4.黄金の獣(3)
「危ない!」
がくんと倒れかかるダイアデムを、サマエルは魔力で持ち上げ、そっとベッドに腰掛けさせた。
「芝居につき合わせて悪かったね。そんなに怒るとは思わなかったものだから。
改めて詫びよう、すまなかった」
衣服はずたずたに切り裂かれ、肩には重傷を負い、自慢の銀髪も血にまみれているという無残な状態でありながら、王子の声は平静で、表情も、何一つ変わったことなど起きていないといった風情だった。
「し、芝居、だぁ……!?」
ダイアデムはあきれたように言った。
彼の息遣いはまだ荒く、服も髪も、先ほど力尽くで押さえ込まれたときのままに乱れていた。
サマエルはうなずいた。
「そうだ。本気でお前を、どうこうしようと思ったわけではないよ」
「ホントか……?」
脱げかかっていた衣服を整えつつ、紅毛の少年は尋ねた。
「無論だ」
王子は真顔で答えた。
「落ち着いて考えてご覧。嫌がる相手に無理強いしているときに、奪った力を戻す者はいないだろう? 逃げられるのが分かり切っている」
「そ、そりゃまあ、そーだけど……?」
ダイアデムは
「あのとき、彼女の足音が部屋に近づいて来るのに気づいて、とっさに芝居を打ったのさ。
中の様子が見えるよう、わざとドアを細目に開けた上でね。
何か、話し忘れたことでもあったのかな。
まあ、何にせよ、私に執着されても困る。恋人……とまではいかなくとも、“夜を過ごす相手”がいるとなれば、彼女も諦めてくれるだろうと思ったのだよ」
サマエルは微笑んだ。
「あの気配は、やっぱライラか。彼女、お前に首ったけ、って感じだもんな……。
けど、オレをダシに使うなよ、──ううっ!」
ようやく納得した瞬間、相手の唇の感触を思い出し、ダイアデムはさも嫌そうに顔をしかめ、拳で唇をごしごしぬぐった。
「異種族間の恋愛は、面倒の素だからね……」
サマエルは、紅毛の少年の
先ほどの戦いで出来た無数の傷が、まだ生々しく血を流している。
意外に鍛えられ、引き締まったその背中には、夜の闇よりも暗い、コウモリに似た大きな翼が生えていた。
「ンな回りくどいコトするよか、それとかを直接、見せた方がよかったんじゃねーのか……?」
ダイアデムは、魔族の証である彼の翼を指差した。
「……ああ、そうか。その手もあったね……」
魔族の王子は、傷の中でも一番ひどい右肩に左手をかざした。
「──リストール!」
呪文と共に、みるみる傷はふさがっていき、滑らかな新しい皮膚に覆われていく。
「ふうー」
ダイアデムは壁に寄りかかり、大きく息をついた。
「異種族の恋愛は面倒とか、他人事みたく言ってんじゃねーよ。
てめーだけ、うまくやりやがったくせに」
「そうだね。でも代償は、結構高くついたよ……」
「後悔してんのか?」
「いや。しかし、今でも時々、ジルは、私といて、本当に幸福だったのだろうか……と考えてしまうのだよ……。
可能ならずっと一緒にいたかったが、たったの二百年……人間の寿命は、とても短いね……」
サマエルは悲しげに天を仰いだ。
「けど、人間を、魔族並みに長生きさせるのなんて簡単だろ。
何でしなかったんだ? やっぱ、天界がうるせーからか?」
髪を結い直そうとした宝石の少年は、途中で面倒になり、結局、適当に縛って、ぽいと後ろに押しやった。
「……天界うんぬんより、それを彼女が望んだと思うか?」
静かにサマエルは問い返す。
ダイアデムはだるそうに、ゆっくりと首を左右に振った。
「いーや。あいつのことだ。普通でいいとか何とか言ったんだろ?」
「その通りだよ。『永遠の命が欲しくて愛したわけじゃない』、これがジルの口癖だった……」
「お前、まだあいつのことを……? 死んで千二百年も経つってのにさ」
サマエルは淋しげに眼を伏せた。
「……そうだね。未練がましいと、笑われてしまいそうだが……」
「笑やしねーよ。たしかに、印象的なヤツだったよなー。
美人じゃねーし、バカがつくほどおめでたかったけど、魔族だの人族だのって偏見は全ー然ねーし、でっけー眼ぇを、いっつもキラキラさせてさ!」
ダイアデムは、自分も瞳を輝かせた。
魔族の王子は微笑んだ。
「お前もある意味、彼女を気に入っていたと見えるね」
「あ? ま、まあな。あんな偏見ねーヤツ、珍しーし」
「そう。ジルが初めて、私の“魔眼”を見たとき。驚きも怯えも、ましてや逃げ出したりもせず、こう言ったものだ。
『わたしも怒ることがあるし、その時はきっと、すごい顔してると思うわ』とね……」
サマエルは、懐かしそうに言った。
「あはっ、あいつらしいや。……おっとと」
それまで、壁を支えに、どうにか体を起こしていたダイアデムは、笑った拍子に、とうとうベッドに倒れ込んでしまった。
「──ちっ! 散々魔力吸われた上に、余計な
彼のぼやきを聞いたサマエルは、すっと近づき、額に優しく左手を当てた。
一瞬、ダイアデムは身を固くしたが、王子の白い手から魔力が流れ込んで来るのを感じると、体の力を抜いた。
「無理をさせて済まなかったな。もう少し魔力を戻すよ」
「う、うん」
「さ、これでいいだろう」
一呼吸置いて、宝石の少年に手を貸し、起こしてやる。
「……ありがと」
それから、王子は軽く右肩を動かしてみた。翼も問題なく動くようだった。
アナテ女神の神官、“カオスの貴公子”である彼の回復力は、魔族の中でも抜きん出ている。
会話をしている間に、傷はすべて完全に治癒していた。
「──タィフィン、着替えを!」
“はい、お館様”
指を鳴らして使い魔を呼ぶと、どこからともなく返事が聞こえて、空中に瑠璃色のシャツが現れ、見えない手が、彼にそれを着せかける。
「……ありがとう。床の血を消したら、明日の食材をキッチンに用意して。
それで、今日の仕事は終わりだ。先にお休み」
“かしこまりました、お休みなさいませ、お館様”
使い魔は答え、気配を消す。
サマエルは、おもむろに、宝石の化身に向き直った。
「──さて、落ち着いたところで改めて聞こうか。
“焔の眸よ”、正直に答えよ。さっきはなぜ、あれほど凶暴化したのだ?
