~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

5.黒き予知夢(2)

“焔の眸”の化身、ダイアデムの告白が終わっても、しばらくサマエルは黙ったままでいた。
その能面のように冷たく取り澄ました表情からは、彼が何を考えているのか、(うかが)い知ることはまったく出来ない。
ダイアデムは、心身共に疲弊(ひへい)し切って、床に座り込んでいた。

彼とシンハは別人格だが、記憶を共用している。
そのお陰で、自分が実際に見たことのように、この王子が“紅龍の試練”を経て魔力を取り戻したときの様子を、ありありと思い出せるのだ。
昂然(こうぜん)と胸を張り、“紅龍の塔”から一歩踏み出すサマエルと、現在目の前にいる王子、そして予知夢の情景とが重なり、幾度目かの震えが、彼の全身を走り抜けた。

(……サマエル、もうすぐオレ、お前に消されるんだなぁ。
でも、お前みたくべっぴんの死神になら、壊されたっていいか……。
後のことは任せたぜ。
いくらオレのこと憎んでても、ライラは別って割り切って、ちゃんと面倒見てくれるだろ?
イナンナ、ご免。最後まで見届けられねーみてーだ、ライラのこと。
許してくれよな、予言されてた時が、とうとう来ちまったんでさ……。
……はぁ、もうへとへとだ。
あんまり苦しめないで、さっさと済ませて欲しいけど、無理だろな、やっぱ……)

シンハが封じていた記憶が(よみがえ)ったときから、ダイアデムは覚悟を決めていた。
だから、サマエルが一時的にせよ怒りを抑え、話を最後まで聞いてくれたことすら奇跡のように思われて、猶予(ゆうよ)を願い出てはみたものの、(かな)わぬ夢と観念してしまっていた。
彼の瞳に映るのは、もはや絶望だけだった。
高貴で(うるわ)しい王子の顔は、動かしがたい死の象徴であるように、彼には思われたのだ。

しかし、長い沈黙の後でサマエルが発した言葉は、ひどく意外なものだった。
「ふむ、なるほどね。疑問がやっと氷解したよ、ダイアデム。そういうことだったとはね……。
予言とは、そういった矛盾を含むものなのだな。
災厄をさけようとして起こした行動が、かえって災いを招き寄せてしまうこともある、というわけだ。
なかなか興味深い、後でまた考察を加えてみよう。
だが、もういいよ。板挟みになっていたのだね、お前も。
その苦しみはよく分かる。だから私は、お前を許そうと思う。
さあ、立って」

「──ゆ、許す──許す、だって!?
お、怒ってない……のか、サマエル?」
いつもの物柔らかな優しい口調で声を掛けられたダイアデムは、仰天し、初めて見るような眼差しで、この魔族の王子を見上げた。
「……怒っているように見えるのかい?」
王子の澄んだ緋色の眼もまた、常と同じく、底知れぬ穏やかさを(たた)えたままで、彼を見下ろしていた。

しばし、信じられない思いでサマエルを凝視していた“焔の眸”の化身は、やがて口を開いた。
「……でも、でも、なんでだよ? なんで、そんな簡単に許してくれるんだ?
お前さ、昔っから魔法が使えないせいで、ずいぶんとひどい目に遭ってたじゃねーか。
バカ兄には散々いじめられ、親父もあいつばっか可愛がって、お前をシカトしてさ。
そんだけじゃねー、汎魔殿(はんまでん)の下っ端にまで、“()み子”だの、“取り替え子”だの、“魔界の王子の資格すらない”だのって、ひっでー陰口たたかれてさ、しょっちゅう泣いてたろ、自分の部屋で。
それはぜーんぶ、オレのせい……っていうかシンハが、お前の魔力を封じたせいなんだぜ?」

「たしかにそうだが、もうすべて済んだことだよ、ダイアデム。
結局お前は私を殺せなかったし、魔力を封じておくことすら、出来なかっただろう?」
そこまで言うとサマエルは、にやりとし、茶目っ気たっぷりに続けた。
「それに私は、“大っきいニャンコ”のことを覚えているからね」
刹那、ダイアデムの頬が紅く染まる。
「──げ、その恥ずかしい呼び方だけはやめろ。シンハも散々そう言ってただろーが」

「いいじゃないか、私は子供だったのだし」
「ふん、今さらンなコト思い出すなよ。オレが、お前にひでーコトしたって事実にゃ、変わりねーんだ……」
うつむく少年に、サマエルは優しく言った。
「けれど私は覚えているよ、シンハが私に優しくしてくれたのを……。
頬の涙を、ざらざらした舌でなめ取って、『今に必ず魔法が使えるようになるゆえ、その時には、笑った者共を見返してやるがいい』と言ってくれた。
涙が止まらない夜は、美しい黄金の毛皮に包まれて眠りについたものだった……とても温かで、安心して眠れたよ。
“焔の眸”、お前は私を、絶望の淵から何度も救ってくれたのだ……」

「ああ、いくらオレらが石だって、一応、良心ってもんがあっからな……。
あんなに小さいガキんちょが、誰にも愛されないって自分で自分を傷つけ、その心の叫びがシンハを目覚めさせ、ヤツは愕然(がくぜん)とした。自分がやっちまったことに()じ気づいた……。
お前の苦しみも悲しみも、すべて自分のせいだって思うと、黙って見ちゃいられなくなって、封印を解く以外のことは、何でもやってやろうって思ったんだ……」
ダイアデムは、辛そうに額に張りついた髪をかき上げた。
彼は極度の緊張と興奮のために、全身にびっしょりと汗をかいていた。

