4.黄金の獣(1)
会話を続けながら、サマエルとライラは、
空気が次第に冷え初め、梢を渡る風の音が、その寒々しさを一層強く意識させる。
ダイアデムは、ほとんど口を利かず、二人から少し離れたところで、薫り高い魔界の紅茶をすすっていた。
そうやって、夜が
「そう言えば、何をしているのかしら、リオンは……」
ふと、王女は顔を上げ、帰らない子供を心配する母親のような口調で言いながら、窓から外の暗闇を透かし見た。
ここからでは、山の
その背中に、サマエルは声をかけた。
「ケルベロスの話では、彼は、もう少し頭を冷やしたいと言っているそうだ。先に休むといい」
「いえ、もう少し待っていますわ」
「病み上がりなのだろう、無理をしてはいけない。これからが大変なのだから。
私達が起きているし、心配ないよ」
「……そうですわね」
王子に言い
「ああ、迷うといけないな。
──イグニス・ファティアス!
呼び出して行き先を告げれば、これが案内するから。
──客室へ」
命ぜられた青白い幻の火は、ふわふわとドアに向かう。
「ありがとうございます、サマエル様。
では、お先に失礼します、お休みなさい。ダイアデムも」
彼女は小さく頭を下げ、鬼火について部屋を後にする。
「お休み」
「ぐっすり寝ろよー」
去って行く王女に手を振る少年の視線を、サマエルは捉えた。
「ちょっと話がある。私の部屋へ行こう」
「……あ、ああ」
「──で? 何だよ、話って」
部屋へ着くと、ダイアデムは再びベッドに座り、問い掛けた。
魔族の王子は、座した椅子を彼の方に向けた。
「実は、リオンのことで、問題があることに気づいたのだ」
宝石の化身は眉を寄せた。
「……問題……リオンのこと? よっぽど深刻なんか?」
サマエルはわずかに肩をすくめた。
「そうだとも、そうでないとも言えるかな……」
「回りくどい言い方はよせよ、封印解かねー気か、今さら!」
ダイアデムが苛立たしげに叫ぶと、王子は首を横に振った。
「いや、解く気がないわけではないが、今の私には、やはり出来かねるようだ」
紅毛の少年は頭をひねった。
「何だ、それ? ちゃんと説明しろよ、さっぱり分かんねー」
「……私が眠りに入ったのは、
悲しげにサマエルは話し始め、宝石の化身はうなずいた。
「ああ、たしかに、魔力が弱い人間の女どもじゃ、何人食らっても腹一杯にゃなんねーだろな」
「……そうだ。そして……この
ならばと、魔界で女性の精気を取り込もうにも、戻った途端にタナトスに捕らえられ、地下牢に放り込まれて……どんな目に遭うか、分かるだろう……?」
夢魔の王子は、ゆっくりと自分の肩を抱いた。
それだけの
声も甘くなり、同時にサマエルの体から、身も心もとろけさすような悩ましい芳香が、立ち昇り始める。
一旦は妖艶な王子に眼が吸いつけられ、生唾を飲み込んだものの、さすがは夢魔に免疫がある魔界の貴族、すぐに頭を振った。
「……もういい。よせって。
ここに女がいたら一コロだぞ。オレでさえ、くらっと来るってーのに……」
魅惑的な香りは即座に霧散し、サマエルは眼を伏せた。
「……すまない。飢えのせいで、抑制が難しいのだ……」
「んじゃあ、どーすんだよ。
──あっ、まさか、片っ端から人間の女、襲う気か!? ラ、ライラはダメだぞ、マジで!」
ダイアデムは思わず立ち上がり、大きな声を上げた。
「何を言う。本気で、私がそんなことをするとでも思っているのか?」
サマエルの口調は珍しく、
「あわわ、悪りぃ、ンなわけねーよな」
宝石の化身は、慌てて手を振り回した。
苛立ちを
「……まあいい。この際、一番簡単な解決法は、お前の魔力をもらうことだ」
「そっか、灯台下暗しだな!」
ダイアデムはパンと手を打ち合わせた。
これで、ひとまず、飢えた夢魔の王子がライラを襲うという事態は避けられる、そう胸をなでおろし、再びベッドに腰を落とす。
「いいぜ、くれてやる。イナンナの……いや、ライラのためだ、一肌脱ぐぜ。
あ、この体を維持する分は残してくれよ」
「もちろんだ」
サマエルはすいと立ち上がり、フードを取った。
左生え際に一筋、紫の束が見える長い銀髪、額に生えた真珠色に輝く角、緋色の両眼……。
その高貴な顔は、角と髪の色を除けば、兄、魔界王タナトスに瓜二つと言えたが、長年魔界王家に仕えて来た“焔の眸”の意見は違っていた。
眼をよく見れば、王子達がまったく異なる魂を持っているのが一目瞭然ではないか、特にサマエルは、関わる者の運命すべてを変える相を持って生まれて来たように感じられる。
それが、どうして、皆には分からないのだろうと。
魔族の王子は、そんな彼に静かに歩み寄り、あごに軽く手を掛け、少し上向かせた。
「……え? 何だよ、サマ……」
そして不審そうな紅毛の少年の唇を、いきなり唇でふさいだのだ。
「──むぐ……!?」
突然のことに体はすくみ、宝石の化身は、金縛りにあったように動けなくなる。
その期を逃さず、王子は彼の細い手首をつかまえ、魔力を強引に吸収し始めた。
「──う、ぐぐ……!」
我に返ったダイアデムは、必死にもがくものの、サマエルは、しっかりと彼を捕らえ続けた。
ようやく少年が解放されたのは、かなり魔力を奪われてからだった。
ダイアデムは、もはや、自力で起きている力すらなく、相手の胸に抱きかかえられ、あえぐ格好となっていた。
「ふ、ふざけやがって……!
