に出した交換条件だって、なんだかんだ言いながら守ってくれたんだぜ。
……ほら、ジルがさらわれて、オレ達で助けに行ったときさ。
覚えてるだろ?」

「覚えているとも。タナトスはお前のことが気に入っているのだね。
お前があいつを選んだのだから、当然か。
無論私も、お前のことは好きだけれども」
「──えっ……まさか、頼みってのは……」
さっと身を退くダイアデムに、サマエルは真顔のまま言った。
「ああ、別に変な意味で言ったのではないよ。私にはそういう趣味はない。
さっきのは、お芝居だと言ったろう?
それに、私……が、どんな種類の魔物かということは、よく知っていると思ったのだがね?」

「し、知っちゃいるけど……ンな迫り方されたら、恐いじゃねーか!
オ、オレだって、んな趣味はねーんだからよ!」
「意見の一致を見たようだね」
サマエルは微笑み、ダイアデムはほっと息をついたものの、突如何かを思い出したようにぶるぶるっと身を震わせた。
その眼には悲しげな、傷ついた色があり、彼は精も根も尽き果てたといった感じで、再び壁にもたれかかった。

「ふう、勘弁してくれよ、サマエル。マジで許してくれる気があるんなら。
オレ、今、冗談を笑い飛ばせる気力がねーんだよ。
ホント、今日だけで、寿命が何万年も縮んじまったような気がするぜ……」
「すまない。軽口をたたけば、お前の気分も少しはほぐれるかと思ったのだが……」
二人はどちらも、負けず劣らず悲しい表情をしていた。