5.黒き予知夢(1)
広大な
「──黄金の箱にて眠りし貴石の王、王位の象徴たる杖、宝冠ダイアデム──
我、魔界王バアル・ゼブルが汝に命ずる、長き眠りより目覚め、焔の獅子となりて我に仕えよ!
──プレイサ・シャージュ!」
途端に、宝石は眼も
光が消えた後には、黄金色の毛並みをした威厳あるライオンの姿があった。
『久方ぶりであるな、魔界王、バアル・ゼブルよ。
さりながら、第二王子の”誕生の儀式”には、今少し間があろう、我を覚醒させしは何ゆえか?』
長い眠りの名残りを振り払うようにぶるっと体を震わせ、紅い瞳の内部に黄金の炎を
深紅の炎で出来たたてがみが、辺りに火の粉をまき散らす。
バアル・ゼブルとは“高い館の王”を意味する
魔界王は眉を寄せ、答えた。
「魔法医どもは、母子ともに順調、生まれるのは明朝であろうと申しておる。
なれど……一つ、気がかりなことがあっての。
あのイシュタルが、妃の出産に不吉なものを感じると申しておるのじゃ。
占いで出たのは『獅子』と『炎』。すなわちそなたじゃ、シンハよ。
予知夢は下りてはおらぬか?」
当時、王妹イシュタルは、水晶球やカードの占いでは宮殿一と言われた王妃、アイシスに次ぐ腕前と言われていた。
『うむ。王子は無事誕生致すと、予知には出ておるな。
されどエーテルの流れは、たしかに少々
魔界の獅子は空気の匂いを嗅ぐと、鼻にしわを寄せた。
エーテルとは、天空を満たすエネルギーのことである。
「ふむ、相分かった。
されど、新しき予知夢が下りるやも知れぬゆえ、儀式が終わるまで目覚めているがよい。
念のため周囲を探り、異変あらば直ちに余に知らせるのじゃ。
よいな、“貴石の王”よ」
『心得た、魔界王よ』
ベルゼブルは去り、ライオンはまず、耳をそばだててみた。
遠く、
『不審な気配は聞こえぬ。宝物庫の中も、常と変わりはない……か。
されば、我が直々に探索致さねばな』
シンハが汎魔殿の中を行くと、皆一様に驚いて道を譲る。
中には不審に思ってか、声を掛けてくる者もいたが、『“誕生の儀式”のために目覚めた』と短く答え、彼はすぐにその場を去った。
どこを見ても、眠りについた数年前と変わっているところは、ほとんどない。
だが、首の後ろの毛がチリチリうずくような、奇妙な違和感が常につきまとい、磨き抜かれた広い回廊の角を曲がるたびに、彼は思わず振り向くのだった。
『取り立てて不審なる物など存在致さぬと申すに、かの異様なる気配は、
かくなる上は、しばし様子を見る外、あるまい。
む……? 何ゆえか、眠気を感じる。儀式以外で覚醒させられたゆえか?
面妖な、この我が睡魔に襲われるとは……』
広い汎魔殿すべてを回り、宝物庫に戻ったシンハは、珍しくウトウトと
その彼に、夢は突然やって来たのだった。
いつか分からぬ時、見たことのない場所で、彼は一人の見知らぬ男と対峙していた。
そして男は彼の魔力をすべて吸い取り、本体である“王の杖”にはめ込まれた宝石──“焔の眸”をも、いとも簡単に破壊してしまったのだ。
苦痛に身をよじり、全身汗だくになったシンハが、はっとその悪夢から目覚めた時、
「お生まれだ!
第二王子殿下のご誕生だぞ──!」
という声がかすかに、彼の耳に届いたのだった。
「オレは、予知夢のことはベルゼブルに告げずに、独りでその男を探した。
何でだか、言わない方がいいって強く感じてたんだ。
あいつも赤ん坊とアイシスに気を取られて、オレを放っておいたんで、ちょうどよかった。
闇の力を帯びてたから、そいつが魔族だってのは間違いなかったし、オレをぶっ壊せるのなんて、やっぱ王家のヤツらくらいだろ?
でも、夢に出て来た男の顔は、今まで見たこともなくて、探しても探しても、全然見つからねーんだ。
そうやって、へとへとに疲れて宝物庫に戻って来たとき、オレはやっと気がついたのさ。
『魔界王家の者で、まだ会ったことのない者がいる。それは……』」
「……私、というわけだね」
静かに、サマエルが言葉を継いだ。
ダイアデムは、こくんとうなずく。
「生まれて七日目の、“誕生の儀式”で、ベビーベッドに眠るお前を初めて見たとき、オレは確信した。
『この者だ。この赤子が大人になり、いつか我を破壊するのだ──』って……」
「それで、殺そうとしたのだね?」
ダイアデムは暗い眼で、またうなずいた。
「何度もな。そしてそのたび失敗した。
最初の時は、殺気を抑え切れずアイシスに気づかれたし、危険を察知したイシュタルが現れ、焦って逃げたこともあるしよ。
そして、最後の時は、お前自身がお前を守ったんだ……」
「私……が?」
「そうさ……」
乳母と赤ん坊の母、アイシスが寝入ったのを確認すると、シンハは音もなく王子の部屋に入り込んだ。
ベビーベッドの縁に前足を掛け、後足で立ち上がり、中を覗き込む。
第二王子サマエルは、乳をたっぷりと与えられ、安らかな寝息を立てていた。
(魔界王家を守護する我が、かような事をせねばならぬとはな。
なれど、我とて存在を消されるのは耐えられぬ……。
哀れだが、どの道この者も成長すれば必ず、魔界王の座を巡って兄と相争うこととなろう。
未然にもめ事を防ぐも、我が使命のうち。
……許せ……)
彼は赤ん坊にそっと顔を寄せた。
甘い母乳の匂いが、ライオンの鼻をくすぐる。
その時、何の前触れもなく、赤ん坊が眼を開けた。
(──これはしたり。今、泣かれては……!)