残り少ない魔力を使い、シンハになってまで?」
「──えっ」
自分を観察しているサマエルの視線を感じながら、ダイアデムは、ぎくりとするのを隠せなかった。
「そ、そりゃ、お前が変なことするから身の危険感じて、それで、つい……」
「身の危険? 口づけがか? あいさつ程度のことではないか。
そんな言い訳で納得させるつもりか!
私とて王子だ、王権の象徴であるお前を消滅させるわけがない。冷静に考えれば
しかも、先ほどは、たしかに殺気を感じたぞ。
王家の守護精霊であるお前が、私に殺意を抱くとは、一体どういうことだ?
お前の悪意が、リオンに向けられる可能性もあるということか?
──答えよ、“焔の眸”!!」
普段は温かく優しいサマエルの声が、一気に冷ややかになり、鋭さを増していく。
いつもは穏やかなその紅い瞳さえもが、魔界王タナトスそっくりの冷酷な光を帯び始めた。
(ま、まずい、すっごーくまずい! ヤバ過ぎる!
こいつを怒らせちまったら……!)
慌てて、周囲を見回すものの、どこにも逃げ場はない。
かばってくれるライラも今はおらず、たとえ全力疾走したとしても、ドアにたどり着く前に魔法で捕えられてしまうのは、目に見えていた。
(な、何てこった、言わなきゃこいつはマジギレして、オレはぶっ壊されちまう……!
でも──でも、口が裂けたって言えない、言いたくない……!
けど、こっちのがバレたりしたら、やっぱりこいつは……。
げ、そ、そんじゃあ、おんなじことじゃねーか! ど、どうすりゃいーんだよぉ……!
そうだ、も一回
気づくと、移動呪文さえ使えないほどの魔力しか残っていないのだった。
途方に暮れる彼に、サマエルの冷静な声が告げた。
「変化が出来ない程度の魔力しか戻さなかった。逃げることはできないぞ。
──さあ、答えよ、ダイアデム。
それとも、私を本気にさせたいのか? この魔眼を使って?」
冷たく冴え冴えと光る紅い瞳に捕らえられて、ダイアデムの体は我知らず、震えた。
「き、昨日は、無理に聞かないって、い、言ったじゃないか……」
「昨日は、確かにそう思っていた。
だが、あまりにお前の様子が妙なので、カマを掛けてみたのさ。
さっきの芝居は、お前の反応を見るためでもあったのだ。
……そうしたら、案の定これだ……。
私ならともかく、リオンは……封印が解けても、実際に魔力を使いこなすにはまだ時間がかかる。
潜在力がどれだけあろうと、お前のように場数を踏んだ魔物相手では、赤ん坊同然だ。
彼に対して、同様の態度を取る気なら、私にも考えがあるぞ……!」
「そ、そんな……。違うんだ、誤解だよぉ、サマエル!
これは、お前だけに関わることなんだ、リオンには、全然関係ないんだって!
ち、誓うよ、あいつには絶っっ対、手を出さないから……!」
必死になって、ダイアデムは手を振り回し、叫ぶ。
しかし。
「それを信じろと言うのか?
忠誠の誓いを破り、魔界王家の王子であるこの私に、牙を向けたお前の言葉を?」
そっけなく答えるサマエルの瞳には、もう、闇の炎の暗い輝きが宿り始めていた。
(ひえ……っ!)
ダイアデムの背筋を、戦慄が駆け抜け、彼は、再び起こる身震いを押さえ切れなかった。
「どうした? 黙っているのは、言う気がない、ということなのか?
……ならば……」
「いや、違、ちょ、ちょっと、ま、待ってくれっ……!」
焦る宝石の化身の額から、冷たい汗が滴る。
それは、落下した途端に結晶化してアクアマリンとなり、淡いブルーの煌きが、かすかな音を立てて床に散らばった。
ダイアデムは、それに気づきもせず、白状しようかしまいか、迷いに迷った。
ちらりと王子を見ては口を開きかけ、またためらっては閉じる。
(サマエルに知られる?
それは……それだけは──死んでも嫌だ、絶対に……!
けど、こっちの方は知られたら、もうそれでジ・エンド……。オレの身は破滅……。
──ああ──! 何で、身の危険を感じたってコト信じてくれねーんだ、サマエル。
どうして、理由なんか聞くんだよぉ、オレは、まだ消えたくないのに……!)
紅い瞳の奥で、黄金の炎が激しく揺らぎ、ダイアデムの内面の葛藤をあらわにする。
第二王子は、そんな彼の様子を、黙したまま、冷ややかに見つめていた。
ダイアデムは、幾度となく言いかけては震えて、どうしても理由を話すことが出来ない。
「大概にするがいい、ダイアデム。待つのにも、限度があるぞ!」
迷ったあげく、ようやく心が決まったのは、サマエルが、氷のように冷酷な声でそう宣告したからだった。