~紅龍の夢~

巻の四 THE RED DRAGON'S SEAL ─紅龍の封印─

3.危険な記憶(4)

一方、時間を少し(さかのぼ)り、サマエルの屋敷を走り出たリオンは、木の根につまずいてひっくり返ったのを皮切りに、あちこちすりむいたり、引っかき傷をこしらえたりと、散々なありさまだった。
サマエルの“魔眼”……紅く不気味な眼が発する、禍々(まがまが)しい力に追いかけられているようで、どうしても足を止めることができなくなっていたのだ。
そうやって、どこまでも駆け続け、はっと気づいたときには、何と、足下に地面がなかった。

「──うわっ! 落ちる……!」
リオンは、夢中で、切り立った崖の途中に生えた細い木をつかむ。
しかし、それは、人一人の体重を支えるには、あまりに心もとなかった。
ずるずると、木の根は抜けていく。
焦って周囲を見回しても、断崖には、手をかけられる場所などなく、足がかりになるようなものもない。

つま先を何とか突き立てようとしても、垂直な壁は彼を拒むように、ひたすら硬く、まったく歯が立たなかった。
足が岩壁を引っかくたび、乾いた音を立てて欠片が落ちていく先には、底の見えない深い谷間が大きく口を開けている。
このまま、遥か下方の谷底にたたきつけられてしまうのも、時間の問題と思われた。

「も、もうダメだ、ぼくはここからまっ逆さま……。
ああ、ライラ、死ぬ前にもう一度だけキミに会いたい……」
かすれた声を絞り出すリオンの目の前で、ついに、木の根が岩から完全に抜け、体が宙に投げ出された。
「──わああっ、誰か助けて、ライラー!」
彼は絶叫し、手が虚しく空をつかんだ。

その刹那、銀色の影が飛び出し、彼の体をすくい上げた。
たくましい筋肉が躍動し、美しい銀色の毛並みが、優しく彼を包む。
サマエルの家に来る途中ずっとしがみついていた、見覚えがある背中の持ち主は……。

「ケルベロス!」
「ガウウ!」
彼は、一声返事をし、たったの一飛びで絶壁の上に戻る。
リオンは、震える手で、ぎゅっと狼の体を抱きしめた。
「ありがとう! 命の恩人だよ、お前は!」

“マッタク、無茶ヲスルモノダ”
魔狼の念話が、リオンの心に届いたのは、その時だった。
彼は、ぱっと顔を上げた。
「い、今の何? お前の声?」
“ソウダ。ソレグライノ事デ、ナゼ驚ロク? 魔族ノ王子ヨ”
ケルベロスは、不思議そうに、少年の眼を覗き込む。

リオンは、首を左右に振った。
「ぼくは王子なんかじゃないよ。キミのご主人のサマエルは、そうなんだろうけど。
いきなり、魔界の王子様が、自分の先祖だって言われてもね……。
おまけに、いくらご先祖が偉くったって、ぼくはまだ、ロクに魔法も使えないしさ。
でも、どうして、昨日は話しかけて来なかったんだ?」

“許可ナク口ヲ利クノハ、禁止シサレテイルノデナ。
ダガ、タトエ御身(オンミ)ガ王子デハナクトモ、魔族デアルコトニハ違イガナイ。
ツマリ、御身ハ、我々ノ仲間ナノダ”
ケルベロスは、彼の顔をぺろりとなめた。

「はは、くすぐったいよ、ケルベロス」
リオンは笑い、それからすぐに真顔になった。
「ぼくはずっと、自分が人間だと思っていたから……いや、人間だと思っていたかったから、かな。
自分が、普通の人とは違うってことは、小さい頃から分かってたもの。
だから……魔物が、恐くて仕方なかったのかも知れない……」

黒々とした瞳に、狼は考え深げな色を浮かべた。
“御身ガ、魔物ヲ恐レテイタ? ナゼ?”
「魔物のことなんて、ぼく、全然知らなかったんだよ。
だってここは……この世界は、人間ばっかりなんだもん……。
初めて、ダイアデムの眼を見たとき、震えが止まらなかったんだ。
理由は分かんなかったけど、ただただ、恐くて……」
少年は、自分の肩を抱きしめた。

