4.黄金の獣(2)
半ば失神状態でその場に崩れ伏した紅毛の少年に代わって、現れたのは一頭の巨大なライオンだった。
たてがみは熱く、めらめらと燃え上がる
左眼は、無表情で透明のままだったが、普段は紅い右眼は、白目の部分までもがすべて金色に染まり、ギラギラと凶暴な光を放っていた。
この獣は、魔界において至宝とされる“焔の眸”の第一化身、シンハ──だった。
『──ガルルル……』
魔界の獅子は、鼻に深いしわを刻み、喉の奥で、低い唸り声を上げる。
「私が悪かった。“焔の眸”よ、怒りを鎮めてくれないか……」
魔族の王子は声を掛けてみたが、言語を解するはずの獣は、それを理解した気配はなく、全身の毛を逆立たせたまま、殺気立って尻尾をくねらせ、すさまじい眼光で、彼を睨んでいた。
(……なんだ? いつものシンハとは、どこか違う……)
サマエルが戸惑ううち、黄金のライオンは爪を剥き出し、ニ、三度床を
それは、完全に彼を“敵”として認識しているというシグナルでもあった。
「一体どうしたのだ、“焔の眸”……」
『──ガウ──ッ!』
再度王子が話しかけた刹那、ライオンは床を蹴り、彼目掛けて飛びかかって来た。
その行動を予測していたサマエルは、特に動揺することもなく身をかわす。
“よさないか、シンハ! 落ち着くのだ、話を聞け!”
そうしておいて、獅子の心に直接念話を送ってみても、やはり返答はない。
(だめだ、通じない。我を忘れているようだな。
彼から放散されているこの“気”……怒りか、それとも恐怖か?
両方混じっている感もあるが。
いずれにせよ、なるべく傷つけずに正気に戻したいが、どうすれば……)
サマエルが考えを巡らすわずかな隙に、ライオンは態勢を立て直し、再び襲いかかってきた。
『──グワオオーンッ!』
激烈な感情に突き動かされているとはいえ、先ほどサマエルにかなりの量を奪われたシンハの魔力は常よりかなり少なく、攻撃するスピードも落ちているため、避けるのもさほど難しくはない。
だが、そこに油断があった。
サマエルが、獣の攻撃を楽々と回避した、次の瞬間。
ライオンは空中で体をひねり、壁を後足で蹴って、彼の肩に、背後から鋭い牙を食い込ませたのだ。
「──し、しまった……!」
黒いフードが衝撃で後ろへ飛び、白銀の髪がなびく。
それでも、噛まれる寸前、身をよじったのが幸いしたのだ。
さもなければ、牙は、首の後ろ──
「や、めるのだ、シンハ!
お前は、魔界王家に、忠誠を誓っているはず、なのに……なぜ、こんなことを?
放……せ!」
『ググググ……』
それには答えず、ライオンは低く唸り声を上げ、サマエルの右肩に噛みついたまま、ローブを鋭い爪でずたずたに引き裂き、さらに傷を増やす。
「くっ、よせ!」
人界のライオンでさえ、獲物を噛み砕く
太い骨も簡単に噛み砕けそうな巨大な牙が、ぎしぎしと音を立てて、王子の肩に食い込んでいく。
そして、獣のもう一つの武器は、体重だった。
サマエルは、倒れないよう、必死に踏ん張らなければならなかった。
引き倒され、六百キロはありそうな体重でのしかかられたなら、彼に勝ち目はない。
喉笛を噛み切られれば、自分は一時的にせよ、“死ぬ”こととなる、それを王子は知っていた。
「く……うう……」
サマエルは、痛みをこらえて右手を持ち上げ、黄金の獣の顔に両手をかけた。
「──はっ!」
気合と共に口をこじ開け、彼はどうにか牙を外した。
あらわになった肩の傷から、どっと血があふれ出し、ローブの下に着ていた鮮やかな青いシャツを紅く濡らす。
巨体の割にしなやかな動きで、音も立てず床に下りたライオンは、その様子を見ると眼を細め、血まみれの鼻面をぺろりとなめた。
金色の眼が一瞬、紅く染まる。
「──
荒い息をつきながら、サマエルは左手で肩の傷をかばい、魔眼を使うことを考えた。
それ以外の魔法は、魔界の獅子に対しての効果は期待薄だったのだ。
(いや、やはり駄目だ……。
今、この力を使えば、魔力の残り少ない彼は、持ちこたえられない。
下手をすれば、本体の“焔の眸”も壊れてしまう……)
彼の
とっさに、サマエルは傷を押さえる左手を放し、それを受け止めた。
「──くっ……!」
痛手を受けた肩に激痛が走り、王子が歯を食いしばるその間にも、シンハは、続けざまに火球を吐き続ける。
使い物にならない右手はだらりと下げたまま、彼は、残る左手一本で、ひたすら火弾を受け止めるものの、間断ない攻撃に、結界を張る時間的余裕もない。
鮮血が、肩から腕を伝って滴り落ちてゆき、床に血溜まりが出来始めた。
(このままではやはりまずい、傷を回復している
これ以上出血が続けば、休眠状態に陥ってしまう。
意識のないうちに首を食い切られでもしたら、さすがの私でも、自力蘇生は無理かも知れない……)
魔族の第二王子は、先ほどからしきりに“死”を意識していた。
特殊な状況でなければ、彼は、簡単に命を落とすことはない。
それでも、不死身とまではいかず、ことに人間型をしているときに、あまりにもひどい傷を負ったり魔力を使い果たしたりすれば、当然、命の保証はなかったのだ。
(やはり、魔眼を使うしかないか……。
こんな私の命など、今さら惜しくもないが、せっかく、子孫の封印を解いてやれるというときに、みすみす……。
仕方がない……)
迷ったあげく、サマエルが決断しようとした時だった。
さすがに、魔界の獅子にも限界が来たと見え、少し前から、徐々に小さくなってきていた火球が、ついに、白い煙が噴出するのみとなったのだ。
しめたと王子が思う間もなく、ライオンは直接攻撃に切り替え、またも走り寄って来て、彼に向かって牙を
(──今だ!)
サマエルは、体内に吸収していたシンハの魔力を、素早く巨大な炎弾に還元し、噛みつこうと大きく開いたその口に投げ返した。
『──ガオゥッ!?』
一瞬面食らった顔をしたシンハは、すぐに転げ回って腹をかきむしり始めた。
このような場合、戻されたエネルギーは、体内で急激な物理変化を起こし、体積が著しく増大して、
「大丈夫だよ、シンハ。何も起きないから、安心しておいで」
語りかけるようなサマエルの言葉の通りだった。
炎弾だったもののエネルギーは爆発するどころか、ライオンの細胞一つ一つに、まるで溶け込むかのように、静かに優しく
「さあ、正気に戻れ。魔界の至宝、“貴石の王”たる美しき“焔の獅子”、シンハよ……。
よくご覧、私は、魔界王家の第二王子サマエル、お前が忠誠を誓った者だ……もう暴れなくていい、誰もお前に危害は加えないよ……」
サマエルは、穏やかな声で、歌うように語りかけた。