シンハは焦ったものの、子供は泣きもせず、ただじっと彼を見ている。
ライオンの鋭い牙ならば、一噛みですべてが終わる。そう思い、彼は口を開けようとした。
しかし、出来なかった。
(か、体が動かぬ、何ゆえ? よ、よもやこの赤子が……!?)
もちろん無意識なのだろうが、無邪気に見返す赤ん坊の眼は闇の炎を宿し、魔眼で獣の動きを封じていたのだ。
(な、何という……! 生まれて未だ、十日ほどしか経っておらぬと申すに、末恐ろしき赤子だ、これは……)
誰かが目覚めはしまいかと恐れながら、獅子は呪縛され続けていた。
指一本、ヒゲ一本動かせない。
のろのろと、恐ろしくのろのろと、時が経っていく。
永劫の時が過ぎたかと思われた頃、赤ん坊はあくびをし、再び眠り込んだのだった。
とても乳児が持つとは思えない、強力な魔眼による呪縛が解けたとき、シンハの黄金の毛皮は汗でびっしょり濡れて、足もがくがくと震えていた。
ようやく解放された彼から王子を殺す気力は、すっかり失われてしまっていた。
(かような調子では、幾度試みようとも殺害など不可能だ。
この赤子は、我よりも強力な力で守護されておると見える……。
ああ……もはや我には道はないのか? ただ消滅を待つのみなのか……?)
狂おしげな眼であたりを見回していたシンハは、誰かに見つかっては都合が悪いことに気づき、呪文を唱えて宝物庫に戻った。
そしてやっとのことで落ち着きを取り戻し、いつもの場所にうずくまって、じっと考え込んだのだった。
「シンハは途方に暮れた。このままじゃ予言は必ず的中しちまう。
でも、消滅すんのだけは絶対、嫌だった。
……殺せねーんなら、他に方法はねーのか?
シンハは必死こいて考えた……」
「そうか。ならば魔力を封じればよい、と思ったわけだね……」
サマエルは静かに言った。
「うん。自分の封印に気づく奴なんて、アイシスくらいだろって思ったし、実際、ベルゼブルやイシュタルも、てんで気づかなかったくらいだしさ。
自力で封印解いたって、魔力使い果たして死ぬだろし。
あと一つ、魔力を取り戻す方法っていえば、“カオスの試練”くらいだけど……ここんとこ、生きて塔から出て来れたヤツなんざいねーし、受けようなんて思わねーだろって。
不便だけど、魔力がないのをちっと我慢してりゃ、長生きもできるしさ、これが一番だなって思ったんだ……そん時は……」
「だが私は、魔法が使えるようになり、なおかつ死にもしなかった、という訳だね」
第二王子の声は穏やかそのものだったが、内心は怒りで煮えくり返っているだろうと、宝石の化身は思い、再び体が震え出すのを止められなかった。
風に吹き消されそうなロウソクの火のように、紅い眼の黄金の炎が激しく揺らぐ。
ダイアデムは、自分の肩をぎゅっと抱きしめた。
「……でも、色々考えてるうち、どうにも怖くてしょうがなくなって来たんだ。
このままうまくいきゃいいけど、シンハの予言が外れたことなんて、今まで一回もねーしさ。
だから、あいつは、記憶を封印することにしたんだよ。
一応、どっちに転んでもいいようにしといて、運命の時を待とうって……。
“サマエルは恐ろしい奴だから、あまり近づくんじゃねーぞ”ってだけ、頭に刻み込んでさ。
けど、昨日、話してるうちに思い出しちまったんだ、何もかも。お前を怖がる理由もな……。
オレは、お前の魔眼にビビってたんだ……オレ達は、その眼で消滅させられちまうんだから。
もう、オレらの命運は尽きた。シンハがやったことのせいで。
……ああバカ。どうしてあんなことしたんだか……」
ダイアデムは再び泣いてしまいそうになり、歯を食いしばって涙をこらえた。
同情を引くのは、どうしても嫌だったのだ。
「言い訳になるけど、シンハには、魔界の王子の魔力を封じることが、どんな結果を産むのか……お前が受けた仕打ちを実際見るまで、ちゃんと分かってなかった。
そして、分かってからも、消滅するのは嫌だった、恐かったんだ。
だから、あえて自分からは、お前の封印を解かなかった。
お前の悲しみを、苦しみを目の前で見ていながら。
ごめんな、サマエル。今さら謝っても、どうにもなんねーけど。
八つ裂きにされても、文句は言わねーよ、こうなったのは、全部、自業自得なんだから。
……あん時はシンハだったけど、オレ自身が、墓穴を掘ったのとおんなじ。
なんてバカだったんだろ……!」
ダイアデムは固く眼をつぶり、紅い髪をかきむしった。
今すぐにでもサマエルの魔力が飛んで来て、自分を真っ二つにするだろうと。
それでも構わないと思いながら。