てめー、ンなコト、しなく、たって、吸える、だろが!」
「弱っているときは、触れている方が吸収しやすい。
触れるところはどこでもいいが、唇もなかなか美味……。
女性でないのがちょっと残念だが、たまには
少女と見まごう美しい少年を抱き寄せ、長いキスの後、耳元に口を寄せる美貌の貴公子……となれば、事情を知らない者の眼には、愛をささやき合っている恋人同士のように映るだろう。
そう思ったダイアデムの顔は真っ赤になり、残った力を振り絞って、サマエルに殴りかかる。
「……っ! このヤロー!」
しかし、その手を逆につかまれ、ベッドに押し倒されてしまった。
「──うわっ!? な、何しやがる!」
「いくら照れていても、暴力はいけないな。
キスして欲しいなら、正直にお言い。何度でもしてあげるよ」
「バカ! だ、誰が照れて……やめろ、放せ!!」
ダイアデムの瞳で、黄金の炎が怒りに強く燃え上がる。
肉体的には大人と子供、体力の差は歴然としていたが、普段の元気な彼ならば、難なく跳ねのけられただろう。
しかし、今は、エネルギーを限度ぎりぎりまで奪われ、抵抗する力はごく弱い。
「お前と私の仲ではないか、久しぶりに会ったのだし、今夜は……ふふ、一晩中付き合ってもらうよ」
サマエルは、にこやかに言い放ち、顔を近づけて来る。
銀の絹糸のような髪が頬に当り、ダイアデムの背筋を悪寒が走った。
(ひ、一晩中っ!? 冗談だろ!?)
必死に顔を背けようとするものの、身動きどころか、声すら出ない。
サマエルは魔力まで使い、彼の動きを封じていた。
じりじりと二人の顔は近づいていき、ついにサマエルの唇は、再び少年の唇を捕まえた。
「──うぐうっ……」
ダイアデムは、くぐもった悲鳴を上げる。嫌悪感もさることながら、それ以上の問題があった。
彼は、思念に切り替えて訴えることにした。
“なあ、サマエル、この体は魔力でもってる、これ以上取られたら『オレ』は消えちまう。
……分かってんだろ? 残してくれるって言ったよな、おい──サマエルってば!”
返事はない。
彼は焦った。
“なあ、他のことなら何でも言うこと聞くからさ!
お願いだから、もう勘弁してくれよぉ!”
さらに懇願するものの、魔族の王子が彼を解放する気配はなかった。
(ひょっとして、『あのこと』がバレちまったのか?
ま、まさか、ンなコトあるわけない。
でも、もし、こいつが知ったんなら、オレの人生、終わったな……)
とうとう宝石の化身は抵抗を諦め、眼を閉じた。
それでも、インキュバスの王子は、さし当たっては、それ以上魔力を奪う気配はなく、ダイアデムもそのことにわずかな慰めを見出して、
だが、恐ろしく長く感じられる数分間が過ぎるうち、宝石の化身の忍耐は、限界に達しつつあった。
様々な記憶が脳裏にフラッシュバックすると、嫌悪感に体が
唾液腺からすっぱい液体が分泌され始めて、どうにも吐き気をこらえることが難しくなって来ていた。
(ヤ、ヤバイ。けど、ンなトコでゲロったら、マジぶっ殺されそ……)
“も、もうダメ、お願いだぁ、放してくれぇ、サマエル……”
ダイアデムがついに
わずかに開いていたドアの向こうで、かすかな
この騒ぎの中、今まで、彼は、まったくその存在に気づいていなかった。
(だ、誰かいたのか? ンなみっともないトコ、見られちまった……?)
宝石の化身が聞き耳を立てるうちに、その足音は
直後、サマエルは体を起こして少年を解放し、手を差し伸べた。
「もう起きていいよ、すまなかったね。魔力は少し戻したから」
「──触んな、変態!」
それをばっと払いのけ、ダイアデムは飛び起きた。
「待ってくれ。わけを聞いてくれないか」
サマエルに腕をつかまれた刹那、少年の全身に、電撃めいた
「さ、触んなって言ってんだろうがっ!!
──ううっ……も、もう抑え切れねー……!
お前が、お前が悪いんだ──っ!!」
ダイアデムは叫び、サマエルを振りほどいた。
激烈な吐き気がこみ上げてくる。彼は蒼白な顔で口を押さえた。
「ううう──ううっ!」
目の前が暗くなり、ついに彼は床にうずくまった。
「どうした? 大丈夫か?」
心配そうなサマエルの声も、耳に届かないまま、
それは、どんどん強さを増し、やがて爆発するように強烈な輝きを放った。
ややあって、光が完全に消えたとき、“焔の眸”は、つい今し方までの姿とは、まったく別の形態を取っていた。
魔族にとって、それは馴染み深い姿だった。
サマエルは、無言でフードをかぶり直した。