“ソウダナ。『人間』ニハ、我ラノコトハ分カラナイ。
我ラ魔物ニハ、『人間』ノコトガ、ヨク分カルトイウノニナ。
ソレユエ、御身モ気ニスル必要ハナイ。知ラナケレバ、学ンデイケバイイノダカラ”
狼の長は、『人間』と言うときに、軽蔑するように鼻を鳴らすのがくせのようだった。

「うん、そうだね。
じゃあ、さっそく聞いてもいい? お前、何歳になるの?」
“我ハ、千五百年、生キテイル”
魔物は即答し、少年は息を呑んだ。
「せ、千五百歳──!?
じゃ、じゃあ、サマエルはいくつなの?」
“オ館様ハ、二万千二百年ト……少シダ”

「ひえー、すごい、二万歳かぁ──!
ふう。とてもじゃないけど、(かな)いそうもないや……。
そうだ、ついでに聞いとこう。
あの悪ガキ……あ、ダイアデムのことだよ。あいつの年、教えてくれる?」

“『焔の眸』閣下ハ、オ館様ノ、三十倍近クダト聞イテイルガ……シカシ、アノ方ハ、『悪ガキ』ナドデハナイゾ。
閣下ノ本体ハ、『王ノ杖』トモ呼バレ、魔界ニオケル王位ノ象徴、魔界王家ノ守護精霊デモアル。
我ナドヨリ、遙ニ位ガ高ク偉イ、魔界ノ大貴族ナノダゾ”

リオンは、栗色の眼をまん丸く見開いた。
「──ええっ? あいつのどこが、偉い大貴族なんだい?
あんなに口が悪くて、いたずら好きのくせして。
おまけにあいつ、六十万年も生きてるのか? 子供っぽくて、とてもそんな風には見えないけど……。
でも、魔物は十万年くらい生きるんだって?」

“魔物ノ寿命ハ、一概ニハ言エヌガ、タトエバ、前魔界王ベルゼブル陛下ハ、十万歳ヲ超エテオラレル。
ソレユエ、魔界ノ王子ノ血ヲ引ク者ヨ、御身モマタ同様ニ生キルデアロウト、予測ハツクナ”
「……そうか、やっぱりぼくは……」
リオンは唇を噛んだ。人間を遥かに超えた魔物達の寿命に、当惑を隠せない。
そして、自分もその同類なのだという実感が、じわじわと湧いてくる。
落ち込みそうになりながらも、彼はさらに尋ねた。
「けど、どうしてサマエルは、ここで眠ってたの?」

“オ館様ハ、奥方様ガ亡クナッテカラモ、シバラクハ、目覚メテオラレタ。
ゴ子孫ヲ心配サレテ、時折、様子ヲ、水晶球デ、覗イテイラシタノダ。
シカシ、何カアッテモ、手助スケデキズ、タダ見テイルノミ……。
ソレガオ辛イヨウデ、ソノウチニ、ヤメテシマワレタ。
ソシテツイニ、ココニ結界ヲ張リ、眠ッテシマワレタ。
御身達ガ起シニ来ルマデ、三百年ホド眠ッテオラレタ”

「ふうん。でもどうして、あんなことしたんだろう。
勝手にぼくを操ろうとしたんだ、サマエルは……。
そりゃ、たしかに魔法使いになりたくて、ずっと彼を捜してはいたけどさ。
でも、何て言うか、その……次から次へ、びっくりすることばっかりあって、頭がごちゃごちゃになってたところに、無理矢理、……」

ケルベロスは耳を澄ます仕草をし、それから言った。
“オ館様ハ、早ク封印ヲ解イテヤロウト、焦ッテシマワレタヨウダ。
御身ガ、ソレホド嫌ガルトハ思ワナカッタノダ。
今ハ、反省シテオラレ、『済マナカッタ、モウ強制ハシナイ、ダカラ帰ッテキテ欲シイ』、ト(オッシャ)ッテイルガ、ドウスル?”
「……えっ、……」
答えに迷い黙り込むリオンのそばで、魔狼は彫像のように不動の姿勢をとり、辛抱強く待った。