「そうか……。でもね、念のために言っておくが、父が私を遠ざけていたのは、魔法が使えないせいではなかったのだよ。
私の微笑み──笑顔は、母によく似ているのだそうだ。
だから、父は私を見ると母を思い出し、それが辛かったのだと、後で聞いたよ」
「ふうん。そういや、似てるかもな……。お前とおんなじよーな顔してんのに、タナトスのヤツにゃアイシスの面影なんか、全然ねーのが不思議だけどよ。
しっかし、お前ってば何度教えても、シンハのこと、“大っきいニャンコ”って呼んだんだろ?
ヤツがいくら『我は猫に(あら)ず』って言ってもさぁ」

「あはははは……。魔族には獅子や豹など猫科の生き物の姿を(かたど)る者が多いからね。
幼い頃は彼らをひっくるめて、“大っきいニャンコ”と呼んでいたのだった」
サマエルは、珍しく声を立てて笑った。
だが、屈託のないその笑顔を見ても、ダイアデムは、彼が自分を許してくれたとは、簡単に信じられないでいた。

このプライドが高い第二王子は、見かけによらず物事にこだわりがちなことを、彼はよく知っていたのだ。
単に現在の状況下では、彼らにかまけている暇がないだけで、時間的余裕が出来た暁に改めて今回の事について糾弾(きゅうだん)されるのは、火を見るよりも明らかだと彼は思っていた。
(でもま、今は、とりあえずピンチは逃れたってトコか……)

「──ふん! このオレを、そこらのザコと一緒にするつもりかよ?
あ、ちっくしょう、力が入らねー、くそったれ!」
いつものように憎まれ口をたたいたダイアデムも、さすがに消耗し切っていて、自力で立ち上がることが出来ない。
「まだ動けないようだね。少し魔力を戻そうか?」
「ひっ──いい、いらない、やめてくれ!!
ご、ごめん、悪いけど、今日はもう、オレには触らないでくれっ、お願いだっ!」
目の前に化け物が迫って来たかのような悲鳴を上げ、紅毛の少年は体を縮めて激しく首を振った。

「分かったよ、触らないから。だが、魔力……」
「いらねーって言ってるだろ!!
──オレに近寄るな──っ!!」
ダイアデムは眼を燃え上がらせ、噛みつくように叫んだ。
思いもかけない激しい拒絶にサマエルは眼を見張り、すぐに手を引っ込めた。

宝石の化身は荒い息遣いをし、震えながら第二王子を睨みつけていた。
今日はもう誰であろうと、何の目的であろうと、そばに寄って来られたくもなかったのだ。
その様子はまるで、手負いの獣のようだった。

「……なるほど。今になってみれば分かる。シンハもそうだったのだな。
すまない。私は幼く、しかも自分自身、心に傷を負っていたから、お前の傷に気づかなかった。
昔、何かあったのだね、ダイアデム。一人でいる方が落ち着くのなら、私は出て行くよ」
そう話すサマエルの視線は、優しかった。

「ンなコト言って、お前こそ、オレの顔なんか見たくない、今すぐ出てけばいいのにって思ってるんだろ?
けど、生憎(あいにく)オレは今、動けねーんだ、そんなに行きたきゃ、さっさと出てけよ! お前なんか行っちまえ!
ホントは、オレのことなんか全然許してないくせに! ウソつき!」
ダイアデムは膝をぎゅっと抱き、上目遣いで叫んだ。
言葉とは裏腹に、その眼差しは無意識のうちに行かないでくれと訴えていたのだが、それを認めることは
彼自身のプライドが(ゆる)さなかった。

そんな彼の心情を察したように、サマエルは穏やかに言った。
「私が信じられないのかい? ダイアデム。
私はただ、お前が辛そうだから、一人になった方が気が楽ではないかと思ったまでなのだよ。
たしかに、先ほどの話には驚いたし、初めこそ、激しい憤りも感じた。
子供の頃を思い出すと、未だに悲しみと怒りで、胸がふさがれる思いがするからね……。
私は、何のために生まれてきたのだろう……母を殺し、兄に憎まれ、父に(うと)まれるためか? 
……そう考えていた、あの頃のことを思い出すと……。
だが、私が罰しなくても、お前はもう十分に苦しんだように思える。私は人が苦しんだり、悲しんだりしているのをあまり見たくないし、それに、本当にもう済んだことだ……。
ニ万年以上も前のことを、今さら蒸し返して、何になるだろう……」

「だったらいろよ。オレのことなんか気にすんな。お前の部屋だろ……」
ダイアデムはうずくまったまま、そっけなく言った。
「お前がそう言うなら。ところで、座ってもいいかな?」
「何で、一々オレに聞くんだよ? この屋敷は全部お前のもんだ、オレに気を使う必要なんか、ねーだろ」
「お前が、拾われたばかりの子猫のような態度を取るからだよ。
急に動いたりすれば、また(おび)えてしまいそうだから……」

「お前が主人でオレはペットの猫、どっちが偉いか、一目瞭然だろ。
オレがどうだろうと、好きにすりゃいいじゃねーか……」
ダイアデムはつぶやき、手で顔を覆った。
いつもの彼は猫扱いされるのをひどく嫌がるのだが、今は怒るだけの気力もなく、それどころか自ら認めてしまっていた。
サマエルは、細心の注意を払い、静かに椅子に座る。

ダイアデムは必死に泣くまいとしていた。
絶望の淵に立たされ、一度は本気で死を覚悟した彼の心は、感情のコントロールができなくなっていたのだ。
長く孤独な時間を過ごして来た彼は、人に頼ることも知らなかった。
こんな時にどうすればいいのかも考えつかないまま、ただ歯を食いしばって泣くのをこらえていることしか、できなくなっていたのだった。

沈黙が辺りを支配した。