やがて、ぽつりと、少年は言った。
「何か、今すぐには帰りたくないな。あんな風に飛び出して来ちゃって、カッコ悪いし。
もう少しここにいてもいい? もっと話、聞かせてよ、ケルベロス」
片方だけの銀色の耳が、ぴくりと動き、ケルベロスは答えた。
“気ガ済ムマデ外ニイテイイト、オ館様ハ、仰ッテイル。何デモ話シテヤロウ。
ダガ、ソロソロ空腹デハナイノカ? ココデ食事ヲトロウ。
ソレニ少々冷エテキタ。薪ヲ集メテ、火ヲ焚クガイイ。獲物ヲ取ッテキテヤル”

魔狼にそう言われて初めて、体が汗で濡れ、冷え切っているのにリオンは気づき、同時にしゃみをした。
ずっと走り詰めだった上に、崖から落ちそうになったせいで、彼は汗だくになっていたのだ。
「……うん、分かった。このままじゃ風邪引きそうだしね」
ぶるっと身を震わせ、彼は木の枝を集め始める。
さすがは魔物、ケルベロスが炎の息を吐き、火打石よりよほど効率的に薪に火をつけた。

リオンは、野ウサギの肉を焚き火であぶって食べながら、様々なことを聞いた。
ケルベロスは、子供の頃に人界へ来たため、魔界の昔の出来事はあまり知らなかったが、昨夜ダイアデムに聞いたことと合わせて、魔物に関するリオンの知識を飛躍的に増やしてくれた。

「それとさ、本当なのかな、サマエルが、王様とお兄さんを殺そうとした……って?
ダイアデムの嘘だよね、きっと。からかおうとしただけだよね?」
そうは言ったものの、先ほどの瞳の異常な輝きを思うと、それはあながち、虚構ではないように少年には感じられた。
ケルベロスの困惑顔と落ち着かない様子とが、それを助長する。
「どうしたの? やっぱり本当だった?」

すると、意を決したように動きを止め、ケルベロスは、彼を真正面から見た。
“ソレハ真ノコトダ。我ハ詳シクハ知ラヌガ、オ館様ハ、陰謀ニ巻キ込マレ、操ラレテ、ヤムナク、手ヲ下シタト聞ク。
詳細ハ直接、御身ガ訊ケバヨイ。必ズ、オ館様ハ答エテ下サルデアロウ”
「うん。でも、操られたんじゃ、しょうがないよね」
リオンは、自分に言い聞かせるようにうなずく。

不意に気まずい沈黙が訪れ、それを破ろうと彼は口を開いた。
「あ、あの……さ。
屋敷までぼくらを運んでくれた狼って、お前ほどじゃないけど、他の狼より大きかったよね?」
“アレラハ、我ノ息子達ダ”
「え、息子? そうか、いいなあ、家族がいて……。
お前の奥さんって、どんな狼? きのうの群れの中にいたのかい?」
孤独な少年は、うらやましそうに尋ねた。

すると狼は、前に、彼を威嚇したときとそっくり同じ表情をした。
“五百年ホド前ニ死ンダ。……人間ニ撃チ殺サレタノダ。
仇ヲ取ヲウトシタガ、オ館様ニ止メラレタ。
ソレ以来、ムヤミニ話シカケルノハ禁ジラレタガ、禁止ナドサレナクトモ、我ハモウ、人間ナドト話シヲスル気ニハ、ナレナカッタ”
「ご免……。余計なことを聞いちゃって……」
リオンはうなだれた。

ケルベロスは、否定するように、ぶるんと首を振った。
“気ニスルコトハナイ。ダガ、イツマデ、コンナ所ニイルツモリダ?
アノ王女ガ、オ前ヲ心配シテイルト、オ館様ハ仰ッテイルゾ。
我ガママモ大概ニシロ。聞キタイ事ガアレバ、後デ話シテヤル。
戻ルゾ、マタ、我ノ背ニ乗ルガイイ”
「そうだね、二人にこれ以上心配かけちゃいけない、帰ろう。
ありがとう、ケルベロス」
リオンは狼の背中にまたがった。